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女遊び好きな皇子に契約結婚を申し込まれましたが、お互い好きになったら離婚だそうです  作者: 春野スミレ


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2/12

NO.1 仮面の夜

 王宮の大広間は、今宵いっそう華やいでいた。

 幾重にも吊るされたシャンデリアが金の光を降らせ、磨き抜かれた大理石の床に、踊る人々の影をやわらかく映し出している。


 楽団が奏でる優雅な旋律に合わせ、色とりどりの衣装がゆるやかに揺れ、香水と花の匂いがほのかに溶け合っていた。

 その華やぎの中心へ、新たなざわめきが波のように広がる。


「第一皇子殿下だわ」

「妃殿下もご一緒ね」


 声を潜めた囁きが、あちらこちらで重なる。

 ルシウス・アルヴェインが広間へ姿を現しただけで、空気は目に見えて変わった。


 燭火を受けて淡く光る銀髪。夜をそのまま閉じ込めたように深い紺の瞳。礼装越しにも分かる、無駄のないしなやかな体躯。元より人目を引く男ではあったが、婚姻後初めての夜会とあって、その存在感はいっそう際立っているように見えた。


 その隣を歩く令嬢もまた、視線を集めずにはいられない美しさをまとっていた。


 イネス・ベルフォール。

 つややかな黒髪は夜の水面のように滑らかで、ゆるやかな波を描きながら肩先に落ちている。

 灯りを映した翡翠のような緑の瞳は、鮮やかでありながら静かだった。華美に飾り立てているわけではないのに、濃紺のドレスと白い肌の対比が、かえって彼女の端正な顔立ちを際立たせていた。

 目を逸らし難い静かな気品。

 王宮の夜会に集う令嬢たちの誰よりも、彼女は堂々として見えた。


「……本当に、ベルフォール伯爵家のご令嬢なのね」

「ええ。でも、あの家、近ごろかなり苦しいのでしょう?」

「それなのに、第一皇子妃だなんて」

「殿下が一目惚れなさったのだとか」

「まあ。でもあの方、ずいぶん女性関係が華やかな方ではなくて?」


 囁きは、扇の陰に隠されながらもひどくよく通る。


「どうせ気まぐれではなくて?」

「そうよ。いくらお美しいといっても、あの家では……」

「長く続くとは思えませんわ」


 祝福の笑みを浮かべながら、言葉の端には小さな棘が覗く。

 イネスはそれらに気づいていた。気づいていながら、何ひとつ反応を見せない。ただ背筋を伸ばし、ルシウスの後に続いて歩く。その姿勢は完璧で、陰口を叩く者たちのほうがよほどみじめに見えるほどだった。


 ルシウスは、そんな周囲のざわめきすら楽しむように口元をわずかに緩めた。そして、当然のようにイネスへ手を差し出す。


 白い手袋に包まれた長い指先。

 イネスは一瞬のためらいもなく、その手に自分の手を重ねた。


 その仕草だけで、広間の空気がまた少し揺れる。

 ルシウスは彼女を伴い、夜会の中央へ歩み出た。二人が並ぶと、不思議なほど絵になった。銀と黒。夜の色を宿した男と、深い森の静けさを抱いた女。あまりに整いすぎたその光景に、嫉妬すらしばし言葉を失う。


「注目の的だな」


 ダンスの輪へ向かう途中、ルシウスが低く囁いた。

 その声音は周囲の耳には届かない。

 イネスは前を向いたまま、淡々と答える。


「私たちが結婚してから初めての夜会ですから」


 返されたのは、熱も浮つきもない言葉。それでもルシウスは特に気を悪くした様子もなく、むしろ面白がるように目を細めた。


 広間の中央で、音楽がひときわ優雅に流れ出す。

 ルシウスがイネスの腰へ手を添え、彼女をダンスへと誘った。

 指先ひとつ、視線の運び方ひとつが洗練され尽くしていて、いやでも周囲の目を奪う。イネスもまた、彼の導きに一歩も遅れず応じた。スカートの裾がふわりと広がり、黒髪が灯りを受けてやわらかく揺れる。


「まあ……」

「本当にお似合いだこと」

「殿下、あんな目をなさるのね」


 ささやきが、今度は羨望を色濃く帯びる。

 音楽に合わせて回る二人は、まるで長く寄り添ってきた恋人たちのようだった。ルシウスがほんの少し身をかがめ、イネスの耳元に何かを囁けば、外からは睦まじい秘密の言葉にしか見えない。イネスがその声にごくわずかに顔を傾ける仕草もまた、見る者の想像を掻き立てた。


 誰もが思う。

 第一皇子は、やはりこの妃を特別に想っているのだと。

 少なくとも、この瞬間の広間ではそうとしか見えなかった。


 見つめ合う距離、離れる角度、指先が触れ合う時間。何もかもが完璧だった。


 曲が終わると、広間のあちこちから控えめな拍手が起こった。

 ルシウスはイネスの手を取ったまま、まるで当然のような顔で一礼する。その横顔は涼やかで、息ひとつ乱れていない。

 イネスもまた、ドレスの裾をわずかに摘み、完璧な角度で礼を返した。

 二人が踊りを終えただけで、また新たなざわめきが生まれる。


「なんて美しいの」

「殿下、本当にあの方に夢中なのではなくて?」

「ベルフォール嬢、思っていたよりずっと堂々としていらっしゃるわ」


 その言葉の中に混じる羨望も、疑念も、イネスにはもう聞き慣れた雑音のようなものだった。婚約が発表されてからというもの、社交界の視線は好奇と悪意をいくらでも含んで彼女へ注がれてきた。

 落ち目の伯爵家の娘が、なぜ第一皇子の隣に立つのか。そう問う目を、彼女は何度も見てきた。

 だから今さら、胸をざわつかせるほどのものではない。


 ルシウスは差し出されたグラスを受け取り、自然な手つきでイネスにも一杯を手渡した。


「……さすが、お上手ですね」


 翡翠の瞳を伏せ、イネスが小さく言う。

 ルシウスはグラスを傾ける手を止めもせず、口元だけで笑った。


「何のことだ」


「皆さま、すっかり信じております。殿下がわたしを深く愛していらっしゃると」


 その言葉にも、棘はない。ただ事実を述べるだけの、乾いた声音。

 ルシウスは一瞬だけイネスを見た。翡翠の瞳は驚くほど静かで、そこには照れも気後れも浮かんでいない。美しい女は数多く見てきたが、これほど己に夢を見ない女はやはり珍しかった。


「そう見せるのが今夜の役目だろう」


「ええ。滞りなく果たせたようで何よりです」


 つまらないほど真面目な返答に、ルシウスはわずかに眉を上げたが、それ以上は何も言わなかった。


 そのまま二人はしばらく、夜会の輪の中で完璧な夫婦として振る舞った。声を掛けられれば並んで応じ、祝辞を受ければ睦まじく微笑み、求められればまた一曲踊る。


 その落ち着いた佇まいは、むしろ社交に長けた家門の姫君らしく見え、最初に「落ち目の伯爵家の娘」と軽んじていた者ほど、次第に口をつぐんでいった。

 ベルフォール伯爵家は確かに苦しい。だが、その娘は少しも惨めではない。

 そう思わせるだけの強さが、イネスにはあった。


 やがて、一通りの挨拶と踊りを終えた頃。ルシウスはそっとグラスを置き、広間の喧騒から少し外れた回廊の方へと足を向けた。イネスも何も言わず、そのあとに従う。


 大理石の柱に囲まれた回廊は、大広間に比べるとひどく静かだった。遠くから音楽は届くものの、先ほどまでの熱は薄い。窓の外では、王宮の庭園に夜の気配が満ちている。

 ルシウスは歩みを緩めることなく、前を見たまま言った。


「私はもう少し楽しんでいく。君は好きにしろ」


 イネスはそれを当然のように受け取った。


「わかりました」


 ただそれだけを返す。

 引き留める言葉も、探るような視線もない。ルシウスがどこへ行くのか、この後に何をするのか、彼女は一切問わなかった。問う必要も感じていなかった。


 この結婚は、初めからそういうものだ。

 ルシウスが望んだのは、愛でも忠節でもなく、ただ都合のいい婚約者。人前では申し分なく、私的な領分には踏み込まない女。


 イネスはそれを承知で、この立場を受け入れた。

 だからこそ、ここで咎める理由はどこにもない。


「では、失礼いたします」


 イネスが一礼すると、ルシウスは一瞬だけ、何か言いたげに彼女を見た。けれど結局、口元に曖昧な笑みを浮かべただけで背を向ける。


「今夜も良い夢を、イネス」


 いかにも優しげで、いかにも意味ありげな言葉だった。きっと他の女なら、その一言に心を躍らせただろう。けれどイネスは、軽く頭を下げるだだった。


「殿下も」


 それだけ言うと、ルシウスは回廊の奥へ消えていく。

 イネスはその背を見送りもせず、反対側の静かな通路へ歩き出した。


***


 王宮の奥にある小広間は、夜会の熱気から切り離されたように静まり返っていた。


 壁際の燭台だけが控えめに灯り、厚い絨毯が足音を吸い込んでいる。遠くから届く楽の音はもうほとんど輪郭を失っていて、ここだけが別の夜に属しているようだった。


 そのソファに腰を下ろした令嬢は、先ほどの広間とはまるで違う顔でルシウスを見上げていた。緊張と期待とが入り混じった、熱を帯びた眼差し。夜会では上手に隠していた感情も、二人きりになれば隠しきれない。


「ご結婚されたばかりなのによろしいのですか?」


 わずかに甘えるような声。

 咎めるというよりは、確かめたいのだろう。自分がまだ、彼の夜に入り込める立場なのかどうかを。

 ルシウスは彼女の隣に座り、肘掛けにもたれたまま小さく笑った。


「そういう窮屈な関係は好まない。彼女も承知の上だ」


 令嬢の肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。

 その答えに安堵してしまう自分がいることを、彼女はきっと恥じている。それでもなお、胸のどこかで期待してしまうのだ。この男に選ばれる一人でありたいと。


 ルシウスはその視線を正面から受け止めた。

 紺の瞳がゆるやかに細められる。夜の色を湛えたその眼差しは、ただそれだけで相手の心をほどいてしまうようだった。


「そんな顔をするな」


 低い声でそう言って、ルシウスは令嬢の頬へ手を伸ばした。

 指先がそっと肌をなぞる。白く柔らかな頬に、彼の長い指がよく映えた。


 令嬢は息を呑み、じっと動かずにいる。彼の指先を待ちわびるように。

 ルシウスはそのまま身を屈め、彼女の唇へ軽く口づけた。

 ほんの一瞬。令嬢の睫毛がかすかに震え、閉じられる。


 彼女の中で、たった今の触れ合いがどれほど甘く意味を持ち始めているのか、ルシウスには手に取るように分かっていた。

 自分へ向けられる憧れも、熱も、甘い期待も。

 美しく、愛らしいものたちが自分の前で心を揺らすさまは、たしかに彼を楽しませる。だからルシウスはこうして微笑み、触れ、夢を見せる。


 ルシウスの手が、令嬢の肩を滑り、ゆるやかにドレスの裾へとかかる。

 彼女はわずかに身を固くしたあと、すぐにそれを解いた。頬を上気させたまま、拒む気配はない。

 今夜は自分が選ばれたのだという喜びの色が滲んでいた。


 ルシウスは、ただ満足そうに目を細める。

 燭火が揺れ、部屋の影がわずかに動く。

 その先は、夜の帳の中へ静かに溶けていった。


***


 屋敷へ戻った頃には、夜もすっかり更けていた。

 王宮から与えられたこの邸宅は、夫婦としての体裁を整えるために用意されたものだ。

 広い玄関ホールも、長い廊下も、深夜ともなれば人の気配は薄い。遅い帰宅にも慣れているのか、使用人たちも必要以上に顔を出さない。

 ルシウスは外套を侍従に預けながら、ふと視線を上げた。


 まだ灯りが落ちていない部屋がひとつある。

 書斎代わりに使われている小部屋だった。イネスがよく帳簿や書簡に目を通している場所だと、ルシウスも知っている。

 扉を軽く叩くと、すぐに内側から落ち着いた声が返った。


「どうぞ」


 室内には、机の上の燭台がやわらかな明かりを落としていた。

 イネスはその灯りの下で、何枚かの書類を前にしていたらしい。黒髪はもう夜会用のきっちりとした形ではなく、ほどかれた波が肩を流れている。

 ドレスも着替えていて、簡素な室内着姿だった。それでも、翡翠の瞳を上げた瞬間の静かな美しさは少しも損なわれていなかった。

 ルシウスを見ても、彼女の表情はほとんど変わらない。


「お帰りなさいませ、殿下」


 そう告げる声は、驚くほど平坦だった。

 喜びも、安堵も、咎める色もない。

 ルシウスは扉のそばに立ったまま、少しだけ眉を動かす。


「起きていたのか」


「少し、ベルフォール家から届いた書類を整理しておりました」


 机の上には開かれた手紙と帳簿が並んでいる。

 弟か、あるいは父から届いたものだろう。夜更けまでそういうものに向き合っている辺りが、いかにもイネスらしいといえばらしい。

 彼女は書類から手を離し、すっと立ち上がった。

 それから事務的な口調のまま、淡々と尋ねる。


「本日はどちらで休まれますか?」


 この邸宅には、夫婦としての体面を整えるための主寝室がひとつある。だが、それに加えてそれぞれ個別の寝室も与えられていて、必要に応じて使い分けていた。


 どちらを使うかはほとんどルシウスが決めていたが、あまりに淡々とした問に、ほんのわずかにおかしな気分になった。

 先刻の残り香も、帰宅の遅さも、この女には何ひとつ意味を持たないらしい。

 自分がどこで誰と何をしてきたのか、問い質す気配さえない。


「……君は、何も気にならないのか」


 気づけば、そんな言葉が口をついていた。

 イネスは首を傾げることすらしなかった。

 ただまっすぐにルシウスを見て、静かに答える。


「殿下の私生活には、踏み込まないという契約でしたので」


 それは初めて会ったときと変わらない、温度の無い、穏やかな瞳だった。


「そうだな」


 それだけ返すと、ルシウスはしばらく立ったままイネスを見ていた。


 夜会では誰もが羨むほど美しい婚約者。人前では完璧に寄り添い、求められる役目を一分の隙もなく果たす女。なのに、自分が夜を誰と過ごそうと、まるで興味がない。


 理想的なはずだった。

 愛を求めず、束縛もしない。

 嫉妬に目を曇らせることもなく、夢を見ることもない。

 都合のいい婚約者としては、これ以上ないほど正しい。

 やはりこの女にして正解だった。


 そう思う。思うのに。

 胸の奥に、ひどく小さな棘のようなものが残る。

 ほんの少しだけ、面白くない。

 その感情の正体を、ルシウスはまだ知らなかった。

 イネスはそんな彼の沈黙にも特に意味を見出さず、ただもう一度尋ねる。


「主寝室をご利用になりますか。それとも個別のお部屋へ?」


 そこに、夫に向けるような感情は一つもない。

 ルシウスは小さく息を吐き、ようやく扉枠から身を離した。


「今日は自室に戻る」


「承知しました」


 イネスはそれだけ言って、机の上の書類へ視線を戻した。

 ルシウスはその横顔を一瞬だけ見つめたあと、何も言わず部屋を出る。


 廊下へ出ると、夜の静けさがひどく深かった。

 使用人たちは遠く、灯りは淡い。足音だけが、広い邸内に乾いて響く。


 これほどまで理想的な相手を見つけたはずなのに、この胸の違和感が消えない。


 第一皇子ルシウス・アルヴェインが、イネス・ベルフォールという女に初めて目を留めたのは、王宮ではなかった。


 山間の街道に春の風が吹き抜ける、あの日のことだ。

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