NO.4 王家の花嫁
ルシウスの部屋を辞したあと、イネスは王宮の一室へ通された。
客間として整えられたその部屋は、ベルフォール伯爵家の応接間と比べものにならないくらい広く、磨き上げられた床と高い天井が、そこに立つ人間をひどく小さく見せた。
大きな窓から午後の光が差し込み、白い壁と金の装飾を淡く照らしている。美しい部屋だったが、妙に落ち着かない。
椅子に腰を下ろし、ようやく一息つけるかと思った、その時だった。
扉が開き、侍女と女官たちが次々に入ってくる。
布地を抱えた者。帳面を持つ者。宝飾箱を運ぶ者。誰もが迷いのない足取りで部屋へ散り、挨拶もそこそこに動き始めた。
「失礼いたします」
「すぐに採寸を」
「式服の仕立てに間に合わせなければなりません」
「こちらへ、ベルフォール様」
息をつく間もない。
イネスは一瞬だけ瞬きをした。
まだ頭の中では、ルシウスの言葉がかすかに反響している。
私の妻になってほしい。
それをつい先ほど了承したばかりだ。
だがこの結婚は、そんなイネスの戸惑いなど知ったことではないらしい。
返事をした瞬間から、いやもしくは、返事をする前から決まっていたことのようだった。
「ベルフォール様、お立ちくださいませ」
促され、イネスは立ち上がる。
採寸用の紐が肩から腕へ、腰から裾へと滑っていく。女官たちの手つきはよどみがなく、こちらの躊躇など入り込む隙はなかった。
部屋へ運び込まれた布は、どれも眩しいほど白かった。
雪のように冴えた白。
真珠を思わせるやわらかな白。
銀糸の刺繍を散らした、光を含む白。
どれも結婚式のために用意された一級品であることは明らかだ。
「挙式は三日後でございます」
「三日後……?」
思わず、イネスは顔を上げた。
告げた女官はにこやかに頷く。
「はい。陛下のご体調もございますし、殿下も急ぎ整えるよう仰せでしたので」
三日後。
今日登城して、契約を持ちかけられ、三日後には結婚式。
さすがに早すぎる。
だが、周囲の誰一人としてそれを不自然とは思っていない顔をしていた。
「急なお話で、私どもも驚きましたけれど」
若い侍女の一人が、純白の布を広げながら声を弾ませた。
「まさか殿下が、こんなに早くお決めになるなんて」
「本当に」
「でも、ベルフォール様ほどお綺麗な方なら納得ですわ」
「ええ、よかった」
ひそひそと交わされる声音には、微笑ましいものを見るような響きが混じっている。
殿下がついに花嫁を。
しかもお相手はこんなにも美しい方。
そんな空気が、隠しきれないほどあった。
当然だ。彼女たちは契約結婚だなどとは知らない。
第一皇子がついに妻を迎える。あるのはその事実だけだ。
「こちらの布はお顔映りがやわらかくなりますね」
「ですが、殿下のお隣に立たれるなら、もう少し冴えた白のほうが」
「黒髪にはこちらが映えますわ」
「まあ、本当にお人形のよう」
次々に言葉が飛ぶ。
その中でイネスは、ただ静かに立っていた。
王族と結婚するのであれば、当然だといえばそうだが、ここまで盛大に準備が行われるとは想像出来なかった。
あまりの状況に、ほんの少しだけ怖気づく。
「こちらを肩に当てます」
「少し失礼いたしますね」
純白の生地が肩口へそっと掛けられた。
鏡の前へ立たされると、純白の布をまとった自分の姿が映し出される。
イネスは花嫁姿の自分を想像して、とんでもない契約をしてしまったかもしれないと思った。
「やはりこの白が」
「ええ、ベルフォール様の肌にはとても」
「殿下もきっとお喜びになりますわ」
そんな声が上がった時だった。
再び扉が開いた。
女官たちの手が止まり、部屋の空気が一瞬で変わる。
入ってきたのはルシウスだった。
銀の髪は冷たい光を帯び、紺の瞳には微かな笑みが浮かんでいる。先ほど結婚を打診してきた男と同じはずなのに、その表情は花嫁となる女性を心から待ち望んでいたようなものだった。
その視線がイネスを捉える。
採寸の途中だったため、純白の布地が肩から胸元にかけて当てられ、黒髪も女官に軽く整えられたところだった。まだ花嫁の形にはなっていない。だが、それでも十分に目を引く。
ルシウスは一瞬だけ黙り、それから自然に言った。
「やはり美しいな。よく似合っている」
あまりにもさらりと言われて、イネスは一瞬だけ言葉を失った。
好きになるなと言うくせに、こういうことは平然と口にする。
普通の令嬢なら、きっとそれだけで振り回されるのだろう。
「……ありがとうございます」
それだけ返すと、ルシウスは満足そうにわずかに目を細めた。
そのやり取りを見ていた侍女たちの間に、かすかなざわめきが広がる。
「まあ……」
「殿下があんなふうに」
「お似合いですわ」
「本当に……」
声は小さい。けれど隠しきれていない。
きゃあと胸を弾ませる気配が、部屋の隅々にまで漂っていた。
彼は宝石箱の中を一瞥し、一つの首飾りを取り上げた。銀細工に小さな真珠を連ねた、シンプルなものだ。
「これだな」
ルシウスはその首飾りを女官へ渡しながら、イネスを見た。
「君は飾り立てすぎないほうが綺麗だ。君の美しさが際立つ」
侍女たちの間から、押し殺したような小さな歓声が上がった。
微笑ましいものを見る目で、皆が二人を見ている。
「お気に召しましたか、ベルフォール様」
女官に問われ、イネスは首飾りへ目を落とした。
「……ええ。とても綺麗です」
ルシウスはそんなイネスを見て、どこか面白そうに口元を緩めていた。
女官たちはルシウスの前で、いっそうきびきびと動き出す。部屋の空気は再び慌ただしさを取り戻し、純白の布と銀の飾りが次々に運ばれていく。
その中心に立たされながら、イネスはようやく契約が本物であることを実感していた。
***
ドレスの採寸がようやくひと段落した頃、今度は現皇帝へのお目通りを済ませるよう告げられた。
息をつく暇もない。
純白の布地を肩から外されると、すぐに次の衣装が運ばれてくる。謁見用の正装だというそれは、ベルフォール伯爵家ではまず袖を通す機会のない上等な品だった。
深い青緑を基調にした生地は光の加減で静かに艶めき、裾や袖口に施された刺繍も、ひと目で高価と分かる。滑るような布の手触りに、イネスはわずかに指先を止めた。
侍女たちの手は休まない。
手早く髪を結い上げ、細かなアクセサリーを次々と着けていく。鏡の中の自分は、ベルフォール家にいた時には想像もできないほど飾り立てられていた。
「お時間でございます」
声をかけられ、イネスは小さく息を整える。
ここで狼狽えても仕方がない。背筋を伸ばし、促されるまま部屋を出た。
***
現皇帝の居室へ向かう廊下は、やけに静かだった。
ルシウスはイネスのすこし前を歩いている。歩幅は一定で、足音に迷いがない。王宮に生まれ、王宮の空気を当たり前のように吸ってきた男の背中だった。
やがて、重い扉の前で足が止まる。入室の許可が下り、二人は室内へ進んだ。
広い部屋の奥、深く腰掛けていたのが現皇帝だった。
病を得ていると聞いていた通り、頬はわずかに削げ、肌の色も冴えない。だが、ただ弱っているだけではない。半ば椅子に身体を預けてなお、長く国を治めてきた者だけが持つ鋭さは失われていなかった。
その目が、まずルシウスに向いた。
「ずいぶん急だな」
開口一番、それだった。
ルシウスは一礼する。表情には、いつもの余裕を少し和らげたような穏やかさがあった。
「はい。父上のご体調も考え、そろそろ身を固める時期だと決心いたしました」
声音は落ち着いていて、答え方にも一点の隙もない。
よく言う。
イネスは胸の内だけでそう思った。つい先ほどまで、恋だの愛だのは不要だと言い切っていた男である。こうしてもっともらしい顔で並べられるのだから、たいしたものだ。
皇帝は短く鼻を鳴らした。
それからようやく、イネスへ視線を移す。
ほんの数秒、黙って見られただけで、品定めでもされているような気分になった。
イネスはわずかに背筋を伸ばす。
「……なるほど」
皇帝が呟く。
「美しいな」
その一言は、祝福というより確認に近かった。
なるほど、これなら悪くない。そんな乾いた納得が滲んでいる。
「身に余る光栄です、陛下」
イネスが静かに頭を下げると、皇帝は軽く手を振った。
「女遊びにはもう飽きたのかと思ったが、ようやく落ち着いてよかった」
それは父親らしい冗談というより、半ば皮肉のようでもあった。
ルシウスは特に顔色を変えない。
「ご安心いただけるなら幸いです」
皇帝はそれ以上、結婚そのものに深く触れなかった。心から歓迎するような言葉もなく、ただルシウスとイネスをひととおり見て、必要な儀礼だけを済ませると、もう興味を失ったように視線を書類へ戻した。
「下がれ」
時間で言えば五分ほどの短いやりとりで面会は終わった。
部屋を辞し、扉が閉まる。
何となく、自分の父と皇帝の態度が重なって見えた。
自分の子供にあまり興味のないところが。
ルシウスの隣を歩きながら、イネスは何も言わなかった。
ルシウスもまた、父について語るつもりはないらしい。二人の間には、磨かれた床を踏む足音だけが続いていた。
***
その日の夕方には、王宮の中で噂が広がりはじめていた。
第一皇子が妻を迎える。
相手は地方の伯爵令嬢。
しかも、ほんの数日のうちに式まで決まった。
侍女や下働きの者たちは、イネスが通り過ぎたあとに声を潜める。
「本当にあの方が?」
「お綺麗ではあるけれど」
「でも、殿下があんなふうにお声をかけていらしたわ」
「急なお話なのに、お似合いでしたね」
「式は三日後なんですって」
囁きに明確な敵意はない。
しかし、イネスの事を値踏みするような気配が混じっていた。
イネスはそれを聞き流すようにその場を後にするのだった。
***
その頃、ベルフォール伯爵家には王宮から正式な書状が届けられていた。
第一皇子ルシウス・アルヴェインが、ベルフォール伯爵令嬢イネス・ベルフォールを妻に迎えること。挙式は三日後。必要な準備と手続きについては王家側が主導すること。文面は簡潔で、決定事項だけが並んでいた。
広間でそれを読んだギスランは、しばらく無言だった。
驚きで言葉を失っているのかと思えば、やがて顔に浮かんだのは戸惑いではなく、押しきれない喜色だった。
「まさか、本当にここまでとはな……」
呟きには、父親の感慨よりも家長の打算が濃かった。
ベルフォール伯爵家が王家と結びつく。その意味する利益の大きさを、彼は誰よりも早く計算していたのだろう。
ギスランは手にした書状を、傍らのリオネルへ無言で差し出した。
受け取ったリオネルは、おそるおそる文面へ目を落とす。読み進めるうちに、その目がみるみる丸くなった。
「姉上が……第一皇子妃に?」
思わず漏れた声は、驚きと現実味のなさが半分ずつ混じっている。
けれど次の瞬間には、ぱっと表情が明るくなった。
「すごい……」
そこには無邪気な驚きと、素直な誇らしさがあった。心配がないわけではないのだろう。だがそれ以上に、姉が王家へ嫁ぐという事実の華やかさのほうが、今の彼には大きいらしい。
ギスランはその様子を横目で見て、一度だけ息を吐いた。
この息子はイネスほどの技量は無い。
なおさら娘に対する期待が膨らむ。
彼女を育てたかいがあった。
夕陽の差し込む広間で、書状の紙だけが妙に白く見えていた。
***
王宮では、夜が近づいても慌ただしさが消えなかった。
部屋へ戻されたイネスは、ようやく一人になれたかと思ったが、それも束の間だった。翌日の段取り、式の流れ、呼称や作法の確認。次から次へと告げられることを聞いているうちに、時間の感覚が薄れていく。
人の気配が途切れたのは、夜も更けてからだった。
最後の確認を終えた侍女が一礼し、静かに扉を閉める。
ようやく一人になれた室内で、イネスは小さく息を吐いた。
今日一日で、あまりにも多くのことがありすぎた。
明日からはもう、第一皇子の婚約者として誰の目にもふさわしく振る舞わなければならない。
鏡台の前に腰を下ろし、ほどいた黒髪に指を通した、その時だった。
扉が控えめに叩かれる。
「……どうぞ」
入ってきたのはルシウスだった。
夜の静けさの中に立つその姿は、打算と策略と、それから彼が女性を口説く時のような、ほんの少しの色気があった。
イネスは立ち上がる。
「こんな時間にどうなさいましたか」
「確認だ」
ルシウスはそう言って部屋の中央まで歩み寄った。
「準備は順調らしいな」
「いえ。あまりのスピード感に少々驚きましたが」
イネスが答えると、ルシウスは口元を緩めた。
「王家の使用人たちは仕事が早いからな」
まるでそれが当然だと言わんばかりの言い方だった。
実際、彼にとっては当然なのだろう。
ルシウスはイネスの前で足を止める。
「好きになったら終わりだという話は、昼にした通りだ」
「ええ」
「だが、だからといって他人のように暮らすわけにはいかない」
イネスは黙って続きを待った。
「夫婦として違和感のない距離でいなくてはならない。婚姻後は普段からも夜を共にしてもらう」
その一言に、イネスの睫毛がわずかに揺れた。
理解していなかったわけではない。
ただ、こうしてはっきり言葉にされると、やはり少し警戒する。
「……跡継ぎのための夜伽は承知しておりますが、普段から必要ですか?」
静かな問いだった。
けれど、その声にはわずかに揺らぎが混じっていた。
今までなびかなかった翡翠の瞳が、ほんの少しだけ揺れる。
それがルシウスには妙に新鮮で、ひどく面白かった。
だからつい、踏み込みたくなってしまった。
ルシウスがイネスに一歩近づく。
「もちろん」
低く落とした声とともに、彼の手がイネスの腰へ回る。
「夫として、君のことを隅々まで知っておく必要がある」
不意に縮まった距離に、イネスは一瞬だけ息を呑んだ。
けれどすぐに表情を戻そうとする。その様子すら、今のルシウスには面白い。
「……そのような契約が含まれるとは知りませんでした」
イネスがそう言うと、ルシウスはわずかに目を細めた。
至近距離で紺の瞳に見下ろされ、イネスはわずかに息を詰める。その揺らぎをルシウスは見逃さない。彼の口元がわずかに緩んだ。
「では、やめるか?」
「……いえ、問題ありません」
そう言いながらも、視線だけはわずかに逸らす。
次の瞬間、彼の指先がそっとイネスの顎に触れた。
軽くすくい上げるようにして、逃がしかけた視線を無理のない動きで引き戻す。
思っていたより近い。
少し身じろげば触れてしまいそうなほど、顔と顔の距離が縮まる。
吐息すらかすかに届きそうで、イネスは思わず呼吸を浅くした。ほんの一瞬、このまま口づけられるのではないかという考えが胸をよぎる。
「そんな目をして言われてもな」
低く落ちた声に、イネスの呼吸がわずかに乱れた。
それを見たルシウスは、隠しもせずに愉しげに目を細める。
「強がっているように見える」
図星を突かれたようで、イネスは一瞬だけ言葉に詰まった。
けれど、すぐに翡翠の瞳をまっすぐ向け返す。
「……そんなことはありません」
即座に返したものの、いつもよりほんのわずかに声が硬い。
耳の先がうっすらと熱を帯びているのを、ルシウスは見逃さなかった。
「そうか。ならいい」
口元に笑みを浮かべたまま、顎に触れていた手を離す。
イネスは小さく息をついた。
動揺したのを悟られたことが少し悔しくて、わずかに唇を結ぶ。
「安心しろ。今夜どうこうする気はない」
「ただ、慣例的に式の後は同じ寝所を使うことにはなるだろう」
にやりとした笑みを残して、ルシウスはようやく腰に回した手も離した。
少し距離が空く。
イネスはすぐには口を開かなかった。
睨むほどではない。だが、ほんの少しの不満と、わずかな恥じらいを滲ませた目でルシウスを見返す。
その表情に、ルシウスはまた少しだけ目を細めた。
「明日から私たちは、愛し合う夫婦のように振る舞う」
その言葉は、先ほどとは少し変わって真面目な声音だった。
「期待している」
イネスは一呼吸置いてから答える。
「努力いたします」
短く、決意のこもった声だった。
ルシウスは満足したように頷く。
「君ならできるだろう」
それだけ言って踵を返し、扉へ向かう。
去り際に振り返ることはしなかった。
「休め。明日も長い」
扉が閉まる。
静かになった室内で、イネスはしばらくそのまま立ち尽くしていた。
頭では分かっていても、実感が沸かなかったことが、少しずつ現実味を帯びてくる。
夫婦としての務め。
鏡の前へ戻り、イネスは静かに自分を見た。
ほどいた黒髪。王宮から与えられた上等な寝間着。もう、ベルフォール伯爵家にいた頃のままではない。
こんなにも早く、すべてが進んでいくとは思わなかった。
だが、もう明日からは第一皇子の妻として、誰の目にも完璧に振る舞わなければならない。
イネスは静かに覚悟を決めた。




