NO.1 プロローグ
現在、2026年5月13日までに書いた全16話を、20話構成で読みやすく修整中です!そこまで読んでくださった皆様は、21話からが続きになりますのでよろしくお願いいたします!
21話以降は、5月中に載せられるよう、鋭意製作中です!引き続きよろしくお願いいたします!
夜会の喧騒が少しずつ薄れはじめたころだった。
大広間では、なおも弦楽器のやわらかな音色が流れ、磨き上げられた床の上を、色とりどりのドレスがゆるやかに揺れている。
けれど、王宮の奥まった回廊までくれば、その華やぎもひとつ薄い幕を隔てたように遠い。
燭台の灯が落とす黄金の明かりの中で、第一皇子ルシウス・アルヴェインは、一人の令嬢の手を取っていた。
淡く光を弾く銀髪。夜を溶かしこんだような紺の瞳。礼装越しにもわかる、しなやかで隙のない体躯。立っているだけで人目を引く男だったが、何より厄介なのは、その美貌に驕りも押しつけがましさもないことだった。
彼は誰に対してもやわらかく微笑み、自然な仕草で距離を詰める。だからこそ、相手は気づかぬうちに心を許してしまう。
「今夜の君は、誰より目を引いていた」
低く甘い声が落ちると、令嬢は頬を染めて睫毛を伏せた。
「そんな……殿下にそう言っていただけるなんて、夢のようですわ」
「夢だなんて。君ほど愛らしい人にそんな顔をされては、こちらが困る」
くすりと笑って、ルシウスは彼女の指先へ軽く口づけた。
その仕草はあまりにも優しくて、特別に見えた。
令嬢の瞳が熱を帯びる。彼女だけではない。ルシウスに甘い言葉を囁かれ、あたかも自分だけが大切に扱われているのだと思った女は、これまでにも少なくなかった。
ルシウスにとって、女性は等しく愛でるべき存在だった。
美しく、愛らしい彼女たちは彼を楽しませてくれる。
ただ、彼女たちが永遠を求めた瞬間、彼の興味はたちまち失せるのだった。
ルシウスが口づけをしようと顔を近づけた、その時。
「……ルシウス殿下」
張りつめた声が、二人のあいだに割り込んだ。
振り返ると、少し離れた場所にもう一人、若い令嬢が立っていた。
薄青のドレスの裾をぎゅっと握りしめ、今にも泣き出しそうな顔でこちらを見ている。
取り乱すまいと必死に堪えているのが、その震える肩先から伝わってきた。
「わたくし……ずっと、殿下をお待ちしていたのです」
先ほどまでルシウスの腕の中にいた令嬢が気まずそうに息を呑む。
新たに現れた令嬢は彼女を見て、傷ついたように視線を揺らした。
ルシウスは、その顔に見覚えがあった。
数日前の夜会で、庭園へ続く扉のそばに立っていた令嬢だ。
控えめで、少し臆病そうで、こちらが名を呼ぶだけで耳まで赤く染める娘だった。
「待たせてしまったかな」
ルシウスはやわらかく言った。
責めるでもなく、慌てるでもなく。
薄青のドレスの令嬢は、その一言に瞳を潤ませる。
「……では、覚えていてくださったのですね」
「もちろん」
ルシウスは微笑む。
「君のように可憐な人を、忘れるはずがない」
その言葉に、令嬢の表情が一瞬だけほどける。
救われたように。
けれど、次の瞬間、彼女の視線はルシウスがまだ手を取っている別の令嬢へ落ちた。
「では、その方と……どういうご関係なのですか」
問う声は頼りなかった。
ルシウスは少しも動じない。いつもと同じ、穏やかな顔のままだ。
「今夜、私を楽しませてくれている人だ」
あまりに自然な答えだった。
薄青のドレスの令嬢は、息を呑む。
先ほどまでルシウスに寄り添っていた令嬢も、指先を強張らせた。
「わたくしを、愛しているのではなかったのですか」
震える唇から、ようやく絞り出された言葉。
ルシウスはいつもの笑みを崩さぬまま、ゆるやかに目を細めた。
「もちろん、愛しているさ」
あまりにも優しく、温かな声音。
けれど彼の言葉は一つも優しくはなかった。
「君のことも、こちらの令嬢のこともね。美しい人を愛でるのに、ひとりに絞る理由があるのかな」
静かな回廊に、短い沈黙が落ちた。
「……わたくしだけでは、ないのですか」
「君だけだと言った覚えはない」
ルシウスは困ったように微笑んだ。
その表情だけを見れば、ひどく優しい男に見える。
「ただ、君と過ごした時間が楽しかったのは本当だ。あの夜の君は、とても可愛らしかった」
薄青のドレスの令嬢の顔が、みるみる青ざめていく。
それは慰めにはならなかった。
「そんな……」
かろうじて零れた声は形にならず、小さく消えた。
ルシウスは小さく肩をすくめる。
「今夜はこちらのご令嬢と過ごしたい。君はまた、機会があればね」
その軽やかすぎる声を聞いて、薄青のドレスの令嬢は何も言えずに立ち尽くした。
泣けば、惨めになる。
怒れば、醜くなる。
縋れば、嫌われる。
それが分かっているからこそ、彼女は唇を噛むことしかできなかった。
その隙に、ルシウスは抱き寄せている令嬢へと視線を戻した。
「行こうか」
彼女はためらった。けれど、その手を振りほどくことはできなかった。ここで拒めば、自分まで惨めな側に立つのだと、本能的に察したのかもしれない。あるいは、今この瞬間だけは特別であるのだと信じたかったのかもしれない。
彼女が小さく頷くと、ルシウスは満足そうに微笑み、そのまま回廊の奥へ歩き出した。王宮のさらに奥、夜の灯りが届きにくい静かな一室へと、迷いのない足取りで。
取り残された薄青のドレスの令嬢は、回廊の奥に消えていく二人の背を見つめたまま、しばらく動けなかった。
ぎゅっと握りしめた指先が掌に食い込んでいる。
遠くではまだ、夜会の音楽が優雅に続いていた。笑い声も、グラスの触れ合う澄んだ音も、何もかもが何事もなかったように流れていく。
この頃のルシウスは、まだ知らなかった。
いずれ、たった一人の無関心にさえ、心を乱される日が来ることを。




