NO.28 名前
その夜、イネスは自室の寝台に横になっていた。
見慣れているはずの天井が、妙に遠い。
隣に誰もいない夜は、思っていたより静かだった。
その静けさを寂しいと思うより先に、少しだけ安堵している自分に気づく。
今、ルシウスと顔を合わせたところで、何を言えばいいのか分からなかったから。
足首には手当てが施され、柔らかな布で動かないように支えられている。痛みはあるけれど、眠れないほどではない。
こんな時間になるまで起きていたのは、足のせいなどではない。
胸に残ったルシウスの声だった。
――今日は、おとなしくしていろ。
ルシウスに、あそこまで強く言葉を遮られたことはない。
そのことが、何度思い返しても胸に刺さった。
幻滅されたのかもしれない。
そう思うと、胸の奥が静かに沈んでいく。
謝りたかった。
ただそれだけだったのに、その謝罪はうまく届かなかった。
イネスは小さく息を吐き、寝台の上で指先を握った。
その時、不意に扉が静かに叩かれた。
イネスは上体をゆっくりと起き上げた。
「どうぞ」
扉が開く。
入ってきたのは、ルシウスだった。
「殿下……?」
布団から出ようとすると、足首に鈍い痛みが走った。
イネスがわずかに眉を寄せた瞬間、ルシウスの視線が足元へ落ちる。
「そのままでいい」
短く言って、彼は寝台のそばまで来る。
ルシウスは寝衣をまとって、銀の髪は軽く下ろされていた。
「足は」
ルシウスが尋ねる。
「……強い痛みはございません」
「そうか」
それだけ言うと、ルシウスは黙った。
帰る気配はない。
寝台のそばに立ったまま、イネスを見下ろしている。
思い沈黙に耐えきれず、イネスは口を開いた。
「殿下、先ほどは――」
「謝罪はもういい」
静かな声だった。
けれど、また遮られた。
イネスは言葉を止める。
胸の奥が、かすかに締め付けられる。
謝ることさえ、もう許されないのだろうか。
そう思ったが、口には出せなかった。
ルシウスは、しばらくイネスを見ていた。
それから、低く言う。
「君は……、私の妻だ」
イネスはすぐには答えられなかった。
あまりに唐突で、何を問われているのか分からなかった。
けれど、言われたこと自体は間違っていない。
「……はい」
どうにか返すと、ルシウスの瞳がわずかに細くなる。
「私の妻に、ほかの男が触れているのは気に触る」
イネスは思わずルシウスを見上げた。
あまりに思いがけない言葉で、どう受け取ればいいのか分からなかった。
「それは……、どういう……」
言いかけて、口を閉ざす。
聞いてはいけない気がした。
それに、自分が何を聞こうとしたのかも、よく分からなかった。
ルシウスもまた、わずかに沈黙する。
けれど次に落ちた声は、先ほどよりも冷たい響きを持っていた。
「完璧な妻を演じるという契約なのだから、ほかの男に容易く触れられるな」
その言葉に、イネスの胸の奥でかすかな反発が生まれる。
容易く触れられたわけではない。
わざとではない。
助けてもらっただけだ。
それなのに、そんなふうに言われなければならないのか。
この人は、なんて勝手なんだろう。
自分で私生活には踏み込むなと線を引いた。
妻として完璧に振る舞えば、それでいいと。
彼がいつ何処で誰に触れようと、イネスは問わなかった。
問う権利などないと思っていた。
けれど今、ルシウスは同じ線を、自分にだけ越えるなと言う。
胸の奥で、言葉にならないものが小さく熱を持った。
イネスは静かに顔を上げる。
「……殿下が別の女性に触れるのは、よろしいのですか?」
静かな声だった。
けれど、口にした瞬間、自分でも思ったより鋭い響きになったと分かった。
ルシウスは黙っている。
言いすぎたかもしれない。
けれど、一度口にしてしまった言葉は戻せない。
それに、止められなかった。
小さく熱を持った感情が、ゆっくりと溢れてくる。
「それとも、エリアス殿下だから駄目なのですか?」
ルシウスの瞳が、わずかに細くなる。
「弟の名を呼ぶなと言っただろう……」
低い声だった。
また、命じるような言い方。
それがなんだか癪に障って、納得できなかった。
「今は二人きりです」
一拍置いて、イネスは続ける。
「演技をする必要もございません。殿下に、何の関係があるのでしょう」
丁寧に言ったつもりだった。
けれど、声は思ったよりも刺々しくなった。
こんなふうに、誰かへ感情をぶつけたことがあっただろうか。
ルシウスは答えない。
長い沈黙が落ちる。
イネスは、彼の視線を受け止めたまま、布団の端を握った。
ここで目を逸らしたら、負ける気がした。
やがて、ルシウスが静かに動いた。
寝台の端が、わずかに沈む。
立っていた時には見上げていた紺の瞳が、同じ高さに近づく。
イネスは身じろぎひとつせず、ルシウスを睨みかえした。
ルシウスの瞳は、ひどく真剣だった。
けれど、その奥にあるものは分からない。
至近距離で、二人はしばらく見つめ合った。
睨み合っている、と言った方が近かったかもしれない。
先に口を開いたのは、ルシウスだった。
「……私のことは」
低い声だった。
「いつになったら名前で呼ぶ」
イネスは一瞬、問いの意味を掴みきれなかった。
「………それとこれと、何か関係がありますか」
ルシウスは答えなかった。
代わりに、ゆっくりと手を伸ばす。
その動きに、イネスは思わず身構えた。
けれど、ルシウスの指先は肌には触れない。
耳のそばに落ちていた髪を、一房すくい上げる。
そのまま、彼はイネスの髪を自分の顔の近くへ寄せた。
ただ髪に触れられているだけなのに、その仕草はひどく丁寧だった。
湯浴みを終えた髪から、もう月下香の香りはしない。
あるのは、いつものイネスの、清潔で静かな香りだけ。
先ほどまで、不快だと口にしていた人とは思えないほどその手つきがやさしくて。
イネスは思わず息を詰める。
ルシウスは指先に髪を絡めたまま、イネスの翡翠の瞳を真っ直ぐ見据えた。
「……私は、君に名前を呼ばれたい」
低く落ちた声に、胸の奥が小さく跳ねた。
どう考えても、話が逸れている。
今していたのは、契約の話だったはずだ。
彼を名前で呼ぶことなど、その契約には含まれていない。
それなのに、イネスは彼から目を逸らせなかった。
本当に、この人は性格が悪い。
好きになれば終わりだと、線を引いたのは彼の方なのに。
こんな目で、こんな声でそんな事を言われたら、勘違いしそうになる。
そう思ってしまう自分も、嫌だった。
特別な感情があるわけではない。
そのはずなのに、目を逸らせない自分が。
ルシウスが、髪を手放す。
そして、さらに身を寄せた。
寝台の上に片手をつき、イネスのすぐそばへ。
少しでも動けば、唇が触れてしまいそうな距離だった。
それでも、イネスは逃げなかった。
逃げれば、自分が意識していると認めてしまうような気がしたから。
ルシウスの声が、低く落ちる。
「……イネス」
名前を呼ばれた。
たったそれだけのことで、胸の奥が小さく揺れる。
彼の名前を呼べば、この息苦しさから解放されるのだろうか。
そう思うのに、なかなか言葉が出てこない。
ルシウスが、もう一度彼女の名を呼ぶ。
「イネス」
先ほどよりも掠れて、甘さを含んだ声だった。
もう、今さら瞳を逸らすことなどできなかった。
聞こえるかどうかも分からない、ごく小さな声で、イネスは彼の名を呼んだ。
「……ルシウス、様」
その瞬間、ルシウスの瞳の色が変わった。
次の言葉を紡ぐ猶予などない。
頬に添えられた指先が熱を帯び、気づいた時には、奪われるように唇を塞がれていた。
息をする間も与えられない深い口づけとともに、身体が寝台へ押し沈められていく。
イネスは反射的にルシウスの衣を掴んだ。
縋り付くように、この熱に置いていかれないように。
月下香が贈られてきてから、幾度となく交わされた口づけ。
息の仕方が分からなくなるほど深く、互いの境目が曖昧になるようなもの。
ルシウスの指が頬から髪へ移り、逃がす気がないように彼の大きな手がイネスの頭を覆う。
その間にも、息を吸う暇さえ惜しむように、何度もキスが振り注いだ。
ルシウスはイネスの足に負担がかからぬよう、細心の注意を払ってた。
だが、イネスは自身の反応を抑えることができなかった。ほんの少し足首に力が入り、わずかに声が漏れる。
ルシウスはその反応にすぐに気づくと、ゆっくりと唇を離した。
「痛むか」
至近距離から、熱を孕んだ紺色の瞳に見下ろされている。
イネスは小さく首を横に振る。
「……大丈夫、です」
上下する胸を抑えながら、震えるように言葉を吐き出した。
ルシウスはしばらく彼女を見ていた。
その目には、まだ迷いが残っている。
けれどイネスの潤んだ瞳がここで終わることを拒んでいた。
ルシウスが、彼女の夜着の裾に手を掛ける。
彼の指先が足先からゆっくりと這うように上がり、腹部を羽根のように撫ぜた。
夜着の裾はたくし上げられ、夜の冷えた空気が肌を掠める。
そしてその指先が、更に下の布に触れた。
その時。
「……っ」
イネスの身体が、反射的に強張った。
思わず息を詰める。
その反応を見て、またしてもルシウスは動きを止めた。
ほんの一瞬前まで熱を含んでいた瞳に、冷静さが戻りかける。
「……やはり、やめておくか」
その言葉に、イネスは咄嗟にルシウスの服を掴んだ。
震えるように。だがしっかりと。
ルシウスの瞳が、イネスの翡翠の瞳をまっすぐに見据える。
幾度となく重ねた口づけの先。
彼が求めたからではない。
自らその先に進みたいと思ってしまった。
言葉は出てこない。
代わりにイネスはルシウスの背中に腕を回した。
そして抱き寄せるように彼の肩に顔を埋める。
彼はただイネスの言葉を待っていた。
抱き寄せられる寸前、揺れる翡翠の瞳をみた瞬間に、彼女が何を思っているのか既に分かっていた。
けれど、どうしても彼女の口から聞きたかった。
春の馬場で出会ったときは一つも揺れなかった瞳が、今この瞬間、自分だけを見つめ潤んでいる事を確信したかった。
「イネス?」
ルシウスはただ優しく問いかけた。
その問いに応えるように、イネスは震える声を振り絞る。
「……やめないでください」
小さく、か細い声だった。
けれど、それで十分だった。
ルシウスの喉が、わずかになる。
次の瞬間、彼の腕がイネスの背へ回った。
先ほどよりも強く。けれど、壊れ物を扱うような優しさで。
「……痛むなら、必ず言え」
彼は最後の理性を振り絞るように言った。
その言葉にイネスは小さく頷く。
彼が耳元で囁くように、もう一度彼女の名を呼ぶ。
「イネス」
吐息混じりの声に、思わず体が反応する。
イネスは彼の肩に腕を回したまま、震える声を必死に抑えて彼に応えた。
「ルシウス様――」
彼の名前が紡がれるより早く、唇を奪われる。
呼吸も、心臓も苦しくて仕方がない。
それなのにその苦しさが嫌ではなかった。
ただ、呼び慣れない名前だけが、夜の静けさの中に溶けていった。




