NO.5 王家の花嫁
現在、2026年5月13日までに書いた全16話を、20話構成で読みやすく修整中です!そこまで読んでくださった皆様は、21話からが続きになりますのでよろしくお願いいたします!
21話以降は、5月中に載せられるよう、鋭意製作中です!引き続きよろしくお願いいたします!
聞き間違いではないはずだった。
第一皇子ルシウス・アルヴェインは、今たしかに「妻になってほしい」と言った。
意味が分からない。
乗馬大会で一度顔を合わせただけの地方伯爵令嬢に、王家の第一皇子が口にする言葉ではなかった。冗談にしては、あまりに手が込みすぎている。
「……今、なんとおっしゃいました?」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「君に、私の妻になってほしいと言った」
ルシウスはあっさりと言い直す。
冗談ではない。そういう顔だった。
イネスは数拍、黙って相手を見つめる。
この男は本気で言っている。そこだけは分かった。
「……理屈は分かりませんが、急ではありませんか」
「急がなければならない事情がある」
その声音には、先ほどまでの淡々とした響きに、わずかな硬さが混じった。
「父は今、病に伏せっていてもう長くは持たない。いずれ継承の話は、今よりずっと露骨になる。その前に、正式な妻を迎えておきたい」
その言葉に父を案じる情のようなものは感じられなかった。
だが、急ぐ理由としては理解できる。
イネスは小さく息をついた。
「……なぜ、私なのでしょう」
ルシウスは、来ると分かっていた問いを受けたように、わずかに口元を緩めた。用意された条件を並べるように話し出す。
「君は伯爵家の娘で、家柄として不足はない。社交の場に出しても見劣りしないし、人前での振る舞いも悪くない。乗馬大会で見た限り、頭も回る。義務を負わせれば、きちんと果たすだろう」
かれはそこで一度言葉を区切り、先ほどよりも柔らかく微笑んだ。
「そのうえ、美しい」
イネスは一瞬、言葉を失う。
「妻になるなら、当然子を望まれることもある。夜を共にすることもある。そういう相手なら、私は美しい女のほうがいい」
……これは、褒められているのだろうか。
おそらく、ルシウス本人の中ではそうなのだろう。
理由は分からなくもない。
だが、ここまで平然と口にされると、さすがに少し呆れる。
「何より」
ルシウスはイネスを見たまま、淡々と続けた。
「君は私に特別な感情を抱かなさそうだ」
イネスはわずかに眉を動かした。
「私は女性が好きだし、深い仲になることもある。だが、結婚したからといってそれをやめるつもりはない。ただ一人に束縛されたり、執着されたりするのは嫌なんだ」
「好きだの愛しているだのと言いながら、結局は相手を自分のものにしたがる。ああいうのは窮屈でかなわない。その点、君は違う。私を見ても目の色ひとつ変えない。夢も見ないし、余計な期待もしない」
そこまで言い切られると、もはや清々しいほどだった。
イネス自身は、傷つきはしない。
そもそもルシウスに何かを期待しているわけではないからだ。
けれど、一般的な令嬢ならここで幻滅してもおかしくない。
美しい顔で何を言っているのだ、この男は。
そんな感想が胸の内をよぎる。
「……ずいぶんと、はっきりおっしゃるのですね」
「結婚するなら、条件ははっきり言っておいたほうがいい」
ルシウスは悪びれなかった。
「必要なのは、隣に立たせて見映えがして、義務を果たせて、私に余計な感情を向けない女だ。君はその条件によく合っている」
褒められているはずなのに、少しも嬉しくない。
むしろ、ここまで自分本位な条件を並べられると、ある種の感心すら覚える。
イネスはゆっくり息を吐いた。
「……危うい話です」
「たしかにそうだな」
ルシウスはあっさり認めた。
「だが君も、利益が大きいことくらい分かっているはずだ」
分かっている。
だから厄介なのだ。
「私に求めるのは……、どういう妻でしょうか」
「人前では完璧な妻を演じてもらう。将来的には妃として隣に立ってもらう。必要な社交はこなしてもらうが、私生活への干渉は求めない。逆に、私も君の領分へ無闇に踏み込むつもりはない」
そこまでは予想できた。
だが、ルシウスは続ける。
「ただし、一つ条件をつけたい」
イネスは静かに彼を見る。
「どちらかが相手を本気で好きになった時点で、この結婚は解消する」
奇妙な条件だった。
けれど、妙にこの男らしくもある。
「利害だけで成り立つ関係なら、互いに割り切れる。だがそこに本気が混じれば、期待も独占も生まれる。そうなった時点で、この関係は成立しなくなる」
イネスは黙っていた。
たしかに、ひどく合理的だった。
自分自身も結婚に理想を抱いているわけではない。
相手は王族。ベルフォール家に利益をもたらすことなど容易いだろう。
イネスはルシウスの様子をうかがいながら、静かに切り出した。
「……私からも条件がございます」
「いいだろう。言ってみろ」
「ベルフォール伯爵家への継続的な支援を。特に街道整備に関する資金援助が必要です。それから、弟の将来を脅かさないこと。ベルフォール家の名誉を、不必要に損なわないこと」
「どれも問題ない」
あまりにもあっさり飲まれて、逆に拍子抜けする。
だが、ルシウスにしてみれば、その程度は想定内なのだろう。
イネスは考える。
自分にとって何が大事か。
愛することにも、愛されることにも執着はない。
むしろ、自分とは無縁のものだと思っている。
ただ唯一、リオネルの不安そうな顔が脳裏をよぎった。
あの頼りない優しさを守るには、ルシウスからの支援が不可欠だった。
こんな機会、二度とはない。
イネスはゆっくりと息を整える。
「……分かりました」
そう告げると、ルシウスの紺の瞳がわずかに細くなった。
「謹んでお受けいたします」
その声は驚くほど静かだった。
ルシウスはしばらく彼女を見ていた。
やがて、口元にうっすらと笑みを浮かべる。
「君はやはり、話が早いな」
「断る理由がございません」
「そういうところも、気に入っている」
それが口説きなのか本音なのか、今のイネスにはもうどうでもよかった。
こうして始まる結婚に、愛など最初から必要ない。
必要なのは、条件と覚悟だけだ。
王都は、微笑みの裏で駆け引きが交わされる場所。
この結婚が、自分をそうしたものの中へ連れていくことを、イネスははっきり理解していた。
それでも、立ち止まるつもりはなかった。
***
ルシウスの部屋を辞したあと、イネスは王宮の一室へ通された。
客間として整えられたその部屋は、大きな窓から午後の光が差し込み、白い壁と金の装飾を淡く照らしている。
ようやく一息つけるかと思った、その時だった。
扉が開き、侍女と女官たちが次々に入ってくる。
誰もが迷いのない足取りで部屋へ散り、挨拶もそこそこに動き始めた。
手には純白の布地や宝石箱が抱えられている。
「失礼いたします」
「すぐに採寸を」
「式服の仕立てに間に合わせなければなりません」
イネスは一瞬だけ瞬きをした。
まだ頭の中では、ルシウスの言葉がかすかに反響している。
私の妻になってほしい。
それをつい先ほど了承したばかりだ。
けれど、この結婚はイネスの戸惑いなど知ったことではないらしい。
返事をした瞬間から、すべてが動き出していた。
「ベルフォール様、お立ちくださいませ」
促され、イネスは立ち上がる。
採寸用の紐が肩から腕へ、腰から裾へと滑っていく。
女官たちの手つきはよどみなく、こちらの躊躇など入り込む隙もない。
部屋へ運び込まれた布は、どれも眩しいほど白かった。
結婚式のために用意された一級品であることは明らかだ。
「挙式は三日後でございます」
「三日後……?」
思わず、イネスは顔を上げた。
告げた女官はにこやかに頷く。
「はい。陛下のご体調もございますし、殿下も急ぎ整えるよう仰せでしたので」
今日登城して、契約を持ちかけられ、三日後には結婚式。
さすがに早すぎる。
だが、周囲の誰一人としてそれを不自然とは思っていない顔をしていた。
「急なお話で、私どもも驚きましたけれど」
「まさか殿下が、こんなに早くお決めになるなんて」
「ベルフォール様ほどお綺麗な方なら納得ですわ」
交わされる声には、微笑ましいものを見るような響きが混じっている。
当然だ。
彼女たちは、契約結婚だなどとは知らない。
第一皇子がついに妻を迎える。
あるのはその事実だけ。
「こちらの布はお顔映りがやわらかくなりますね」
「黒髪にはこちらが映えますわ」
「まあ、本当にお人形のよう」
次々に言葉が飛ぶ。
その中で、イネスはただ静かに立っていた。
王族と結婚するのであれば、当然だといえばそうだが、ここまで盛大に準備が行われるとは想像出来なかった。
あまりの状況に、ほんの少しだけ怖気づく。
純白の生地が肩口へそっと掛けられる。
鏡の前へ立たされると、そこには白い布をまとった自分の姿が映っている。
イネスは花嫁姿の自分を想像して、とんでもない契約をしてしまったかもしれないと思った。
その時、再び扉が開いた。
女官たちの手が止まり、部屋の空気が一瞬で変わる。
入ってきたのはルシウスだった。
銀の髪は冷たい光を帯び、紺の瞳には微かな笑みが浮かんでいる。
先ほど結婚を打診してきた男と同じはずなのに、その表情はまるで、花嫁となる女性を心から待ち望んでいた男のものだった。
その視線がイネスを捉える。
純白の布地が肩から胸元にかけて当てられ、黒髪も女官に軽く整えられている。
まだ花嫁の形にはなっていない。
それでも、十分に目を引く姿だった。
ルシウスは一瞬だけ黙り、それから自然に言った。
「やはり美しいな。よく似合っている」
あまりにもさらりと言われて、イネスは一瞬だけ言葉を失った。
好きになるなと言うくせに、こういうことは平然と口にする。
普通の令嬢なら、きっとそれだけで振り回されるのだろう。
「……ありがとうございます」
それだけ返すと、ルシウスは満足そうに目を細めた。
そのやり取りを見ていた侍女たちの間に、かすかなざわめきが広がる。
「まあ……」
「殿下があんなふうに」
「本当にお似合いですわ」
声は小さい。
けれど隠しきれていない。
胸を弾ませるような気配が、部屋の隅々にまで漂っていた。
ルシウスは宝石箱の中を一瞥し、一つの首飾りを取り上げた。
銀細工に小さな真珠を連ねた、シンプルなものだ。
「これだな」
女官へ渡しながら、ルシウスはイネスを見る。
「君は飾り立てすぎないほうが綺麗だ。美しさが際立つ」
また侍女たちの間から小さな歓声が上がった。
「お気に召しましたか、ベルフォール様」
女官に問われ、イネスは首飾りへ目を落とした。
「……ええ。とても綺麗です」
ルシウスはそんなイネスを見て、どこか面白そうに口元を緩めていた。
女官たちはルシウスの前で、いっそうきびきびと動き出す。
その中心に立たされながら、イネスはようやく契約が本物であることを実感していた。
三日後。
自分は本当に、この男の妻になる。




