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女遊び好きな皇子に契約結婚を申し込まれましたが、お互い好きになったら離婚だそうです  作者: 春野スミレ


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1/11

プロローグ

 夜会の喧騒が少しずつ薄れはじめたころだった。


 大広間では、なおも弦楽器のやわらかな音色が流れ、磨き上げられた床の上を、色とりどりのドレスがゆるやかに揺れていた。

 けれど、王宮の奥まった回廊までくれば、その華やぎもひとつ薄い幕を隔てたように遠い。


 燭台の灯が落とす黄金の明かりの中で、第一皇子ルシウス・アルヴェインは、一人の令嬢の手を取っていた。


 淡く光を弾く銀髪。夜を溶かしこんだような紺の瞳。礼装越しにもわかる、しなやかで隙のない体躯。立っているだけで人目を引く男だったが、何より厄介なのは、その美貌に驕りも押しつけがましさもないことだった。

 彼は誰に対してもやわらかく微笑み、自然な仕草で距離を詰める。だからこそ、相手は気づかぬうちに心を許してしまう。


「今夜の君は、誰より目を引いていた」


 低く甘い声が落ちると、令嬢は頬を染めて睫毛を伏せた。


「そんな……殿下にそう言っていただけるなんて、夢のようですわ」


「夢だなんて。君ほど愛らしい人にそんな顔をされては、こちらが困る」


 くすりと笑って、ルシウスは彼女の指先へ軽く口づけた。

 その仕草はあまりにも慣れていて、優しくて、特別に見えた。


 令嬢の瞳が熱を帯びる。彼女だけではない。ルシウスに甘い言葉を囁かれ、あたかも自分だけが大切に扱われているのだと思った女は、これまでにも少なくなかった。


 ルシウスにとって、女性は等しく愛でるべき存在だった。

 美しく、愛らしい彼女たちは彼を楽しませてくれる。

 ただ、彼女たちが永遠を求めた瞬間、彼の興味はたちまち失せるのだった。


 ルシウスが口づけをしようと顔を近づけた、その時。


「……ルシウス殿下」


 張りつめた声が、二人のあいだに割り込んだ。

 振り返ると、少し離れた場所にもう一人、若い令嬢が立っていた。

 薄青のドレスの裾をぎゅっと握りしめ、今にも泣き出しそうな顔でこちらを見ている。

 けれど取り乱すまいと必死に堪えているのが、その震える肩先から伝わってきた。


「わたくし……ずっと、殿下をお待ちしていたのです」


 先ほどまでルシウスの腕の中にいた令嬢が気まずそうに息を呑む。新たに現れた令嬢は彼女を見て、傷ついたように視線を揺らした。


「その方と、どういうご関係なのですか」


 問う声はあまりにも頼りなかった。

 ルシウスは少しも動じなかった。いつもと同じ、穏やかな顔のままだった。


 薄青のドレスの令嬢は、震える唇を引き結んだあと、ようやく絞り出すように言った。


「わたくしを、愛しているのではなかったのですか」


 ルシウスはいつもの笑みを崩さぬまま、ゆるやかに目を細めた。


「もちろん、愛しているさ」


 あまりにも優しく、温かな声音。

 けれど彼の言葉は一つも優しくは無かった。


「君のことも、こちらの令嬢のこともね。私にとっては、どちらも同じことだ」


 静かな回廊に、短い沈黙が落ちた。

 最初に息を詰めたのは、薄青のドレスの令嬢だけではなかった。先ほどまで頬を染めていたもう一人の令嬢もまた、手を取られたまま、夢から醒めたような目でルシウスを見上げていた。


 ルシウスは、そのどちらの表情にも特段興味を持たなかった。


「そんな……」


 かろうじて零れた声は、問いにも抗議にもなりきれなかった。

 ルシウスは小さく肩をすくめる。


「今日はこちらのご令嬢と過ごしたい。君はまた機会があればね」


 薄青のドレスの令嬢は、しばらく何かを言おうとした。怒りでも、涙でも、せめてひとつ強い感情をぶつけることができたなら、まだ救いはあったかもしれない。

 けれど、またいつか自分の順番が回ってくるならと、淡い期待が消えない。

 その隙に、ルシウスは最初の令嬢へと視線を戻した。


「行こうか」


 彼女はためらった。けれど、その手を振りほどくことはできなかった。ここで拒めば、自分まで惨めな側に立つのだと、本能的に察したのかもしれない。あるいは、まだほんの少し、今この瞬間だけは特別でいたいと願ってしまったのか。


 そっと差し出された手に、自分の指を重ねる。

 ルシウスは満足そうに微笑み、そのまま彼女を伴って回廊の奥へ歩き出した。王宮のさらに奥、夜の灯りが届きにくい静かな一室へと、迷いのない足取りで。


 薄青のドレスの令嬢だけが、その場に取り残された。

 閉ざされた扉の向こうへ消えていく二人の背を見つめたまま、彼女はしばらく動けなかった。ぎゅっと握りしめた扇の骨が、細い指先に食い込んでいる。けれど痛みを感じる余裕もないのだろう。


 遠くではまだ、夜会の音楽が優雅に続いていた。笑い声も、グラスの触れ合う澄んだ音も、何もかもが何事もなかったように流れていく。


 この頃のルシウスは、まだ知らなかった。

 いずれ、たった一人の無関心にさえ、心を乱される日が来ることを。

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