NO.6 契約内容
現在、2026年5月13日までに書いた全16話を、20話構成で読みやすく修整中です!そこまで読んでくださった皆様は、21話からが続きになりますのでよろしくお願いいたします!
21話以降は、5月中に載せられるよう、鋭意製作中です!引き続きよろしくお願いいたします!
イネスが契約を受け入れた瞬間から、信じられないスピードで準備が進んでいく。
ドレスの採寸がようやくひと段落した頃、今度は現皇帝へのお目通りを済ませるよう告げられた。
簡単に身なりを整え直し、イネスはルシウスと共に皇帝の居室へ向かう。
突然迎えた花嫁に、皇帝がどんな反応を示すのか。
少しばかり不安はあったが、やり切るしかない。
隣に立つルシウスは、何の心配もなさそうな顔をしていた。
部屋へ通されると、現皇帝は広い部屋の奥の椅子に深く腰掛けていた。
病を得ていると聞いていた通り、頬はわずかに削げ、肌の色も冴えない。
だが、こちらを見据える目にはまだ鋭さが残っていた。
「ずいぶん急だな」
開口一番、皇帝はそう言った。
ルシウスは一礼し、少しも動じずに答える。
「はい。父上のご体調も考え、そろそろ身を固める時期だと決心いたしました」
よく言う。
イネスは胸の内だけで思った。
つい先ほどまで、恋も愛も不要だと言い切っていた男である。
それでも皇帝の前では、少しの隙もなく、もっともらしい言葉を並べてみせる。
皇帝は短く鼻を鳴らし、次にイネスへ視線を移した。
ほんの数秒、品定めするような目で見られる。
イネスは静かに頭を下げた。
「イネス・ベルフォールにございます。陛下にお目通りが叶い、光栄に存じます」
「……美しいな」
皇帝は短くそう言った。
祝福というより、これなら悪くないと確認するような響きだった。
「身に余るお言葉にございます」
イネスが答えると、皇帝はもう一度ルシウスを見る。
「女遊びにはもう飽きたのかと思ったが、ようやく落ち着く気になったか」
父親らしい冗談というより、半ば皮肉に近い言葉だった。
それでもルシウスは顔色ひとつ変えない。
「ご安心いただけるなら幸いです」
皇帝はそれ以上、結婚について深く問わなかった。
心から歓迎するでもなく、強く疑うでもなく、ただ決まったことを確認しただけのようだった。
「よい。下がれ」
五分もかからず、面会は終わった。
部屋を辞し、扉が閉まる。
あまりにも短い面会に、イネスは拍子抜けする。
けれどなぜか、皇帝の姿が自分の父と少し重なって見えた。
子に対して、深く踏み込まないところが。
ルシウスもまた、父について語るつもりはないらしい。
二人は何も言わないまま、その場を後にした。
***
その頃、ベルフォール伯爵家には王宮から正式な書状が届けられていた。
第一皇子ルシウス・アルヴェインが、ベルフォール伯爵令嬢イネス・ベルフォールを妻に迎えること。
挙式は三日後。
必要な準備と手続きは、王家側が主導すること。
文面は簡潔で、決定事項だけが並んでいた。
広間でそれを読んだギスランは、しばらく無言だった。
驚きで言葉を失っているのかと思えば、やがて顔に浮かんだのは戸惑いではなく、押しきれない喜色だった。
「まさか、本当にここまでとはな……」
呟きには、父親の感慨よりも家長の打算が濃かった。
ベルフォール伯爵家が王家と結びつく。
その意味する利益の大きさを、彼は誰よりも早く計算していたのだろう。
ギスランは手にした書状を、傍らのリオネルへ無言で差し出した。
受け取ったリオネルは、おそるおそる文面へ目を落とす。
読み進めるうちに、その目がみるみる丸くなった。
「姉上が……第一皇子妃に?」
思わず漏れた声は、驚きと現実味のなさが半分ずつ混じっている。
けれど次の瞬間には、ぱっと表情が明るくなった。
「すごい……」
そこには無邪気な驚きと、素直な誇らしさがあった。
心配がないわけではないのだろう。
だがそれ以上に、姉が王家へ嫁ぐという事実の華やかさのほうが、今の彼には大きいらしい。
ギスランはその様子を横目で見て、一度だけ息を吐いた。
この息子は、イネスほどの技量はない。
なおさら娘に対する期待が膨らむ。
彼女を育てたかいがあった。
夕陽の差し込む広間で、書状の紙だけが妙に白く見えていた。
***
王宮では、夜が近づいても慌ただしさが消えなかった。
翌日の段取り、式の流れ、呼称や作法の確認。
次から次へと告げられることを聞いているうちに、時間の感覚が薄れていく。
人の気配が途切れたのは、夜も更けてからだった。
最後の確認を終えた侍女が一礼し、静かに扉を閉める。
ようやく一人になれた室内で、イネスは小さく息を吐いた。
今日一日で、あまりにも多くのことがありすぎた。
明日からはもう、第一皇子の婚約者として、誰の目にもふさわしく振る舞わなければならない。
鏡台の前に腰を下ろし、ほどいた黒髪に指を通した、その時だった。
扉が控えめに叩かれる。
「……どうぞ」
入ってきたのは、ルシウスだった。
イネスは立ち上がる。
「こんな時間にどうなさいましたか」
「確認だ」
ルシウスはそう言って部屋の中央まで歩み寄った。
「準備は順調らしいな」
「いえ。あまりのスピード感に少々驚きましたが」
イネスが答えると、ルシウスは口元を緩めた。
「王家の使用人たちは仕事が早いからな」
まるでそれが当然だと言わんばかりの言い方だった。
実際、彼にとっては当然なのだろう。
ルシウスはイネスの前で足を止める。
「好きになったら終わりだという話は、昼にした通りだ」
「ええ」
「だが、だからといって他人のように暮らすわけにはいかない」
イネスは黙って続きを待った。
「夫婦として違和感のない距離でいなくてはならない。婚姻後は普段からも夜を共にしてもらう」
その一言に、イネスの睫毛がわずかに揺れた。
理解していなかったわけではない。
ただ、こうしてはっきり言葉にされると、やはり少し警戒する。
「……跡継ぎのための夜伽は承知しておりますが、普段から必要ですか?」
静かな問いだった。
けれど、その声にはわずかに揺らぎが混じっていた。
今までなびかなかった翡翠の瞳が、ほんの少しだけ揺れる。
それがルシウスには妙に新鮮で、ひどく面白かった。
だからつい、踏み込みたくなってしまった。
「もちろん」
低く落とした声とともに、彼の手がイネスの腰へ回る。
「夫として、君のことを隅々まで知っておく必要がある」
不意に縮まった距離に、イネスは一瞬だけ息を呑んだ。
けれどすぐに表情を戻そうとする。その様子すら、今のルシウスには面白い。
「……そのような契約が含まれるとは知りませんでした」
イネスがそう言うと、ルシウスはわずかに目を細めた。
至近距離で紺の瞳に見下ろされ、イネスはわずかに息を詰める。その揺らぎをルシウスは見逃さない。彼の口元がわずかに緩んだ。
「では、やめるか?」
「……いえ、問題ありません」
そう言いながらも、視線だけはわずかに逸らす。
次の瞬間、彼の指先がそっとイネスの顎に触れた。
軽くすくい上げるようにして、逃がしかけた視線を引き戻される。
近い。
少し身じろげば触れてしまいそうなほど、顔と顔の距離が縮まる。
吐息すらかすかに届きそうで、イネスは思わず呼吸を浅くした。ほんの一瞬、このまま口づけられるのではないかという考えが胸をよぎる。
「そんな目をして言われてもな」
低く落ちた声に、イネスの呼吸がわずかに乱れた。
それを見たルシウスは、隠しもせずに愉しげに目を細める。
「強がっているように見える」
図星を突かれたようで、イネスは一瞬だけ言葉に詰まった。
けれど、すぐに翡翠の瞳をまっすぐ向け返す。
「……そんなことはありません」
即座に返したものの、いつもよりほんのわずかに声が硬い。
耳の先がうっすらと熱を帯びているのを、ルシウスは見逃さなかった。
「そうか。ならいい」
口元に笑みを浮かべたまま、顎に触れていた手を離す。
イネスは小さく息をついた。
動揺したのを悟られたことが少し悔しくて、わずかに唇を結ぶ。
「安心しろ。今夜どうこうする気はない」
「ただ、慣例的に式の後は同じ寝所を使うことにはなるだろう」
にやりとした笑みを残して、ルシウスはようやく腰に回した手も離した。
イネスはすぐには口を開かなかった。
ほんの少しの不満と、わずかな恥じらいを滲ませた目でルシウスを見返す。
その表情に、ルシウスはまた少しだけ目を細めた。
「明日から私たちは、愛し合う夫婦のように振る舞う」
その言葉は、先ほどとは少し変わって真面目な声音だった。
「期待している」
イネスは一呼吸置いてから答える。
「努力いたします」
短く、決意のこもった声だった。
ルシウスは満足したように頷く。
「君ならできるだろう」
それだけ言って踵を返し、扉へ向かう。
去り際に振り返ることはしなかった。
「休め。明日も長い」
扉が閉まる。
静かになった室内で、イネスはしばらくそのまま立ち尽くしていた。
頭では分かっていても、実感が湧かなかったことが、少しずつ現実味を帯びてくる。
夫婦としての務め。
第一皇子の妻としての役目。
明日からは、誰の目にも完璧な花嫁でいなければならない。
イネスは静かに息を整えた。
逃げ場など、もうどこにもない。
ならば、演じきるだけだ。




