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女遊び好きな皇子に契約結婚を申し込まれましたが、お互い好きになったら離婚だそうです  作者: 春野スミレ


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NO.2 仮面の夜

現在、2026年5月13日までに書いた全16話を、20話構成で読みやすく修整中です!そこまで読んでくださった皆様は、21話からが続きになりますのでよろしくお願いいたします!

21話以降は、5月中に載せられるよう、鋭意製作中です!引き続きよろしくお願いいたします!

 王宮の大広間は、今宵いっそう華やいでいた。


 シャンデリアが金の光を降らせ、磨き抜かれた大理石の床には、踊る人々の影がやわらかく揺れている。楽団の旋律に合わせ、色とりどりの衣装がゆるやかに流れ、香水と花の匂いがほのかに溶け合っていた。


 その華やぎの中へ、新たなざわめきが広がる。


「第一皇子殿下だわ」

「妃殿下もご一緒ね」


 声を潜めた囁きが、あちらこちらで重なった。


 ルシウス・アルヴェインが広間へ姿を現しただけで、空気は目に見えて変わる。

 燭火を受けて淡く光る銀髪。夜を閉じ込めたような紺の瞳。礼装越しにも分かる、無駄のないしなやかな体躯。

 元より人目を引く男ではあったが、婚姻後初めての夜会とあって、その存在感はいっそう際立って見えた。


 その隣を歩くイネスもまた、視線を集めずにはいられなかった。

 つややかな黒髪は、夜の水面のように滑らかに肩へ落ちている。灯りを映した翡翠の瞳は、鮮やかでありながら静かだった。

 濃紺のドレスは華美すぎず、けれど白い肌との対比が、彼女の端正な顔立ちをいっそう際立たせている。


 目を逸らし難い、静かな気品。

 王宮の夜会に集う令嬢たちの中に立っても、イネスは少しも見劣りしなかった。


「……本当に、ベルフォール伯爵家のご令嬢なのね」

「ええ。でも、あの家、かなりの財政難ではなかった?」

「殿下が一目惚れなさったのだとか」


 囁きは、扇の陰に隠されながらもよく通る。

 祝福の笑みを浮かべながら、言葉の端には小さな棘が覗いていた。


 イネスはそれらに気づいていた。気づいていながら、何ひとつ反応を見せない。

 ただ背筋を伸ばし、ルシウスの隣を歩く。その姿勢は完璧で、陰口を叩く者たちのほうが、かえって品を失って見えるほどだった。


 ルシウスは、そんな周囲のざわめきすら楽しむように口元をわずかに緩める。そして当然のように、イネスへ手を差し出した。


 白い手袋に包まれた長い指先。

 イネスは一瞬のためらいもなく、その手に自分の手を重ねた。

 その仕草だけで、広間の空気がまた揺れる。


 二人が並ぶと、不思議なほど絵になった。銀と黒。夜の色を宿した男と、深い森の静けさを抱いた女。あまりに整いすぎた光景に、嫉妬すら一瞬言葉を失う。


「注目の的だな」


 ダンスの輪へ向かう途中、ルシウスが低く囁いた。

 その声音は、周囲の耳には届かない。

 イネスは前を向いたまま、淡々と答える。


「私たちが結婚してから初めての夜会ですから」


 浮つきも熱もない返答だった。

 それでもルシウスは気を悪くした様子もなく、むしろ面白がるように目を細める。


 広間の中央で、音楽がひときわ優雅に流れ出した。

 ルシウスがイネスの腰へ手を添え、彼女をダンスへ誘う。指先ひとつ、視線の運び方ひとつが洗練されていて、いやでも周囲の目を奪った。


 イネスもまた、彼の導きに一歩も遅れず応じる。スカートの裾がふわりと広がり、黒髪が灯りを受けてやわらかく揺れた。

 音楽に合わせて回る二人は、まるで長く寄り添ってきた恋人たちのようだった。


 誰もが思う。

 第一皇子は、やはりこの妃を特別に想っているのだと。


 少なくとも、この瞬間の広間ではそうとしか見えなかった。

 曲が終わると、広間のあちこちから控えめな拍手が起こる。


 ルシウスはイネスの手を取ったまま、優雅に一礼する。その横顔は涼やかで、息ひとつ乱れていない。

 イネスもまた、ドレスの裾をわずかに摘み、完璧な所作で礼を返した。


「なんて美しいの」

「殿下、本当にあの方に夢中なのではなくて?」

「ベルフォール嬢、思っていたよりずっと堂々としていらっしゃるわ」


 羨望も、疑念も、イネスにはもう聞き慣れた雑音のようなものだった。

 落ち目の伯爵家の娘が、なぜ第一皇子の隣に立つのか。

 そう問う視線を、彼女は何度も見てきた。


 だから今さら、胸をざわつかせるほどのものではない。

 ルシウスは差し出されたグラスを受け取り、自然な手つきでイネスにも一杯を手渡した。


「……さすが、お上手ですね」


 翡翠の瞳を伏せ、イネスが小さく言う。

 ルシウスはグラスを傾ける手を止めず、口元だけで笑った。


「何のことだ」


「皆さま、すっかり信じております。殿下がわたしを深く愛していらっしゃると」


 その声に棘はない。

 ただ事実を述べるだけの、乾いた声音だった。


 ルシウスは一瞬だけイネスを見る。

 翡翠の瞳は驚くほど静かで、そこには照れも気後れも浮かんでいない。


 美しい女は数多く見てきた。

 けれど、これほど己に夢を見ない女は、やはり珍しかった。


「そう見せるのが今夜の役目だろう」


「ええ。滞りなく果たせたようで何よりです」


 つまらないほど真面目な返答に、ルシウスはわずかに眉を上げる。

 だが、それ以上は何も言わなかった。


 そのまま二人はしばらく、夜会の輪の中で完璧な夫婦として振る舞った。

 声を掛けられれば並んで応じ、祝辞を受ければ睦まじく微笑み、求められればまた一曲踊る。

 最初に「落ち目の伯爵家の娘」と軽んじていた者ほど、次第に口をつぐんでいった。


 ベルフォール伯爵家は、確かに苦しい。だが、その娘は少しも惨めではない。

 そう思わせるだけの強さが、イネスにはあった。


 やがて、一通りの挨拶と踊りを終えた頃。ルシウスはそっとグラスを置き、広間の喧騒から少し外れた回廊へと足を向けた。イネスも何も言わず、そのあとに従う。


 大理石の柱に囲まれた回廊は、大広間に比べるとひどく静かだった。遠くから音楽は届くものの、先ほどまでの熱は薄い。

 窓の外では、王宮の庭園に夜の気配が満ちていた。

 ルシウスは歩みを緩めることなく、前を見たまま言った。


「私はもう少し楽しんでいく。君は好きにしろ」


 イネスはそれを当然のように受け取った。


「わかりました」


 ただそれだけを返す。

 引き留める言葉も、探るような視線もない。


 ルシウスがどこへ行くのか。

 この後に何をするのか。

 彼女は一切問わなかった。


 問う必要がない。

 この結婚は、初めからそういうものだ。

 ルシウスが望んだのは、愛でも忠節でもなく、ただ都合のいい妃。


 人前では仲睦まじく。私的な領分には踏み込まない。

 イネスはそれを承知で、この立場を受け入れた。

 だからこそ、ここで咎める理由はどこにもない。


「では、失礼いたします」


 イネスが一礼すると、ルシウスは一瞬だけ、何か言いたげに彼女を見た。

 けれど結局、口元に曖昧な笑みを浮かべただけで背を向ける。


「今夜も良い夢を、イネス」


 その優しげな響きにも、イネスは何も感じない。

 ただ、軽く頭を下げるだけだった。


「殿下も」


 それだけ言うと、ルシウスは回廊の奥へ消えていく。

 イネスはその背を見送りもせず、反対側の静かな通路へ歩き出した。


***


 王宮の奥にある小広間は、夜会の熱気から切り離されたように静まり返っていた。


 壁際の燭台だけが控えめに灯り、厚い絨毯が足音を吸い込んでいる。遠くから届く楽の音はもうほとんど輪郭を失っていて、ここだけが別の夜に属しているようだった。


 ソファに腰を下ろした令嬢は、先ほどの広間とはまるで違う顔でルシウスを見上げていた。


 緊張と期待とが入り混じった、熱を帯びた眼差し。

 夜会では上手に隠していた感情も、二人きりになれば隠しきれない。


「ご結婚されたばかりなのに、よろしいのですか?」


 わずかに甘えるような声だった。

 咎めるというよりは、確かめたいのだろう。自分がまだ、彼の夜に入り込める立場なのかどうかを。


 ルシウスは彼女の隣に座り、肘掛けにもたれたまま小さく笑った。


「そういう窮屈な関係は好まない。彼女も承知の上だ」


 令嬢の肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。

 その答えに安堵してしまう自分がいることを、彼女はきっと恥じている。

 それでもなお、胸のどこかで期待してしまうのだ。

 この男に選ばれる一人でありたいと。


 ルシウスはその視線を正面から受け止めた。紺の瞳がゆるやかに細められる。ただそれだけで、相手の心をほどいてしまうような眼差しだった。


「そんな顔をするな」


 低い声でそう言って、ルシウスは令嬢の頬へ手を伸ばした。指先がそっと肌をなぞる。

 令嬢は息を呑み、じっと動かずにいる。彼の指先を待ちわびるように。


 ルシウスは身を屈め、彼女の唇へ軽く口づけた。

 ほんの一瞬。令嬢の睫毛がかすかに震え、閉じられる。


 自分へ向けられる憧れも、熱も、甘い期待も。ルシウスには手に取るように分かっていた。

 美しく、愛らしいものたちが自分の前で心を揺らすさまは、たしかに彼を楽しませる。

 だからルシウスはこうして微笑み、触れ、夢を見せる。


 彼女はわずかに身を固くしたあと、すぐにそれを解いた。頬を上気させたまま、拒む気配はない。

 あるのは、今夜は自分が選ばれたのだという喜びの色だけだった。


 ルシウスは、ただ満足そうに目を細める。燭火が揺れ、部屋の影がわずかに動いた。

 二人は、夜の帳の中へ静かに溶けていった。


***


 王宮の奥に与えられた私邸へ戻った頃には、夜もすっかり更けていた。


 第一皇子夫妻のために整えられたその一角は、昼間の王宮の華やぎから切り離されたように静まり返っている。広い玄関広間も、長い回廊も、深夜ともなれば人の気配は薄い。


 ルシウスは外套を侍従に預けながら、ふと視線を上げた。

 まだ灯りが落ちていない部屋がひとつある。


 イネスが書斎代わりに使っている小部屋だった。

 帳簿や書簡に目を通している姿を、ルシウスも何度か見かけている。

 扉を軽く叩くと、すぐに内側から落ち着いた声が返った。


「どうぞ」


 室内には、机の上の燭台がやわらかな明かりを落としていた。


 イネスはその灯りの下で、何枚かの書類を前にしていたらしい。夜の支度を整え、艶やかな黒髪が肩を流れている。

 簡素な室内着姿だったが、翡翠の瞳を上げた瞬間の静かな美しさは、少しも損なわれていなかった。


 ルシウスを見ても、彼女の表情はほとんど変わらない。


「お帰りなさいませ、殿下」


 そう告げる声は、驚くほど平坦だった。

 喜びも、安堵も、咎める色もない。

 ルシウスは扉のそばに立ったまま、少しだけ眉を動かす。


「起きていたのか」


「少し、ベルフォール家から届いた書類を整理しておりました」


 机の上には、開かれた手紙と帳簿が並んでいる。

 夜更けまでそういうものに向き合っているあたりが、いかにもイネスらしい。


 彼女は書類から手を離し、すっと立ち上がった。

 それから事務的な口調のまま、淡々と尋ねる。


「本日はどちらで休まれますか?」


 この私邸には、夫婦としての体面を整えるための主寝室がひとつある。

 だが、それに加えて、それぞれ個別の寝室も与えられていた。


 どちらを使うかは、ほとんどルシウスが決めている。

 問いとしては、何もおかしくない。

 それなのに。あまりに淡々とした声に、ほんのわずか、おかしな気分になった。


 帰宅の遅さも、先刻の残り香も。この女には、何ひとつ意味を持たないらしい。


「……君は、何も気にならないのか」


 気づけば、そんな言葉が口をついていた。

 イネスは首を傾げることすらしなかった。

 ただまっすぐにルシウスを見て、静かに答える。


「殿下の私生活には、踏み込まないという契約でしたので」


 それは初めて会った時と変わらない、温度のない、穏やかな瞳だった。


「そうだな」


 それだけ返すと、ルシウスはしばらく立ったままイネスを見ていた。


 夜会では誰もが羨むほど美しい妻。

 人前では完璧に寄り添い、求められる役目を一分の隙もなく果たす女。


 なのに、自分が夜を誰と過ごそうと、まるで興味がない。

 理想的なはずだった。


 愛を求めず、束縛もしない。

 嫉妬に目を曇らせることもなく、夢を見ることもない。

 都合のいい妻としては、これ以上ないほど正しい。


 やはりこの女にして正解だった。

 そう思う。思うのに。


 胸の奥に、ひどく小さな棘のようなものが残る。

 ほんの少しだけ、面白くない。

 ルシウスは小さく息を吐き、ようやく扉枠から身を離した。


「今日は自室に戻る」


「承知しました」


 イネスはそれだけ言って、机の上の書類へ視線を戻した。

 ルシウスはその横顔を一瞬だけ見つめたあと、何も言わず部屋を出る。


 廊下へ出ると、夜の静けさがひどく深かった。

 ルシウスの足音だけが、広い私邸の中に乾いて響く。


 彼女は、今までに会ったどの女とも違う。


 第一皇子ルシウス・アルヴェインが、イネス・ベルフォールという女に初めて目を留めたのは、王宮ではない。

 山間の街道に春の風が吹き抜ける、あの日のことだ。

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