NO.4 王都からの書状
現在、2026年5月13日までに書いた全16話を、20話構成で読みやすく修整中です!そこまで読んでくださった皆様は、21話からが続きになりますのでよろしくお願いいたします!
21話以降は、5月中に載せられるよう、鋭意製作中です!引き続きよろしくお願いいたします!
ベルフォール伯爵家へ王都からの使者が訪れたのは、乗馬大会から四日後の午後だった。
春のやわらかな日差しが差し込む広間に、硬い靴音が響く。王家の紋章を刻んだ封蝋付きの書状が差し出された瞬間、屋敷の空気がわずかに張りつめた。
イネスは少し離れた位置から、それを見ていた。
使者の身なり、書状の重み、父ギスランの顔色の変化。どれを取っても、軽い用件ではないと分かる。
「……第一皇子殿下より」
ギスランは書状を受け取り、落ち着いた手つきで封を切った。
読み進めるにつれて、眉間の皺がわずかに深くなっていく。
やがて父は顔を上げた。
「イネス」
名を呼ばれ、イネスは静かに前へ出た。
「はい、お父様」
「お前に登城せよとのことだ」
それだけ言われても、すぐには意味が飲み込めなかった。
王都へ。しかも、第一皇子ルシウス・アルヴェインの意向で。
イネスは一瞬だけ黙る。
乗馬大会で交わした会話は、ほんのわずかなものだった。
呼ばれる理由が見当たらない。
「……私が、ですか」
「そうだ」
ギスランは短く答えた。
ただ事実を確認するだけの平坦な口調。
「なぜ呼ばれたのか、心当たりは」
「ございません」
そう答えながらも、脳裏にルシウスの顔がよぎる。
銀の髪。紺の瞳。女慣れした笑み。
最後に交わした会話まで思い出し、イネスは胸の内で小さく息をついた。
食事の誘いを断ったことを、まさか無礼と受け取られたのだろうか。もしそうなら厄介だった。
だが、第一皇子ともあろう男が、地方伯爵家の娘に断られた程度で、わざわざ正式な書状を寄越すとも思えない。
それなら、これはベルフォール家に向けた話なのだと考えるべきだった。
「行くしかあるまい」
ギスランはそう言って、書状を机の上に置いた。
「支度を整えろ。明日のうちに出立してもらう」
「かしこまりました」
イネスが静かに答えると、ギスランはすでに別のことを考えているような顔をした。書状を見つめるその目に浮かぶのは、不安よりも計算のほうが近い。
第一皇子からの呼び出しが、没落しかけた伯爵家にとってどれほどの意味を持つか。おそらく父の頭にあるのは、それだけなのだろう。
イネスは今さら傷つきはしなかった。
父が自分を見ていないことなど、ずっと前から知っている。
愛情はない。
けれど役に立つから使う。
それだけだ。
イネスは一礼して広間を出た。
扉を閉めると、控えめな足音が後ろからついてくる。
「姉上」
振り返れば、リオネルが扉の前に立っていた。淡い金茶の髪が光を受けてやわらかく揺れている。イネスと同じく母に似た、だが繊細で優しげな顔立ち。父の厳しい空気の中では、昔からひどく頼りなく見える弟だった。
「今の話……本当?」
「ええ。王都へ行くことになったみたい」
リオネルは不安げに眉を寄せる。
二人で並んで廊下を歩きながら、小さな声で言った。
「姉上、何か悪いことじゃないよね」
その問いに、イネスはすぐには答えなかった。
悪いことかどうかなど、まだ分からない。
ただ一つ言えるのは、第一皇子ルシウス・アルヴェインのような男が、理由もなく地方伯爵家の娘を王都へ呼ぶとは思えないということだけだった。
「……さあ、どうかしら」
ようやく返した言葉は、ひどく曖昧だった。
リオネルはますます不安そうな顔をする。けれど、その瞳の奥にははっきりと姉を案じる色があった。父とは違う、その優しさにイネスは少し救われる。
少なくともこの子は、純粋に自分のことを心配してくれている。
それだけで十分だと思うほどには、イネスはもう多くを求めなくなっていた。
***
翌朝、イネスはまだ空が白みきる前に支度を整えた。
旅服は、質の良い濃紺のドレスに外套を重ねただけの簡素なものだった。それでも仕立ての良さと彼女自身の気品があれば、粗末には見えない。
見送りに出てきたのは執事と数人の使用人、それにリオネルだけだった。
ギスランは姿を見せなかった。別段、珍しいことでもない。
「道中、お気をつけて」
執事が頭を下げる。
リオネルはその隣で、何か言いたげに唇を結んでいた。
「姉上」
馬車へ乗り込む直前になって、ようやく彼は声を絞り出す。
「無理はしないで」
イネスはほんの少しだけ目を細めた。
この子だけは、自分のことを気にかけてくれる。
「ええ」
短くそう返し、リオネルの頭をひとつ撫でる。
彼はくすぐったそうに肩をすくめたが、その顔には少しだけ安堵が浮かんでいた。
馬車の扉が閉まる。
車輪が土を踏み、ベルフォール伯爵家の屋敷はゆっくりと遠ざかっていった。
***
王都までは半日の道のりだった。
揺れる車内で、イネスは何度か書状を読み返す。
文面は簡潔で、余計なことは何も書かれていない。第一皇子ルシウス・アルヴェインが、イネス・ベルフォールに登城を求める。ただそれだけだ。
考えても答えは出ない。
イネスは窓の外へ視線を移した。
王都へ近づくにつれ、街道は広く整い、人の行き来も増えていく。荷馬車、旅人、行商、騎馬の兵。地方とは違う速度で、人も物も流れているのが分かった。
やがて高い城壁が見えた時、イネスは無意識に背筋を伸ばしていた。
***
その頃、王宮ではルシウスが側近から簡潔な報告を受けていた。
「ベルフォール伯爵家は、やはり財政がひっ迫しております。夫人は十年前に愛人と家を出ており、以降、家の対外的な役目は主に令嬢イネスが担っているとか。弟君はおられますが、表立ったことはあまり得手ではないようです」
差し出された書面を一枚めくり、ルシウスはふうん、とだけ答えた。
「父親との関係は」
「良好とは言い難いかと」
「なるほどな」
それだけ聞けば十分だった。
だからああいう女なのか、とルシウスは思う。
必要以上に夢を見ず、期待もせず、与えられた役目だけをきれいに果たす。
ひどく都合がいい。
そのうえ、美しい。
ルシウスは報告書を閉じた。
同情する気はない。むしろ、ますます条件に合うと思っただけだった。
「到着したら知らせろ」
「かしこまりました」
***
王宮に着くと、イネスは控えの間へ通された。
旅服のまま第一皇子の前へ出るわけにはいかないらしく、侍女が二人ついて簡単な着替えを手伝う。
差し出されたのは、深い緑を基調にしたドレスだった。
黒髪は緩やかに整え直され、翡翠の瞳を引き立てるように装飾は最低限に抑えられる。
やがて案内が来ると、長い廊下を通され、重厚な扉の前で足を止めた。
「第一皇子殿下がお待ちです」
声と共に扉が開く。
室内に入った瞬間、イネスはわずかに息を詰めた。
ルシウスが立っていた。
春の陽の下で見た時よりも、ずっと王宮の空気に馴染んで見える。銀の髪は室内の光の中で冷たく艶を帯び、紺の瞳は相変わらず底が見えない。乗馬大会の日の軽やかな皇子とはまた違う、王家の血を引く男としての風格があった。
その視線が、イネスを捉える。
ルシウスは一瞬だけ言葉を止めた。
黒髪と白い肌、深い緑のドレス、その中で静かにこちらを見返す翡翠の瞳。
先日見た乗馬服姿とは、別の美しさ。
大会で目を引かれたのは間違いではなかったらしい。
イネスは数歩進んだところで一礼する。
「お呼び立ていただき、光栄に存じます。ベルフォール伯爵家が娘、イネス・ベルフォールにございます」
「顔を上げてくれ」
ルシウスの声音は、乗馬大会の日より低く落ち着いていた。
イネスが顔を上げると、彼はほんのわずかに口元を緩める。
「遠いところをわざわざ呼び立てて悪かったな」
「いいえ。王家のお呼びとあらば、当然のことです」
そう返しながらも、イネスは内心で身構えていた。
世間話で終わる空気ではない。部屋に通された時点で、そう感じていた。
ルシウスは彼女を椅子へ勧め、自身も向かいに腰を下ろした。
侍女が茶を置いて下がる。扉が閉じると、室内には二人きりの静けさだけが残った。
ルシウスはまっすぐイネスを見る。
「単刀直入に言おう」
その一言で、イネスの指先がほんのわずかに緊張した。
「今日は、君にひとつ提案があって呼んだ」
「私の妻になってほしい」
――その瞬間だけ、さすがのイネスも言葉を失った。




