プロローグ
夜会の喧騒が少しずつ薄れはじめたころだった。
大広間では、なおも弦楽器のやわらかな音色が流れ、磨き上げられた床の上を、色とりどりのドレスがゆるやかに揺れていた。
けれど、王宮の奥まった回廊までくれば、その華やぎもひとつ薄い幕を隔てたように遠い。
燭台の灯が落とす黄金の明かりの中で、第一皇子ルシウス・アルヴェインは、一人の令嬢の手を取っていた。
淡く光を弾く銀髪。夜を溶かしこんだような紺の瞳。礼装越しにもわかる、しなやかで隙のない体躯。立っているだけで人目を引く男だったが、何より厄介なのは、その美貌に驕りも押しつけがましさもないことだった。
彼は誰に対してもやわらかく微笑み、自然な仕草で距離を詰める。だからこそ、相手は気づかぬうちに心を許してしまう。
「今夜の君は、誰より目を引いていた」
低く甘い声が落ちると、令嬢は頬を染めて睫毛を伏せた。
「そんな……殿下にそう言っていただけるなんて、夢のようですわ」
「夢だなんて。君ほど愛らしい人にそんな顔をされては、こちらが困る」
くすりと笑って、ルシウスは彼女の指先へ軽く口づけた。
その仕草はあまりにも慣れていて、優しくて、特別に見えた。
令嬢の瞳が熱を帯びる。彼女だけではない。ルシウスに甘い言葉を囁かれ、あたかも自分だけが大切に扱われているのだと思った女は、これまでにも少なくなかった。
ルシウスにとって、女性は等しく愛でるべき存在だった。
美しく、愛らしい彼女たちは彼を楽しませてくれる。
ただ、彼女たちが永遠を求めた瞬間、彼の興味はたちまち失せるのだった。
ルシウスが口づけをしようと顔を近づけた、その時。
「……ルシウス殿下」
張りつめた声が、二人のあいだに割り込んだ。
振り返ると、少し離れた場所にもう一人、若い令嬢が立っていた。
薄青のドレスの裾をぎゅっと握りしめ、今にも泣き出しそうな顔でこちらを見ている。
けれど取り乱すまいと必死に堪えているのが、その震える肩先から伝わってきた。
「わたくし……ずっと、殿下をお待ちしていたのです」
先ほどまでルシウスの腕の中にいた令嬢が気まずそうに息を呑む。新たに現れた令嬢は彼女を見て、傷ついたように視線を揺らした。
「その方と、どういうご関係なのですか」
問う声はあまりにも頼りなかった。
ルシウスは少しも動じなかった。いつもと同じ、穏やかな顔のままだった。
薄青のドレスの令嬢は、震える唇を引き結んだあと、ようやく絞り出すように言った。
「わたくしを、愛しているのではなかったのですか」
ルシウスはいつもの笑みを崩さぬまま、ゆるやかに目を細めた。
「もちろん、愛しているさ」
あまりにも優しく、温かな声音。
けれど彼の言葉は一つも優しくは無かった。
「君のことも、こちらの令嬢のこともね。私にとっては、どちらも同じことだ」
静かな回廊に、短い沈黙が落ちた。
最初に息を詰めたのは、薄青のドレスの令嬢だけではなかった。先ほどまで頬を染めていたもう一人の令嬢もまた、手を取られたまま、夢から醒めたような目でルシウスを見上げていた。
ルシウスは、そのどちらの表情にも特段興味を持たなかった。
「そんな……」
かろうじて零れた声は、問いにも抗議にもなりきれなかった。
ルシウスは小さく肩をすくめる。
「今日はこちらのご令嬢と過ごしたい。君はまた機会があればね」
薄青のドレスの令嬢は、しばらく何かを言おうとした。怒りでも、涙でも、せめてひとつ強い感情をぶつけることができたなら、まだ救いはあったかもしれない。
けれど、またいつか自分の順番が回ってくるならと、淡い期待が消えない。
その隙に、ルシウスは最初の令嬢へと視線を戻した。
「行こうか」
彼女はためらった。けれど、その手を振りほどくことはできなかった。ここで拒めば、自分まで惨めな側に立つのだと、本能的に察したのかもしれない。あるいは、まだほんの少し、今この瞬間だけは特別でいたいと願ってしまったのか。
そっと差し出された手に、自分の指を重ねる。
ルシウスは満足そうに微笑み、そのまま彼女を伴って回廊の奥へ歩き出した。王宮のさらに奥、夜の灯りが届きにくい静かな一室へと、迷いのない足取りで。
薄青のドレスの令嬢だけが、その場に取り残された。
閉ざされた扉の向こうへ消えていく二人の背を見つめたまま、彼女はしばらく動けなかった。ぎゅっと握りしめた扇の骨が、細い指先に食い込んでいる。けれど痛みを感じる余裕もないのだろう。
遠くではまだ、夜会の音楽が優雅に続いていた。笑い声も、グラスの触れ合う澄んだ音も、何もかもが何事もなかったように流れていく。
この頃のルシウスは、まだ知らなかった。
いずれ、たった一人の無関心にさえ、心を乱される日が来ることを。




