NO.3 王都からの書状
ベルフォール伯爵家へ王都からの使者が訪れたのは、乗馬大会から四日後の午後だった。
春のやわらかな日差しが差し込む広間に、硬い靴音が響く。王家の紋章を刻んだ封蝋付きの書状が差し出された瞬間、屋敷の空気がわずかに張りつめた。
イネスは少し離れた位置から、それを見ていた。
使者の身なり、書状の重み、父ギスランの顔色の変化。どれを取っても、軽い用件ではないと分かる。少なくとも、地方伯爵家に何気ない話で届くものではなかった。
「……第一皇子殿下より」
ギスランは書状を受け取り、封を切った。
その手つきは落ち着いている。けれど読み進めるにつれて、眉間の皺だけがわずかに深くなっていった。
やがて父は顔を上げる。
「イネス」
名を呼ばれ、イネスは静かに前へ出た。
「はい、お父様」
「お前に登城せよとのことだ」
それだけ言われても、すぐには意味が飲み込めなかった。
王都へ。しかも、第一皇子ルシウス・アルヴェインの意向で。
イネスは一瞬だけ黙る。
乗馬大会で交わした会話は、ほんのわずかなものだった。
呼ばれる理由が見当たらない。
街道のことだろうか。
催しの運営に不備でもあったのか。
それとも、ベルフォール家そのものに対する話か。
「……私が、ですか」
「そうだ」
ギスランは短く答えた。
ただ事実を確認するだけの平坦な口調。
「なぜ呼ばれたのか、心当たりは」
「ございません」
そう答えながらも、脳裏にルシウスの顔がよぎる。
銀の髪。紺の瞳。女慣れした笑み。
最後に交わした会話まで思い出し、イネスは胸の内で小さく息をついた。
食事の誘いを断ったことを、まさか無礼と受け取られたのだろうか。もしそうなら厄介だった。
だが、第一皇子ともあろう男が、地方伯爵家の娘に断られた程度で、わざわざ正式な書状を寄越すとも思えない。
それならやはり、これはベルフォール家に向けた話なのだと考えるべきだった。
「行くしかあるまい」
ギスランはそう言って、書状を机の上に置いた。
「支度を整えろ。明日のうちに出立してもらう」
「かしこまりました」
イネスが静かに答えると、ギスランはすでに別のことを考えているような顔をした。書状を見つめるその目に浮かぶのは、不安よりも計算のほうが近い。第一皇子からの呼び出しが、没落しかけた伯爵家にとってどれほどの意味を持つか。おそらく父の頭にあるのは、それだけなのだろう。
イネスは今さら傷つきはしなかった。
父が自分を見ていないことなど、ずっと前から知っている。
愛情はない。
けれど役に立つから使う。
それだけだ。
イネスは一礼して広間を出た。扉を閉めると、控えめな足音が後ろからついてくる。
「姉上」
振り返れば、リオネルが廊下の先に立っていた。淡い金茶の髪が光を受けてやわらかく揺れている。イネスと同じく母に似た、だが繊細で優しげな顔立ち。父の厳しい空気の中では、昔からひどく頼りなく見える弟だった。
「今の話……本当?」
「ええ。王都へ行くことになったみたい」
リオネルは不安げに眉を寄せる。
二人で並んで廊下を歩きながら、小さな声で言った。
「姉上、何か悪いことじゃないよね」
その問いに、イネスはすぐには答えなかった。
悪いことかどうかなど、まだ分からない。
ただ一つ言えるのは、第一皇子ルシウス・アルヴェインのような男が、理由もなく地方伯爵家の娘を王都へ呼ぶとは思えないということだけだった。
「……さあ、どうかしら」
ようやく返した言葉は、ひどく曖昧だった。
リオネルはますます不安そうな顔をする。けれど、その瞳の奥にははっきりと姉を案じる色があった。父とは違う、その優しさにイネスは少し救われる。
少なくともこの子は、純粋に自分のことを心配してくれている。
それだけで十分だと思うほどには、イネスはもう多くを求めなくなっていた。
***
翌朝、イネスはまだ空が白みきる前に支度を整えた。
王都へ向かうとなれば、それなりの装いが要る。だがベルフォール伯爵家に贅沢をする余裕はない。
旅服は、質の良い濃紺のドレスに外套を重ねただけの簡素なものだった。それでも仕立ての良さと彼女自身の気品があれば、粗末には見えない。
見送りに出てきたのは執事と数人の使用人、それにリオネルだけだった。
ギスランは姿を見せなかった。別段、珍しいことでもない。
「道中、お気をつけて」
執事が頭を下げる。
リオネルはその隣で、何か言いたげに唇を結んでいた。
「姉上」
馬車へ乗り込む直前になって、ようやく彼は声を絞り出す。
「無理はしないで」
イネスはほんの少しだけ目を細めた。
この子だけは、自分のことを気にかけてくれる。
「ええ」
短くそう返し、リオネルの頭をひとつ撫でる。
彼はくすぐったそうに肩をすくめたが、その顔には少しだけ安堵が浮かんでいた。
馬車の扉が閉まる。
車輪が土を踏み、ベルフォール伯爵家の屋敷はゆっくりと遠ざかっていった。
***
王都までは半日の道のりだった。
揺れる車内で、イネスは何度か書状を読み返す。
文面は簡潔で、余計なことは何も書かれていない。第一皇子ルシウス・アルヴェインが、イネス・ベルフォールに登城を求める。ただそれだけだ。
考えても答えは出ない。
イネスは窓の外へ視線を移した。
王都へ近づくにつれ、街道は広く整い、人の行き来も増えていく。荷馬車、旅人、行商、騎馬の兵。地方とは違う速度で、人も物も流れているのが分かった。
やがて高い城壁が見えた時、イネスは無意識に背筋を伸ばしていた。
***
その頃、王宮ではルシウスが側近から簡潔な報告を受けていた。
「ベルフォール伯爵家は、やはり財政がひっ迫しております。夫人は十年前に愛人と家を出ており、以降、家の対外的な役目は主に令嬢イネスが担っているとか。弟君はおられますが、表立ったことはあまり得手ではないようです」
差し出された書面を一枚めくり、ルシウスはふうん、とだけ答えた。
「父親との関係は」
「良好とは言い難いかと」
「なるほどな」
それだけ聞けば十分だった。
だからああいう女なのか、とルシウスは思う。
必要以上に夢を見ず、期待もせず、与えられた役目だけをきれいに果たす。
ひどく都合がいい。
そのうえ、美しい。
ルシウスは報告書を閉じた。
同情する気はない。むしろ、ますます条件に合うと思っただけだった。
「到着したら知らせろ」
「かしこまりました」
***
王宮に着くと、イネスは控えの間へ通された。
旅服のまま第一皇子の前へ出るわけにはいかないらしく、侍女が二人ついて簡単な着替えを手伝う。
差し出されたのは、深い緑を基調にしたドレスだった。ベルフォール家から持参した数少ないよそ行きの中で、最も格式に見合うものを選んだのだろう。黒髪は緩やかに整え直され、翡翠の瞳を引き立てるように装飾は最低限に抑えられる。
やがて案内が来ると、長い廊下を通され、重厚な扉の前で足を止めた。
「第一皇子殿下がお待ちです」
扉が開く。
室内に入った瞬間、イネスはわずかに息を詰めた。
ルシウスが立っていた。
春の陽の下で見た時よりも、ずっと王宮の空気に馴染んで見える。銀の髪は室内の光の中で冷たく艶を帯び、紺の瞳は相変わらず底が見えない。乗馬大会の日の軽やかな皇子とはまた違う、王家の血を引く男としての風格があった。
その視線が、イネスを捉える。
ルシウスは一瞬だけ言葉を止めた。
乗馬服姿も目を引いたが、ドレス姿はまた別だった。
黒髪と白い肌、深い緑のドレス、その中で静かにこちらを見返す翡翠の瞳。
やはり美しいな、とルシウスは思う。
乗馬大会で目を引かれたのは間違いではなかったらしい。
イネスは数歩進んだところで一礼する。
「お呼び立ていただき、光栄に存じます。ベルフォール伯爵家が娘、イネス・ベルフォールにございます」
「顔を上げてくれ」
ルシウスの声音は、乗馬大会の日より低く落ち着いていた。
イネスが顔を上げると、彼はほんのわずかに口元を緩める。
「遠いところをわざわざ呼び立てて悪かったな」
「いいえ。王家のお呼びとあらば、当然のことです」
そう返しながらも、イネスは内心で身構えていた。
世間話で終わる空気ではない。部屋に通された時点で、そう感じていた。
ルシウスは彼女を椅子へ勧め、自身も向かいに腰を下ろした。
侍女が茶を置いて下がる。扉が閉じると、室内には二人きりの静けさだけが残った。
ルシウスはまっすぐイネスを見る。
「単刀直入に言おう」
その一言で、イネスの指先がほんのわずかに緊張した。
「今日は、君にひとつ提案があって呼んだ」
「私の妻になってほしい」
――その瞬間だけ、さすがのイネスも言葉を失った。
聞き間違いではないはずだ。
第一皇子ルシウス・アルヴェインは、今たしかに「妻になってほしい」と言った。
意味が分からない。
乗馬大会で一度顔を合わせただけの地方伯爵令嬢に向かって、王家の第一皇子が口にする言葉ではなかった。冗談にしては手が込み過ぎている。
「……今、なんとおっしゃいました?」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど平坦だった。
あまりに現実味がなくて、感情が追いついていない。
「君に、私の妻になってほしいと言った」
ルシウスはあっさりと言い直した。
冗談ではない。そういう顔だった。
イネスは数拍、黙ったまま相手を見つめた。
この男は本気で言っている。そこだけは分かる。
「……理屈は分かりませんが、急ではありませんか」
問い返すと、ルシウスは少しだけ目を細めた。
「急がなければならない事情がある」
その声音には、先ほどまでの淡々とした響きに、わずかに硬さが混じった。
「父は今、病に伏せっていてもう長くは持たない」
イネスは黙る。
「いずれ継承の話は、今よりずっと露骨になる。私はその前に、正式な妻を迎えておきたい」
そこに父を案じる情のようなものは感じられない。
ただ、急ぐ理由としては理解できた。
イネスは小さく息をつく。
「……なぜ、私なのでしょう」
問い返すと、ルシウスはほんの少し目を細めた。
その質問は最初から来ると分かっていたのだろう。
「君は伯爵家の娘で、家柄として不足はない。社交の場に出しても見劣りしないし、人前での振る舞いも悪くない。乗馬大会で見た限り、頭も回る。義務を負わせれば、きちんと果たすだろう」
「そのうえ、美しい」
「妻になるなら、当然子を望まれることもあるだろうし、夜を共にすることもある。そういう相手なら、私は美しい女のほうがいい」
イネスは一瞬言葉を失った。
……これは、褒められているのだろうか。
たぶん、そうなのだろう。
少なくともルシウス本人の中では。
理由は分からなくもない。
だが、ここまで平然と口にされると、さすがに少し呆れる。
「何より」
ルシウスはイネスを見たまま、淡々と続けた。
「君は私に特別な感情を抱かなさそうだ」
イネスはわずかに眉を動かした。
「私は女性は好きだし、深い仲になることもある。だが、結婚したからといってそれをやめるつもりはない。ただ一人に束縛されたり、私に執着されたりするのは嫌なんだ」
「好きだの愛しているだのと言いながら、結局は相手を自分のものにしたがる。ああいうのは窮屈でかなわない。その点、君は違うだろう。私を見ても目の色ひとつ変えない。夢も見ないし、余計な期待もしない。そういう相手のほうが、よほど都合がいい」
そこまで言い切られると、もはや清々しいほどだった。
イネス自身は、その物言いに傷つきはしない。そもそもルシウスに何かを期待しているわけではないからだ。
だが、一般的な令嬢ならここで幻滅してもおかしくない。
美しい顔で何を言っているのだ、この男は。そんな感想が胸の内をよぎる。
「……ずいぶんと、はっきりおっしゃるのですね」
「結婚するなら、条件ははっきり言っておいたほうがいい」
ルシウスは悪びれなかった。
「必要なのは、隣に立たせて見映えがして、義務を果たせて、私に余計な感情を向けない女だ。君はその条件によく合っている」
褒められているはずなのに、少しも嬉しくない。
むしろ、これほど整った顔でここまで自分本位な条件を並べられると、ある種の感心すら覚える。
イネスはゆっくり息を吐いた。
「……危うい話です」
「たしかにそうだな」
ルシウスはあっさり認めた。
「だが君も、利益が大きいことくらい分かっているはずだ」
分かっている。
だから厄介なのだ。
「私に求めるのは、どういう妻でしょうか」
「人前では完璧な妻を演じてもらう。将来的には妃として隣に立ってもらう。必要な社交はこなしてもらうが、私生活への干渉は求めない。逆に、私も君の領分へ無暗に踏み込むつもりはない」
そこまでは予想できた。
だが、ルシウスは続けて言った。
「ただし、一つ条件をつけたい」
「どちらかが相手を本気で好きになった時点で、この結婚は解消する」
その一言に、イネスはわずかに目を見開いた。
奇妙な条件だった。
けれど妙にこの男らしくもある。
ルシウスは背もたれに軽く身を預ける。
「利害だけで成り立つ関係なら、互いに割り切れる。だがそこに本気が混じれば、話は別だ。期待も独占も生まれる。そうなった時点で、この関係は成立しなくなる」
イネスは黙っていた。
たしかにそれはひどく合理的だったし、自分自身も結婚に理想を抱いているわけではない。悪い話ではない。
相手は王族。ベルフォール家に利益をもたらすことなど容易いだろう。
イネスはルシウスの様子をうかがいつつ、静かに切り出した。
「……私からも条件がございます」
ルシウスはあっさりと頷いた。
「いいだろう。言ってみろ」
「ベルフォール伯爵家への継続的な支援を。特に街道整備に関する資金援助が必要です」
「それから、弟の将来を脅かさないこと。ベルフォール家の名誉を、不必要に損なわないこと」
「どちらも問題ない」
あまりにもあっさり飲まれて、逆に拍子抜けする。
だがルシウスにしてみれば、その程度の条件は想定内なのだろう。
イネスは考える。
自分にとって何が大事か。
ベルフォール家。街道。そして弟。
イネス自身、愛することにも、愛されることにも執着はない。むしろ自分とは無縁のものだと思っている。
ただ唯一、リオネルの不安そうな顔が脳裏をよぎる。
あの頼りない優しさを守るには、ルシウスからの支援が不可欠だった。
こんな機会、二度とはない。
リオネルのためなら私は。
イネスはゆっくりと息を整えた。
「……分かりました」
そう告げると、ルシウスの紺の瞳がわずかに細くなる。
「謹んでお受けいたします」
その声は驚くほど静かだった。
ルシウスはしばらく彼女を見ていた。それから、口元にうっすらと笑みを浮かべる。
「君はやはり、話が早いな」
「断る理由がございません」
イネスがそう返すと、ルシウスは小さく笑った。
「そういうところも、気に入っている」
それが口説きなのか本音なのか、今のイネスにはもうどうでもよかった。
こうして始まる結婚に、愛など最初から必要ない。必要なのは条件と覚悟だけだ。
王都は、微笑みの裏で駆け引きが交わされる場所。
この結婚が自分をそうした駆け引きの中へ連れていくことを、イネスははっきり理解していた。
それでも、立ち止まるつもりはなかった。




