NO.3 春風の街道、翡翠の眼差し
現在、2026年5月13日までに書いた全16話を、20話構成で読みやすく修整中です!そこまで読んでくださった皆様は、21話からが続きになりますのでよろしくお願いいたします!
21話以降は、5月中に載せられるよう、鋭意製作中です!引き続きよろしくお願いいたします!
第一皇子ルシウス・アルヴェインが、イネス・ベルフォールという女に初めて会ったのは、春風が吹き抜ける季節だった。
国境近くの山間の街道沿いで開かれた、ベルフォール伯爵家主催の乗馬大会。
交易振興を名目にしたその催しには、近隣の貴族や役人、商人たちが集まり、隣国からの客人の姿もあった。
土を踏みしめる音。風に揺れる天幕。乾いた草の匂い。
地方の行事としては十分に賑やかで、会場には馬のいななきと人々の笑い声が絶えず満ちていた。
ルシウスは視察の名目で、その場にいた。
第一皇子が来るとあって、乗馬大会に集まっていた令嬢たちは皆、どこか浮き足立っている。
遠巻きにこちらを見て、目が合えば頬を染め、慌てて視線を逸らす。
ルシウスはそうした視線に慣れていたし、純粋な好意を向けられること自体は嫌いではなかった。
そんなことを考えながら周囲へ視線を巡らせていた時。
会場の一角にできていた人垣が、ゆるやかに割れた。
その向こうから現れたのは、一頭の馬と、それを優雅に乗りこなす女性の姿だった。
濃紺の乗馬服に身を包み、脚には細身のズボン。王都で見る華やかな衣装とはかけ離れた、動きやすさを優先したその装いは、かえって彼女の体の線をすっきりと際立たせている。
黒髪は高い位置でひとつに結われ、馬の歩みに合わせて背で揺れていた。
そして、まっすぐに前を見つめる翡翠色の瞳。
綺麗だな、と。
ルシウスはただ、そう思った。
「あれがベルフォール伯爵令嬢にございます」
近くに控えていた家臣が、小声で告げる。
「イネス・ベルフォール。今回の催しも、主催家の令嬢として取り仕切っておいでです」
「……あれが」
ベルフォール伯爵家。
名門ではあるが、近ごろは財政難だと聞いている。
だが、少なくとも目の前の女からは、落ち目の家の陰りより先に、生まれつきの気高さのようなものが見えた。
イネスは馬を下りると、従者へ手綱を渡し、こちらへ視線を向けた。
そして迷いのない足取りでルシウスの前まで来ると、淀みなく一礼する。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます。ベルフォール伯爵家が娘、イネス・ベルフォールでございます」
所作は美しく、完璧だった。
ただ一つ、違和感があるとすれば、彼女の瞳に熱がなかったことだ。
ルシウスは少しだけ面白くなって、口元を緩める。
第一皇子という立場上、人はたいてい、何かしらの感情をこちらへ向ける。
憧れ、緊張、野心、打算、あるいは敵意。
かたちは違っても、皆こちらを意識する。
だが、イネスはそれがひどく薄かった。
交わる視線は澄んでいて、特別な色を宿さない。
「出迎えに感謝する。見事な乗馬だったな、イネス嬢」
「恐れ入ります。お楽しみいただける催しとなれば幸いです」
返答は端的だった。
皇子に褒められた令嬢にしては、あまりにも淡い反応。
ルシウスがわずかに眉を上げる間に、イネスは再び一礼し、隣国の客人が集まる天幕へ向かって踵を返した。
あまりにあっさりとした態度に、一瞬だけ引き留めようとも思った。
だが、ルシウスはこれまで、自分から女を追うような真似をしたことがない。
ただその背中を見つめて、今まで会った女とは違うな、と思うだけだった。
イネスは客人たちと挨拶を交わし、役人と短く言葉を交わし、競技の進行にも目を配っている。
ルシウスはその様子を眺めながら、手元の杯を軽く揺らした。
「ずいぶん手慣れているな、イネス嬢は」
傍らに控えていたベルフォール家の年配の家臣が、すぐに一礼する。
「ええ。このような催しは、ほとんどイネス様が取り仕切っておられます」
ルシウスはわずかに眉を上げた。
「このようなものは、当主が行うと思っていたが」
家臣は一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いてから言った。
「旦那様は、イネス様に一任しておいでです。弟君もおられますが……このような催し事は、あまりお得意ではなく」
それだけ言って、家臣は控えめに口を閉ざした。
本来であれば男性が取り仕切るような行事をイネスが行っていることに、彼自身も違和感があるのだろう。
だが聞いた本人は、さして興味がなさそうにその言葉を聞いていた。
再び視線をイネスへ戻す。
あの女が有能であることは、それで十分わかった。
***
日差しが高くなり、会場の熱気も増していく。
次の競技が始まるらしく、観客たちは馬場の周囲へ集まりはじめていた。
柵の近くでは若い令嬢たちが期待に頬を上気させ、商人たちは見やすい場所を探して立ち位置を変える。
従者たちも慌ただしく行き交い、待機していた馬たちの鼻息が少しずつ熱を帯びていく。
イネスも進行を確認するため、馬場の方へ向かっていた。
高く結った黒髪を揺らしながら、人の流れを縫うように歩いていく。
ルシウスは、何とはなしにその後ろ姿を目で追っていた。
騒ぎが起きたのは、その時だった。
競技の順番を待っていた馬の一頭が、風に煽られた旗の音に驚いたらしい。
首を高く上げ、苛立ったように前脚を踏み鳴らす。
近くにいた若い令嬢が悲鳴を呑み込みながら後ずさった。だが、裾を踏んでその場に尻もちをついてしまう。
誰かが声を上げるより早く、イネスが動いた。
ためらいもなく馬の側へ歩み寄り、その首筋へそっと手を置く。
従者が手綱を引き直すあいだ、彼女は低く短く、何かを言い聞かせるように声を落とした。
馬はなおも荒い鼻息を漏らしていたが、数拍もしないうちに落ち着きを取り戻した。
そのままイネスはしゃがみ込み、立てずにいた令嬢へ手を差し出す。
「立てる?」
令嬢は目を丸くしたまま頷いた。
イネスはその腕を取って抱き起こし、さっと全身を見てから問う。
「どこか痛めていない?」
「だ、大丈夫です……」
「そう。ならよかったわ。馬はむやみに人を襲ったりしないから、落ち着いて」
助けられた令嬢は、まだ息を乱しながらも頭を下げた。
「イネス様……ありがとうございます」
頬がうっすらと赤いのは、転んだせいばかりではないのだろう。
イネスは念のためと言って、令嬢を医務室へ案内させた。
その一連の行動を見ていた者たちが、ほっとしたように息をつく。
「本当に、イネス様がいらしてよかった」
「さすがだわ」
「頼りになりますね」
そこに悪意はなかった。
ただ純粋に、彼女を慕っている響きだけがあった。
ルシウスはその様子を見つめたまま、先ほどの家臣へ尋ねる。
「彼女は、いつもああなのか」
家臣は、今度は迷いなく答えた。
「はい。領地の方々は、皆イネス様を慕っておられます」
その声音には、誇らしささえ滲んでいた。
その瞬間、ルシウスの中で、イネスへの興味が少しだけ形を変えた。
ただ美しい女ではない。そう思った。
***
日が傾きはじめ、競技がひと通り終わる頃には、会場の熱気も落ち着きだしていた。
係の者たちが後片付けの用意を始める。
その頃になってようやく、イネスはもう一度ルシウスの前へ現れた。
「本日の催しは、いかがでしたでしょうか」
朝と同じように、声は落ち着いている。
疲れを感じさせない凛とした態度に、ルシウスはゆるく笑った。
「思っていた以上に楽しめた。街道沿いの催しと聞いていたから、もっと堅いものを想像していたんだが」
「それは何よりです」
「主催が優秀だったからだろうな」
ルシウスは、いつも女性を褒める時のように言った。
だが、イネスはやはり、澄んだ瞳で静かに受け止めるばかりだった。
「過分なお言葉です」
こんな態度を取られたのは初めてだった。
どうすれば彼女の瞳に温度が宿るのか。
ルシウスは、自然な所作で一歩だけ距離を詰める。
「この後、二人で食事でもどうだ」
さらりと落とされた誘いに、イネスは一瞬だけ目を瞬いた。
驚いたというより、予想していなかった事柄に対する、ほんの小さな戸惑いだった。
だが、すぐにその表情はいつもの落ち着きへ戻る。
「……社交辞令だとしても、大変光栄です」
その返しに、ルシウスは思わず目を細めた。
本気にしていない。そう告げられたも同然だった。
「いや」
ルシウスは、先ほどよりわずかに低い声で続ける。
「私は本気で言っている」
言いながら、彼はイネスの手を取った。
女の手に触れることなど、彼にとっては呼吸と変わらぬほど慣れた仕草だった。
翡翠の瞳が、わずかに揺れる。
初めて見た、小さな変化だった。
「君のように、多才で優秀で、そのうえ美しい女性にはそうそう出会えない」
口説き文句なら、いくらでも持っている。
相手が喜ぶ言葉も、頬を染めるタイミングも、ルシウスはよく知っていた。
「ぜひ、もっと君のことが知りたい」
イネスは手を取られたまま、少しだけ困ったように眉を寄せた。
嫌悪ではない。羞じらいとも違う。どう受け取るべきか測りかねているような表情だった。
「……大変光栄なお言葉ですが」
彼女は慎重に言葉を選び、そこで一度区切った。
「私は、そのように優れた人間ではございません。それに、この後もまだ、やることがございますので」
やわらかく、だがきっぱりとした拒絶だった。
イネスは、ルシウスの言葉を戯れか社交辞令と受け取ったのだろう。
「また機会がございましたら」
最後に少しだけ言い淀んでから、そう付け足す。
ルシウスは、そこでようやく彼女の手を離した。
「残念だ」
言葉とは裏腹に、口元にはうっすら笑みが浮かんでいた。
断られたというのに、不快ではない。
むしろ、少し面白くなってきている自分がいた。
この女は、本当に変わっている。あの翡翠の瞳に、もっと別の色が宿るところを見てみたい。
そんな、らしくもない興味が胸のどこかに湧き上がる。
「では、またの機会を楽しみにしていよう」
ルシウスがそう言うと、イネスは小さく一礼した。
「恐れ入ります」
最後まで、彼女の温度は読み切れなかった。
イネスが去っていく背を、ルシウスはしばらく眺めていた。
高い位置で結われた黒髪が歩みに合わせて揺れ、濃紺の乗馬服に包まれた背筋は、最後まで凛としている。
面白い。
第一皇子を相手に、ああいう態度をとる女がいるのか。
「殿下」
少し離れたところで控えていた側近が、遠慮がちに声をかけてくる。 帰還の支度が整ったらしい。
「ああ」
短く応じ、ルシウスはようやく視線を外した。
地方視察など、普段なら記憶にも残らない。
だがその日の馬車の中で、ルシウスは何度もイネスのことを思い返していた。
***
王都へ戻った翌日。執務机の上に積まれた書類へざっと目を通しながら、ルシウスは何でもない口調で側近に言った。
「ベルフォール伯爵家について、少し調べておけ」
側近は、一瞬だけ目を上げた。
だがすぐに一礼する。
「伯爵家全体を、でよろしいでしょうか」
「家の現状と、娘のことを中心に」
「かしこまりました」
視察先の有力貴族について把握しておく。
表向きには、ごく自然な指示に聞こえる。
ただ少し、確かめてみたくなっただけだ。
彼女はどのように育ち、生きてきたのか。
数日後。
ベルフォール伯爵家へ、王都から一通の書状が届くことになる。




