NO.2 春風の街道、翡翠の眼差し
第一皇子ルシウス・アルヴェインが、イネス・ベルフォールという女に初めて会ったのは、春風が吹き抜ける季節。
国境近くの山間の街道沿いで開かれたベルフォール伯爵家主催の乗馬大会であった。
土を踏みしめる音、風に揺れる天幕、乾いた草の匂いが混じり合う、活気あふれる自然。
交易振興を名目にした催しで、近隣の貴族や役人、商人たちが集い、隣国からの客人の姿もちらほら見える。地方の行事としては賑やかな方で、会場には馬のいななきと人々の笑い声が絶えず満ちていた。
ルシウスは視察の名目で、その場にいた。
乗馬大会に集まっていた令嬢たちは、皆、第一皇子が来るとあって浮き足立っている。
遠巻きにこちらを見て、目が合えば頬を染め、また慌てて視線を逸らす。
ルシウスはそうした視線に慣れていたし、純粋に好意を向けられるのは嫌いじゃなかった。
そんな事を考えながら周囲に視線を巡らしていた時。
彼女は現れた。
会場の一角にできていた人垣がゆるやかに割れ、ざわめきが起きる。
その間から出てきたのは、一頭の馬と、馬を優雅に乗りこなす女性の姿だった。
濃紺の乗馬服に身を包み、脚には細身のズボン。
王都で見る華やかな衣装とはかけ離れた、動きやすさを優先したその装いは、かえって彼女の体の線をすっきりと際立たせている。
黒髪は高い位置でひとつに結われ、馬の歩みに合わせて背で揺れていた。
そして真っ直ぐに前を見つめるのは、翡翠を思わせる深い緑の瞳。
綺麗だな、と。
ルシウスはただ、そう思った。
「あれがベルフォール伯爵令嬢にございます」
近くに控えていた家臣が、小声で告げる。
「イネス・ベルフォール。今回の催しでも、主催家の令嬢としてあれこれ取り仕切っておいでです」
「……あれが」
ルシウスは短く返した。
ベルフォール伯爵家。名門ではあるが、近ごろは財政難だと聞いている。
だが、少なくとも目の前の女からは、落ち目の家の陰りより先に、生まれつきの気高さのようなものが見えた。
イネスは馬を下りると、従者へ手綱を渡してこちらに視線を向ける。
そしてルシウスの方までまっすぐ向かってきて、淀みなく一礼した。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます。ベルフォール伯爵家が娘、イネス・ベルフォールでございます」
その所作は美しく、完璧であった。
ただ一つ、違和感があるとするならば、彼女の瞳に熱がなかったことである。
ルシウスは少しだけ面白くなって、口元を緩める。
第一皇子という立場上、男でも女でも、何かしらの感情を向けられることが多い。
憧れ、緊張、野心、打算、あるいは敵意。かたちは違っても、たいていはこちらを意識した反応がある。
だが、イネスからはそれがひどく薄かった。
交わる視線はひどく澄んでいて、特別な色を宿さない。
「出迎えに感謝する。見事な乗馬だったな、イネス嬢」
ルシウスがそう答えると、イネスは翡翠の瞳を静かに上げただけだった。
「恐れ入ります。お楽しみいただける催しとなれば幸いです」
返答は端的だった。
ルシウスはわずかに眉を上げる。
たいていの令嬢であれば、あるいは男ですら。形式だけだとしても、皇子に褒められれば頬を染める。
だが彼女は違った。
挨拶を済ませると、再び一礼して隣国の客人が集まるテントに向かって踵を返した。
あまりにあっさりとした態度に、一瞬だけ引き留めようとも思ったが、彼は今までそのような事をしたことがなかった。
ただその背中を見つめて、今まで会った人種とは違うな、と思うだけだった。
イネスは客人たちと軽く挨拶を交わしたあと、役人と会話をし、競技の進行に目を配っている。
ルシウスはその様子を眺めながら、手元の杯を軽く揺らした。
「ずいぶん手慣れているな、イネス嬢は」
傍らに控えていたベルフォール家の年配の家臣が、すぐに一礼する。
「ええ。このような催しは、ほとんどイネス様が取り仕切っておられます」
ルシウスはわずかに眉を上げた。
「このようなものは、当主が行うと思っていたが」
家臣は一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いてから言った。
「旦那様は、イネス様に一任しておいでです。弟君もおられますが……このような催し事は、あまりお得意ではなく」
それだけ言って、家臣は控えめに口を閉ざした。
本来であれば男性が取り仕切るような行事をイネスが行っていることに、彼自身も違和感があるのだろう。
だが聞いた本人は、さして興味がなさそうにその言葉を聞いていた。
再び視線をイネスへ戻す。
あの女が有能であることは、それで十分わかった。
***
日差しが高くなり、会場の空気がふたたびざわめきを増していく。
次の競技がまもなく始まるらしく、観客たちが馬場の周囲へと集まりはじめていた。
柵の近くでは若い令嬢たちが期待に頬を上気させ、商人たちは見やすい場所を探して立ち位置を変える。従者たちも慌ただしく行き交い、待機していた馬たちの鼻息が少しずつ熱を帯びていく。
イネスもまた、進行を確認するため馬場の方へ向かっていた。
競技の始まりに遅れや乱れがないかを自分の目で見ておくつもりなのだろう。高く結った黒髪を揺らしながら、彼女は人の流れを縫うように歩いていく。
ルシウスは、その後ろ姿を何とはなしに目で追っていた。
騒ぎが起きたのは、その時だった。
競技の順番を待っていた馬の一頭が、風に煽られた旗の音に驚いたらしい。首を高く上げ、苛立ったように前脚を踏み鳴らす。
近くにいた若い令嬢は、悲鳴を呑み込みながら後ずさったが、裾を踏んでその場に尻もちをついた。
誰かが声を上げるより早く、イネスが動いた。
ためらいもなく馬の側へ歩み寄り、その首筋へそっと手を置いた。従者が手綱を引き直すあいだ、低く短く何かを言い聞かせるように声を落とす。馬はなおも荒い鼻息を漏らしていたが、数拍もせぬうちに落ち着きを取り戻した。
そのままイネスはしゃがみ込み、立てずに怯えていた令嬢へ手を差し出す。
「立てる?」
令嬢は目を丸くしたまま頷いた。
イネスはその腕を取って抱き起こし、さっと全身を見てから聞く。
「どこか痛めていない?」
「だ、大丈夫です……」
「そう。ならよかったわ」
「馬はむやみに人を襲ったりしないから落ち着いて」
助けられた令嬢は、まだ少し息を乱しながらも頭を下げた。
「イネス様、……ありがとうございます」
頬がうっすらと赤いのは、転んだせいばかりではないのだろう。
イネスは念のためと言って、令嬢を医務室へ案内させる。
その一連の行動を見て、集まっていた令嬢たちは口々にこう言うのだった。
「本当に、イネス様がいらしてよかった」
「さすがだわ」
「頼りになりますね」
その言葉たちに悪意は無く、ただ純粋に彼女を慕っているという響きだけがあった。
ルシウスはその様子をただずっと見ていた。
視線をイネスに向けたまま、先程の家臣に聞く。
「彼女はいつもああなのか」
家臣は、今度は迷いなく答えた。
「はい。領地の方々は、皆イネス様を慕っておられます」
その声音には、先ほどのようなためらいは無く、心から嬉しそうな響があった。
この時からルシウスの彼女に対する興味が、ただの美しい女ではなく、別のものに変わっていった。
***
日が傾きはじめ、競技がひと通り終わる頃には、会場の熱気も少し落ち着きだしていた。
係の者たちが後片付けの用意を始めている。
その頃になってようやく、イネスがもう一度ルシウスの前へ現れた。
「本日の催しは、いかがでしたでしょうか」
朝と同じように、声は落ち着いている。
疲れを感じさせない凛とした態度に、ルシウスはゆるく笑った。
「思っていた以上に楽しめた。街道沿いの催しと聞いていたから、もっと堅いものを想像していたんだが」
「それは何よりです」
「主催が優秀だったからだろうな」
ルシウスはいつも女性を褒める時のように、彼女を褒めた。
だが、イネスはやはり、温度のない澄んだ瞳で視線を返すばかりだった。
「過分なお言葉です」
こんな態度を取られたのは初めてで、ルシウスは一瞬だけ考え込む。
どうすれば彼女の瞳に温度が宿るのか。興味が沸いた。
だから、いつものようにもう一歩だけ距離を詰めてみることにした。
「この後、二人で食事でもどうだ」
さらりと落とされた誘いに、イネスは一瞬だけ目を瞬いた。
驚いたというより、予想していなかった事柄に対するほんの小さな戸惑いだった。
だが、すぐにその表情はいつもの落ち着きへ戻る。
「……社交辞令だとしても、大変光栄です」
その返しに、ルシウスは思わず目を細めた。
本気にしていない。
そう告げられたも同然だった。
「いや」
ルシウスはそこで、いつもよりわずかに低い声を出した。
「私は本気で言っている」
言いながら、彼は自然な所作でイネスの手を取った。
女の手に触れることなど、彼にとっては呼吸と変わらぬほど慣れた仕草だった。
翡翠の瞳が、わずかに揺れる。
初めて見た、小さな変化だった。
「君のように、多才で優秀で、そのうえ美しい女性にはそうそう出会えない」
口説き文句なら、いくらでも持っている。
相手が喜ぶ言葉も、頬を染めるタイミングも、ルシウスはよく知っていた。
「ぜひ、もっと君のことが知りたい」
イネスは手を取られたまま、少しだけ困ったように眉を寄せた。
嫌悪ではない。羞じらいとも違う。どう受け取るべきか測りかねているような、そんな表情だった。
「……大変光栄なお言葉ですが」
彼女は慎重に言葉を選ぶように、いったんそこで区切った。
「私は、そのように優れた人間ではございません」
「この後もまだ、やることがございますので」
やわらかく、だがきっぱりと。
イネスはルシウスの言葉をからかいと捉えたのだろう。
「また機会が、ございましたら」
最後に少しだけ言い淀んでから、一言だけそう付け足した。
ルシウスはそこでようやく、彼女の手を離す。
「残念だ」
言葉とは裏腹に、口元にはうっすら笑みが浮かんでいた。
断られたというのに、不思議と不快ではない。
むしろ少し面白くなってきている自分がいた。
この女は、本当に変わっている。
あの翡翠の瞳に、もっと別の色が宿るところを見てみたい。
そんな、らしくもない興味が胸のどこかに湧き上がった。
「では、またの機会を楽しみにしていよう」
ルシウスがそう言うと、イネスは小さく一礼した。
「恐れ入ります」
最後まで、彼女の温度は読み切れなかった。
イネスが去っていく背を、ルシウスはしばらく眺めていた。
高い位置で結われた黒髪が歩みに合わせて揺れ、濃紺の乗馬服に包まれた背筋は、最後まで凛としている。
面白い、とルシウスは思った。
第一皇子相手に、ああいう態度をとる女がいるのか。
「殿下」
少し離れたところで控えていた側近が、遠慮がちに声をかけてくる。
帰還の支度が整ったらしい。
「ああ」
短く応じ、ルシウスはようやく視線を外した。
地方視察の帰路など、普段なら記憶にも残らない。
だがその日の馬車の中で、ルシウスは思ったより何度もイネスのことを思い返していた。
***
王都へ戻った翌日。
執務机の上に積まれた書類へざっと目を通しながら、ルシウスは何でもない口調で側近に言った。
「ベルフォール伯爵家について、少し調べておけ」
側近は、一瞬だけ目を上げた。
だがすぐに一礼する。
「伯爵家全体を、でよろしいでしょうか」
「家の現状と、娘のことを中心に」
「かしこまりました」
簡潔な命令。
視察先の有力貴族について把握しておく。表向きには、ごく自然な指示に聞こえる。
ただ少し、確かめてみたくなっただけだ。
彼女はどのように育ち、生きてきたのか。
数日後。
ベルフォール伯爵家へ、王都から一通の書状が届くことになる。




