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女遊び好きな皇子に契約結婚を申し込まれましたが、お互い好きになったら離婚だそうです  作者: 春野スミレ


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10/10

NO.9 第二皇子エリアス

 翌朝、イネスが目を覚ました時、隣にはルシウスの姿があった。

 窓から差し込む朝の光が、寝台の白い布を淡く照らしている。


 昨夜落とされた燭台の匂いはもう薄れ、部屋には朝の静けさが満ちていた。

 ルシウスは先に身を起こしていたらしい。

 夜着の襟元を軽く直しながら、イネスへ視線を向ける。


「おはよう」


 何事もなかったような声だった。

 昨夜、あれほど勝手に距離を詰めてきたくせに。

 あれほど好き放題に口づけておいて、途中で止めたくせに。


 イネスはゆっくりと身を起こした。


「……おはようございます」


 声は、いつも通りに出したつもりだった。

 けれどルシウスは、すぐに目を細める。


「どうかしたか」


「いえ……別に」


「別に、という顔ではないな」


「気のせいです」


 イネスは視線をそらした。

 怒っているわけではない。

 ただ、昨夜のことを思い出すたび、胸の奥に妙な熱が残る。

 それが気に入らなかった。


 ルシウスに振り回されている。

 そう認めるようで、癪だった。

 ルシウスはそんなイネスを見て、口元をゆるめる。


「物足りなかったのか?」


 イネスは思わず顔を上げた。


「そんなわけありません」


 きっぱり言ったつもりだった。

 けれど、頬に熱が上るのが自分でも分かった。

 ルシウスは愉しげに笑う。


「そうか」


 言い返せば、また余計にからかわれる。

 そう判断して口を閉じると、ルシウスはさらに面白そうに目を細めた。

 それがまた、少しだけ悔しい。


 婚礼から一週間。

 この男との距離は、少しずつ変わっている。

 それが良い変化なのか、厄介な変化なのか。

 イネスには、まだ分からなかった。


***


 朝食を終えたあと、イネスはマルグリット夫人と第二皇子への返礼を確認した。

 昨日決めた通り、返礼には東方産の紅茶を選んだ。


 礼状も、親しげな言葉は避け、婚礼祝いへの礼。

 そして、公の場で改めて挨拶する旨。

 それだけを、過不足なく整える。


「こちらでよろしいかと存じます」


 マルグリット夫人が確認を終え、静かに頷いた。

 イネスも礼状へ目を通し、視線を上げた。


「では、こちらでお願いします」


「かしこまりました」


 マルグリット夫人が合図をすると、控えていた女官が返礼の品と礼状を丁寧に受け取った。

 これで、礼は尽くした。

 距離もとった。はずだった。


***


 昼を少し過ぎた頃、イネスは侍女を一人伴い、王宮の回廊を歩いていた。


 庭園に面した回廊は明るく、白い柱の間から差し込む陽光が、磨かれた床に淡い模様を落としている。外では新緑が風に揺れ、遠くで噴水の音がしていた。

 王宮の中でも、ここは比較的穏やかな場所だった。

 イネスは美しく整えられた庭園を眺めながら歩いていた。


「義姉上」


 ふいに、柔らかな声がした。

 イネスは足を止め、声のした方へ向き直る。

 回廊の柱のそばに、一人の青年が立っていた。


 淡い金の髪が、光を含んでやわらかく揺れている。

 毛先はゆるく癖づき、整いすぎていない分、どこか親しみやすい。

 琥珀色の瞳は大きく、笑うと人懐こい印象を与えた。


 ルシウスのように切れ長で冷ややかな美貌ではない。

 もっと明るく、柔らかい。

 それでいて、立ち姿には王族らしい隙のなさがあった。

 その名を聞かずとも、誰なのかはすぐに分かった。


 第二皇子。

 エリアス・アルヴェイン。

 エリアスは一歩近づくと、優雅に一礼する。


「お初にお目にかかります。エリアス・アルヴェインです。義姉上、とお呼びしても?」


 義姉上。

 事実上、彼との関係を考えれば間違いではない。

 ただ、初めて会う相手にしては、親しげな呼び方だった。


 イネスも静かに一礼する。


「イネス・アルヴェインにございます。第二皇子殿下」


 エリアスは、少し寂しそうに眉を下げた。


「第二皇子殿下、ですか。少し寂しいですね」


「寂しい、ですか」


「ええ。兄上の妃なら、私にとっては義姉上でしょう。気軽にエリアスとお呼びください」


 柔らかな声だった。

 まるで拗ねた子供のような甘えた響き。

 イネスは表情を崩さず答えた。


「いえ、そんな。畏れ多いことです。エリアス殿下と、そう呼ばせていただきます」


 エリアスはにこりと笑う。


「では、今はそちらで我慢致しましょう」


 その笑みは人懐こい。

 だが、その瞳の奥には月下香の香りのように妖しさを帯びていた。

 イネスは静かに姿勢を正す。


「昨日は、婚礼祝いをありがとうございました」


「届いていましたか」


「はい。美しい香りを頂戴いたしました」


「お気に召したなら何よりです」


 エリアスの琥珀色の瞳が、かすかに細められる。


「月下香は、夜になってから本当の香りを見せる花ですから」


 その言い方には、やはり含みがあった。

 イネスは昨日、マルグリット夫人から聞いた説明を思い出す。

 夜に香りを強める花。

 肌に長く残る香油。

 恋文に添えられることもある香り。


 この第二皇子が、その意味を知らずに贈ったとは思えなかった。

 イネスは穏やかに微笑む。


「香りはとても好みでした。しばらくは、ひとりの時間に楽しませていただこうかと」


 エリアスは楽しそうに首を傾けた。


「お一人で楽しまれるのですか?」


 やわらかな声だった。

 けれど、その一言は先ほどより少し深く踏み込んでいる。

 イネスは一瞬だけ、昨夜のルシウスの声を思い出した。


 あの言葉を思い出しただけで、昨夜の熱まで戻りそうになる。

 イネスはそれを表に出さず、静かに答えた。


「いいえ。ルシウス殿下と二人の時だけにいたします」


 エリアスが、一瞬だけ目を丸くした。

 それはほんの短い間だった。

 すぐに彼は、ゆっくりと笑みを深める。


「……そうですね。それがよろしいかと」


 声は穏やかだった。

 けれど、その瞳の奥で何かが動いた気がした。

 エリアスはイネスを見つめる。

 人懐こく、柔らかく。


「兄上は昔から、華やかな香りに囲まれていらっしゃる方でしたから。ひとつの香りにこだわるとは、少し意外です」


 ルシウスの浮き名の事を言っているのだろう。

 しかしイネスは動じない。


「では、今は珍しい時期なのでしょう」


「珍しい時期?」


「少なくとも今は、私の香りを気になさっているようです。エリアス殿下よりいただいた品のおかげかもしれませんね」


 エリアスの琥珀色の瞳が、またわずかに丸くなった。


 庭園から吹き込む風が、回廊の白い柱の間を抜けていく。

 イネスの黒髪が、肩先でわずかに揺れた。

 エリアスは、その様子をじっと見ていた。

 やがて、彼は喉の奥で小さく笑う。


「……義姉上は、思っていたよりずっと面白い方ですね」


 イネスは答えなかった。

 ただ、微笑みを崩さない。

 エリアスはその沈黙さえ楽しむように、琥珀色の瞳を細めた。


「兄上は、良い方を妃に迎えられたようだ」


「身に余るお言葉にございます」


 エリアスはそこで、ふと思い出したように微笑んだ。


「そういえば、返礼にいただいたお茶ですが、大変良い香りでした」


「お気に召したのでしたら、何よりです」


「ええ。せっかくですから、このあとご一緒にいかがですか。いただいた茶を、義姉上と味わえれば嬉しいのですが」


 あまりにも自然な誘いだった。

 と同時に、気をつけろというルシウスの言葉を思い出す。

 イネスは静かに微笑んだ。


「ありがたいお言葉ですが、このあとも予定がございますので」


「それは残念です。では、また今度」


「はい。ルシウス殿下とご一緒に伺わせていただきます」


 エリアスの笑みが、ほんのわずかに止まった。

 ほんの一瞬だけ。


「……ええ。ぜひお待ちしています」


 柔らかな声だった。

 けれど、琥珀色の瞳の奥に、楽しげな光がひとつ灯る。


「またお話しできるのを楽しみにしております、義姉上」


 イネスは静かに一礼する。


「ええ。公の席にて」


 その言葉に、エリアスの笑みがもう一度深くなる。

 彼はそれ以上、イネスを引き留めなかった。

 イネスは侍女を伴い、静かにその場を離れた。


***


 イネスの姿が回廊の向こうへ消えたあとも、エリアスはしばらくその場に立っていた。


 黒髪が、歩みに合わせて静かに揺れていた。

 振り返ることはない。


 エリアスは小さく笑う。

 思っていたより、ずっと面白い。


 月下香を贈ったのは、ただの祝意ではない。

 兄がどんな顔をするか、少し見てみたかった。

 突然現れた第一皇子妃が、あの香りをどう扱うのかも。


 皇帝は病床にあり、王宮の空気は日ごとに変わりつつある。

 そんな時に、兄は唐突に妃を迎えた。

 直前まで女遊びをやめる気配などなかった男が、急にひとりの女だけを選ぶ。

 それを愛だと信じるほど、エリアスは子供ではない。


 おそらく、この婚姻には別の意味がある。

 愛ではなく、契約のような。


 ならば、そこには隙がある。

 そう思っていた。


 けれど実際に会ってみれば、イネスは想像よりずっと美しかった。

 艶やかな黒髪に、翡翠の瞳。

 皇子の自分と話しても落ち着いている冷静さ。

 どれだけ煽ってもなびかない芯がある。


 地方の伯爵家から来た令嬢だと聞いていたから、王宮の空気に呑まれ、こちらが少し近づけば容易く揺れるかと思っていた。

 だが、違った。


 自分を前にしても、あの女は怯えない。

 媚びもしない。

 その態度が妙に気になった。


 女をその気にさせるのは、難しくない。


 兄は、誰にでも惜しみなく甘さを与える。

 だからこそ、あれほど華やかな浮き名が立つのだ。


 けれど、エリアスはそうしない。


 少しずつ、少しずつ。

 まるで薬物に依存していく中毒者のように、女たちはエリアスを求めるようになる。


 その声を。

 その視線を。

 次に与えられる、ほんのわずかな甘さを。


 気づいた時には、こちらのことを考えずにいられないほど深く。


 兄が迎えた新しい妃。

 今は、その立場に静かに収まっているように見える。

 だが、兄が再び他の女へ目を向けた時、果たしてあの落ち着きを保っていられるだろうか。


 待てばいい。

 獲物が自分から近づくのを待つ蛇のように。

 焦らず、急がず、逃げ道を塞いでいけばいい。


 兄の妃。

 触れてはいけないもの。

 そんな物ほど欲しくなる。


 彼女が揺れれば、ルシウスは揺れるだろうか。

 そうなれば、王宮の均衡も崩れるだろうか。


 もちろん、そこまで大げさに考えずとも。

 あの女が自分にのめり込む様を見るのは悪くなさそうだ。


 エリアスは琥珀色の瞳を細めた。


「……セシル」


 名を呼ぶと、少し離れた場所に控えていた従者が音もなく近づいた。


「はい、殿下」


「第一皇子妃の公務予定を調べておいて」


 セシルは一瞬だけ目を伏せる。


「妃殿下の、でございますか」


「そう。兄上が同席しないものがいい」


「かしこまりました」


 エリアスは楽しげな笑みを浮かべながら付け加えた。


「なるべく早いものがいい」


「承知いたしました」


 セシルは短く答え、静かにその場を離れた。

 回廊には、ふたたび庭園の風だけが戻る。

 エリアスは、イネスが去っていった方角を見つめたまま、柔らかく笑っていた。


 月下香を贈ったのは、兄への当てつけだった。が。

 香りを受け取った女は、思っていたよりずっと退屈しない。


 次は、もう少し長く話してみたい。

 そう思っただけで、退屈だった王宮の午後が、少しだけ面白く見えた。

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