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女遊び好きな皇子に契約結婚を申し込まれましたが、お互い好きになったら離婚だそうです  作者: 春野スミレ


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NO.5 誓いのかたち

 結婚式の朝、イネスはまだ薄暗い静けさの中で目を覚ました。

 目を開けた瞬間、今日が何の日か理解する。


 王宮の一室。見慣れない天蓋。重たい帳の隙間から、かすかな朝の気配だけが差し込んでいた。


 ついにこの日が来た。

 王都へ呼ばれ、結婚を告げられ、気づけば三日。

 あまりにも早くて、まだ実感は薄い。

 それでも、時間は待ってはくれなかった。

 寝台の上で身を起こしたところへ、控えめなノックが響く。


「奥様、よろしいでしょうか」


「ええ」


 返事をすると、侍女たちが静かに入ってくる。

 皆、嬉しそうで、少し浮ついた表情を隠しきれていない。

 王宮に仕える者たちにとって、第一皇子の婚礼はそれだけ特別なのだろう。


「おはようございます、奥様」

「本日はいよいよでございますね」


「おはよう、そうね」


 イネスがそう返すと、すぐに支度が始まった。

 寝間着の上から薄い衣を羽織らされ、湯気の立つ別室へ通される。磨かれた銀盆に用意された湯、白い布、ほのかな香りの香油。

 結婚式当日とあって、どれも気合いが入っている。


 ……すごい。


 思わず、そんな言葉が胸の奥に浮かぶ。

 侍女たちの手によって髪が結い上げられ、化粧が施される。

 イネスはされるがままに身を任せた。


 やがて、白い箱が運び込まれた。

 蓋が開いた瞬間、部屋の空気が変わる。

 そこにあったのは、この日のために仕立てられた純白のドレスだった。


 雪のように冴えた白。幾重にも重なる布地はやわらかな光を含み、胸元から裾へ落ちる線はひどく優雅だ。刺繍も真珠も控えめだが、目を見張る美しさがある。


 侍女たちの手を借り、ドレスを身に纏う。

 結い上げられた黒髪にヴェールが重ねられ、最後に耳元と首元へ控えめな真珠が添えられる。鏡の前へ立たされた瞬間、若い侍女が思わず声を漏らした。


「まあ……」

「本当に、お綺麗です」

「殿下もきっとお喜びになりますわ」


 祝福の声が重なるほど、少しだけ気恥ずかしくなる。

 イネスは鏡の中の自分を見つめた。

 そこにいるのは、見慣れた自分ではない。


 本当に、結婚するのね。


 喜びや不安がある訳では無い。

 ただ、静かに現実が実感となって訪れてくるだけだった。


***


 その頃、ルシウスもまた別室で支度をしていた。


 真っ白な礼服は銀の髪によく馴染み、立っているだけで“第一皇子”という肩書きが様になる。

 ジャケットを羽織ると、側近が一歩引いて全体を確かめる。


「よくお似合いです、殿下」

「これなら誰も疑いようがありません」


 ルシウスは鏡越しに目を細めた。


「当たり前だ」


 言い切ってから、ほんの少しだけ口元を緩める。


「……それで?」

「花嫁のほうは」


「滞りなく。奥様の支度も整いつつあると」


「そうか」


 短く返したくせに、胸の奥は妙に落ち着かない。

 あの女が、どんな姿で現れるのか。どんな顔で、礼拝堂へ歩いてくるのか。

 側近が小さく笑う。


「……楽しみでいらっしゃいますか?」


「悪いか」


「いいえ。むしろ、よろしいかと」


 一度だけ息を吐き、視線を鏡から外す。


「行くぞ」


 ルシウスは、返事を待たず歩き出した。


***


 花嫁支度が整う頃には、王宮の空気もすっかり婚礼のものへと変わっていた。


「お時間でございます、奥様」


 侍女に促され、イネスは部屋を出た。

 礼拝堂へ続く回廊は静かだった。

 磨かれた床に、ドレスの裾がかすかな音を立てる。歩幅を間違えればすぐに乱れそうな衣装なのに、不思議と足取りは落ち着いていた。


 やがて、重々しい扉の前に着く。

 その向こうからは、かすかに音楽が聞こえていた。


 扉の前には、父ギスランが待っていた。

 正装に身を包んだ父は、いつもより厳めしく見える。


「お父様」


 声をかけると、ギスランはゆっくりとこちらを向いた。

 その目が、イネスの姿を捉える。


 純白のドレス。ヴェール。花嫁として仕上がった姿。

 ギスランは一瞬だけ、言葉を失ったように見えた。


 婚姻が決まってから、わずか三日。

 その速さには、父でさえ驚いていたのだろう。

 けれどこうして花嫁姿のイネスを前にして、ようやく実感が追いついたようだった。


「……本当に、結婚するのだな」


「はい」


 イネスは静かに答えた。

 ギスランはもう一度、イネスを見る。

 父親が娘の花嫁姿に見入る、というには少し違う。けれど、いつものように仕事の出来を確かめる目とも、どこか違っていた。


「お前が第一皇子妃になるとは」


 感慨のようでいて、まだ半分は信じられないような声だった。


「私にも、まだ少し実感がありません」


 そう返すと、ギスランはわずかに目を伏せた。

 そして、すぐにいつもの顔へ戻る。


「……ベルフォールの名を、傷つけるな」


 相変わらず感情の乗らない言葉だった。

 けれど、いつもよりほんの少しだけ。声が柔らかいような気がした。


「心得ております」


 イネスは静かに答えた。

 ギスランが腕を差し出す。


「参ろう」


「はい」


 イネスは、その腕にそっと手を添えた。

 一度だけ息を吸い、ヴェール越しの視界をまっすぐ前へ向ける。


 扉が開いた。

 礼拝堂の空気が、ふっと変わる。

 それまで遠くに聞こえていた音楽が、急にはっきり耳に届いた。大勢の人が息を潜めている気配も分かる。


 まっすぐに伸びる通路の先、祭壇の前にはルシウスが立っていた。

 ヴェール越しでも、その姿だけははっきりと見える。

 純白の礼服に、淡く光る銀の髪。

 深い紺の瞳。


 第一皇子たる風格があった。


 イネスは、父の腕に手を添えたまま一歩を踏み出す。

 ドレスの裾が床を擦り、小さな音を立てる。

 左右から視線が集まるのが分かった。けれど、そちらは見ない。今はただ、祭壇の前にいるルシウスのもとまで歩けばいい。


 背筋を伸ばし、まっすぐと。

 通路の途中、参列席の端にリオネルの姿が見えた。

 彼は目を丸くしてイネスを見ていた。

 それから、少しだけ泣きそうな顔で笑った。

 その表情を見た瞬間、イネスの胸の奥がほんの少しだけやわらぐ。


 イネスは目元だけで小さく応え、すぐに前を向いた。

 祭壇の前では、ルシウスがこちらを見ている。


***


 ルシウスは、イネスが歩いてくるのを見ていた。


 父の腕に手を添え、背筋を伸ばし、一歩ずつ祭壇へ向かってくる。

 契約のための結婚だ。互いの利害が一致しただけの、形式だけの婚姻。


 そのはずなのに。


 純白のドレスに、艶やかな黒髪がよく映えていた。

 ドレスの隙間からのぞく白い肌も、ヴェールの下で控えめに伏せられた睫毛も、妙に目を引く。


 やがて、イネスが顔を上げた。


 ヴェールの向こうに隠れた翡翠の瞳が、まっすぐにルシウスを見る。

 その視線が交わった瞬間、ルシウスは息をするのを忘れた。


 ほんの一瞬。

 誰にも気づかれないほど短い間。


 けれどたしかに、胸の奥が静かに震えた。


 祭壇の前で、ギスランが足を止める。

 イネスも静かに立ち止まり、父の腕に添えていた手をほどく。


 ギスランはその手を一度、自分の手の上に乗せた。

 それから、ゆっくりとルシウスの前へ導く。


 白い手袋に包まれたイネスの手が、父から花婿へと渡される。


 ベルフォール家から、アルヴェイン王家へ。


 ルシウスが手を差し出す。

 ギスランは、イネスの指先をその手の上へ重ねた。


 細い指先が、ルシウスの手に触れる。


 ギスランが一歩下がる。

 ルシウスはイネスの手を取ったまま、祭壇へ向き直った。


 神官が静かに頷き、式が進み始める。

 礼拝堂に、古くから伝わる婚礼の言葉が響いた。

 夫婦の結びつき。神の祝福。互いを支え、共に歩むという誓い。

 その言葉は、白い石の壁にやわらかく反響し、二人の上へ静かに降りてくる。


 イネスはそれを聞きながら、奇妙なほど冷静だった。

 まるで、本当に愛し合う二人のための儀式みたいだ。

 ここには契約の香りなど、少しもない。


 ただただ、不思議だった。


 やがて神官は、ルシウスへ向き直る。


「ルシウス・アルヴェイン」


 名を呼ばれ、ルシウスが静かに顔を上げた。


「汝はここに立つイネス・ベルフォールを妻とし、健やかなる時も、病める時も、富める時も、貧しき時も、これを愛し、敬い、生涯その手を取り続けることを誓いますか」


 礼拝堂が、しんと静まり返る。

 ルシウスははっきりと、低く、よく通る声で答える。


「誓います」


 たった一言だけなのに、その声は礼拝堂の奥まで静かに届いた。

 次に、神官の視線がイネスへ向けられる。


「イネス・ベルフォール」


 自分の名が、礼拝堂に響く。


「汝はここに立つルシウス・アルヴェインを夫とし、健やかなる時も、病める時も、富める時も、貧しき時も、これを愛し、敬い、生涯その隣に立ち続けることを誓いますか」


 愛し、敬い。

 その言葉だけが引っかかる。

 神の前で口にするには、あまりにまっすぐすぎる言葉。

 それでもイネスははっきりと答えた。


「誓います」


 神官が頷き、祭壇の脇に控えていた少年が、銀の小箱を捧げ持って進み出る。

 箱の中には、二つの指輪が並んでいた。

 細やかな細工の施された指輪は、光を受けて静かに輝いている。


 ルシウスがイネスの手を取る。

 その指先は驚くほど優しかった。

 丁寧に、左手の薬指へ指輪を通していく。


 ほんの短い所作なのに、妙に長く感じた。


 次は、イネスの番だった。

 ルシウスの手を取り、白い礼服の袖口から覗く指へ、同じように指輪をはめる。


 神官が最後の祝福の言葉を告げる。

 その直後、礼拝堂が静まり返った。


 誓いの口づけ。

 ルシウスが一歩近づく。

 彼の指先が、ヴェールの縁に触れた。


 ふわりと薄い膜が持ち上がる。

 遮られていた視界がひらけた瞬間、紺の瞳がまっすぐにこちらを見た。


 新婦を愛しそうに見つめる目。

 そう見えるだけなのか。

 どこまでが本当なのか。

 やっぱり、分からない。


 ルシウスの手が、そっとイネスの肩に添えられた。

 その瞬間、イネスの身体がほんの少しだけ強張る。

 誰にも気づかれない程度の、小さな反応だった。


 けれど、ルシウスは見逃さなかった。

 紺の瞳が、わずかに細められる。

 ただその強張りを受け止めるように。


 そして、彼は静かに顔を寄せた。

 唇が触れる。

 驚くほど優しい口づけだった。


 イネスは一瞬だけ呼吸を忘れる。

 やがて唇が離れると、礼拝堂に小さなざわめきが広がった。

 抑えきれなかった祝福の吐息のような音だった。


 イネスはその音の中で、静かに思う。

 これで、本当に終わった。

 いや、始まったのだ。


 神官の声が、二人を正式な夫婦として認める。

 礼拝堂の空気が、ゆっくりとほどけていった。

 張りつめていたものが緩み、あちこちから小さな祝福の声が重なる。


 ルシウスは一歩引くと、イネスへ腕を差し出した。

 イネスは迷わず、その腕に手をかける。


 ルシウスが出口に向かって歩き出す。

 イネスもそれに合わせて、ゆっくりと足を進めた。


 ヴェールの端が、歩みに合わせてかすかに揺れる。

 その背中に、祝福の拍手が降り注いだ。

 初めは控えめに。

 やがて礼拝堂全体へ広がっていく。


 拍手の音に混じって、祝福の声が聞こえた。

 誰もが笑っていた。

 誰もが二人を祝福しているように見えた。


 今この瞬間、イネスとルシウスは、誰の目にも美しい新郎新婦として映っているはずだった。


 礼拝堂の重い扉が音を立てて閉じた瞬間、拍手と祝福の声が一段遠のく。


 ルシウスが小さく息を吐いた。

 それから、ほんの少しだけ口元を緩める。


「……なかなかよかったな」


 契約のための儀礼を終えた感想にしては、少し楽しそうだった。

 ほんのわずかに、心からそう思っているように聞こえる。


「それは、なによりです」


 イネスも同じ温度で返したつもりだった。

 けれど、思ったより少しだけ柔らかな声音だった。


 礼拝堂の儀式は無事に終わった。


***


 式のあと、二人は一度控えの間へ戻された。

 イネスはヴェールを外され、乱れかけた髪とドレスの裾を整えられる。


 礼拝堂での誓いの後には、大勢の貴族たちが待つ披露宴へと移る。


 イネスはふと、自分の左手を見た。

 薬指に、指輪がある。

 喜びというよりは、もう外せない印のように見えた。


 支度が整うと、ルシウスとともに披露宴会場に向かった。

 入場の扉の前に立つと、礼拝堂の静けさとは違う、人の笑い声、甘い酒の匂い。祝宴の浮かれた音楽が聞こえてくる。


 ルシウスがちらりとイネスを見る。


「疲れていないか」


「問題ありません」


「それはよかった」


 小さく笑うと、ルシウスは前を向き直った。


 扉が開かれると、広間中の視線が一斉に二人へ注がれた。

 高い天井から吊るされた燭台の光。磨かれた銀器。色鮮やかな花々。杯を手に談笑していた貴族たちが、まるで合図を受けたようにこちらを向く。


 一拍遅れて、ざわめきが広がった。

 そしてすぐに、祝福の拍手が巻き起こる。

 純白の礼服を纏った第一皇子。

 その隣に立つ、同じく白のドレスを纏った新しい妻。


 二人は、どう見ても完璧だった。

 美しく、気品があり、王家の婚礼にふさわしい姿をしていた。

 契約で結ばれたとは誰も思わない、見惚れるほど美しい新郎新婦だった。


「おめでとうございます、殿下」

「奥様も、どうか末永く」

「まあ……なんてお美しい」


 祝福の声が、拍手の中から次々に重なっていく。

 ルシウスは自然に歩を進めた。

 イネスはその腕に自分の腕を絡め静かについて行く。


 広間の奥、上座には皇帝が座していた。

 ルシウスがまっすぐにそちらに向かい、一礼する。

 イネスもそれに合わせ、深く膝を折った。


 皇帝は椅子に腰掛けたまま、二人を見ていた。

 顔色は決して良いとは言えない。だが、こちらを見下ろす目だけはまだ鋭い。


「よい式だった」


 低く、短い声だった。


「ありがたきお言葉にございます」


 ルシウスが淀みなく答える。

 その視線が、イネスへ向く。


「ベルフォールの娘」


「はい」


「今日からは第一皇子妃だ。ルシウスを支え励め」


 父親としての温かさよりも、王としての確認に近い言葉だった。

 けれど、そこに軽んじる響きはない。

 イネスはもう一度、深く頭を下げる。


「誠心誠意、務めてまいります」


 皇帝はわずかに目を細めた。

 最後にルシウスを見て、短く告げる。


「よい妃を迎えたな」


「ありがとうございます、父上」


 ルシウスは微笑んだ。

 その笑みがどこまで本心なのか、イネスには分からない。


 皇帝への挨拶を終えると、あとは流れるように進んでいった。

 王族の親族。古くから王家に仕える貴族。格式ある家の夫人たち。

 ルシウスはその一人一人に、イネスを紹介していく。


「妻のイネスです」


 その言葉を聞くたび、周囲の目が少しだけ柔らかくなる。

 イネスも、そのたびに膝を折る。


「イネス・アルヴェインにございます。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします」


 アルヴェイン。

 自分の口でその名を名乗るたび、少しずつ現実味が増していく。


 返ってくる言葉はどれも華やかで、祝福に満ちていた。

 だが、そこに驚きや好奇心が混じっていることくらい、イネスにも分かる。

 探る視線さえ、祝宴の光の中では美しい飾りのように見えた。


 ルシウスは終始、完璧な夫だった。

 それを見ている令嬢たちの視線には、羨望が混じっている。


 やがて、ベルフォール家の者たちの姿も見えた。

 ギスランはどこか緊張した顔をしていたが、その奥に満足の色があることは隠しきれていない。王家の祝宴に招かれ、第一皇子妃となった娘の父として立つ。彼にとって、それは大きすぎるほどの栄誉なのだろう。

 ルシウスが、イネスを伴って足を止める。


「ベルフォール伯」


 名を呼ばれ、ギスランはすぐに深く頭を下げた。


「殿下。このたびは、身に余るお話を賜り……」


「今日からは義父上と呼ぶべきかな」


 ルシウスが穏やかに言うと、ギスランが一瞬だけ言葉に詰まった。


「いえ、そのような……恐れ多いことでございます」


「では、いずれ慣れてもらうことにしよう」


 柔らかな笑みだった。

 冗談のようにも聞こえるのに、どこか気さくで場を和ませるような言い方。

 イネスは隣でそれを見ていた。


 この人は、こういうことまで自然にできるのね。


 本当に愛する人の父と挨拶をするような、そんな態度だった。


「イネスをよろしくお願いいたします」


 ギスランが改めて頭を下げる。


「もちろん。大切にする」


 ルシウスは迷わずそう答えた。

 ギスランは嬉しそうに頷いている。

 その隣で、リオネルがこちらを見ていた。

 目が合った瞬間、彼はぱっと顔を明るくする。


「姉上」

「とても綺麗です」


 小さく控えめで、まっすぐな言葉だった。

 祝宴の華やかな賛辞より、その一言のほうが胸に届いた気がした。

 イネスはほんの少しだけ、表情をやわらげる。


「ありがとう、リオネル」


 リオネルは嬉しそうに笑った。

 ギスランが軽く咳払いをしたので、彼は慌てて姿勢を正す。

 それを見て、イネスは少しだけ目元を和らげた。


 ルシウスは何も言わなかった。

 ただ、そんなイネスの横顔を見ていた。

 

***


 やがて、人の輪がゆるむ。

 ルシウスはその隙を逃さず、そっとイネスの手を取った。


「そろそろ失礼しよう」


「……もう、ですか?」


 思わずそう返すと、ルシウスは周囲には聞こえないほどの声で笑った。


「私たちには、この後があるからな」


 耳元に落とされた声に、イネスは一瞬だけ返事を忘れた。

 そうだった。

 婚姻を申し込まれた夜、ルシウスが言った言葉を思い出す。


 イネスは何も返せず、ほんのわずかに視線を伏せた。

 その反応を見て、ルシウスの口元がわずかに緩む。

 けれど彼は、それ以上何も言わなかった。

 すぐに周囲へ向け、穏やかに微笑む。


「皆、今日はありがとう。名残惜しいが、妻も疲れてしまう。私たちはこのあたりで失礼する」


 丁寧で、自然な言い方。

 けれど、祝宴に集まった者たちはその先を自然に察したらしい。

 あちこちで、微笑ましげなざわめきが起きる。


「おめでとうございます、殿下」

「奥様も、どうぞごゆっくり」

「末永くお幸せに」


 祝福の声が、先ほどより少しやわらかい熱を帯びる。

 イネスはその意味を理解して、また少しだけ頬が熱くなるのを感じた。

 それでも表情は崩さず、静かに一礼する。


「皆様、本日はありがとうございました」


 拍手と祝福の声に見送られながら、二人は宴会場を後にした。

 扉が閉まる直前、イネスは一度だけ広間を振り返る。


 燭台の光。

 色鮮やかな衣装。

 笑顔。拍手。

 そこにあるものは、すべて華やかだった。


 扉が閉まると、今まで鳴り響いていた音楽や、人々のざわめきが遠ざかり、回廊に静けさが戻る。


 式も、祝宴も、無事に終わった。

 けれど。

 花嫁の夜は、まだ終わらない。

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