NO.27 何に対して
濡れた林道を、馬はゆっくりと進んでいた。
雨はほとんど上がっている。
それでも木々の葉からは時折、大きな雫が落ち、湿った土の匂いが道いっぱいに残っていた。
イネスは、ルシウスの前に抱えられるようにして乗せられている。
痛めた足に響かないよう、馬の歩みは慎重だった。
それでも蹄が濡れた地面を踏むたび、身体は小さく揺れる。
そのたびに、背後から支える腕にわずかに力がこもった。
けれど、二人の間に会話はない。
イネスは肩に掛けられた布の端を、そっと握った。
逃げた馬を追った。
結果として足を痛めた。
エリアスの手を借り、ルシウスにも心配をかけた。
あの場では必要だと思って行動したが、第一皇子妃として軽率だったと言われれば、否定はできない。
「……申し訳ございません」
沈黙に耐えかね、小さく口を開く。
「殿下にも、エリアス殿下にもご迷惑をおかけしてしまいました」
ルシウスはすぐには答えなかった。
濡れた地面を踏む蹄の音だけが、しばらく続く。
「……無茶はするなと言っただろう」
低い声だった。
イネスは目を伏せる。
「はい」
責められている。
そう思った。
だが、ルシウスの腕は変わらずイネスを支えている。
揺れを抑えるように、痛む足へ響かないように。
その手つきはひどく優しくて。
だから余計に、イネスには分からなかった。
彼は怒っているのか。
それとも、案じているのか。
ルシウスは前を向いたまま、何も言わなかった。
腕の中にあるイネスの髪から、雨に濡れた匂いがする。
湿った土と、冷えた布の匂い。
その奥に、かすかな甘さが混じっていた。
月下香。
エリアスのマントを借りていたせいだろう。香りがまだ、ほんのわずかに残っている。
エリアスは、必要なことをした。
あの場で彼がいなければ、イネスはもっと危険な状態にあったかもしれない。
イネスも、ただ馬を放っておけなかっただけだ。
責める理由など、どこにもない。
それなのに、胸の奥にだけ冷たいものが残っている。
「痛むか」
ルシウスが尋ねると、イネスは少しだけ肩を揺らした。
「……少しだけです」
「君の少しは信用ならない」
思ったより低い声になった。
イネスは何か言いかけたが、すぐに口を閉ざす。
ルシウスも、それ以上は続けなかった。
王宮へ戻るまで、二人の間にはまた重い沈黙が落ちた。
***
王宮へ着く頃には、雨はすっかり上がっていた。
けれど、雨に濡れた妃を連れて第一皇子が戻ったことで、入口にいた侍従と女官たちが一斉に表情を変えた。
「殿下、妃殿下……!」
「医師を呼べ」
ルシウスは短く命じた。
馬から下りると、すぐにイネスへ手を伸ばす。
イネスは反射的に言った。
「降ろしていただくだけで――」
「君を歩かせるつもりはない」
またしても言い終わる前に、ルシウスはイネスを抱き下ろしていた。
女官たちが息を呑む気配がする。
けれど、ルシウスは顔色ひとつ変えない。
当然の処置だと言わんばかりに、イネスを抱えたまま王宮の廊下を進んだ。
「殿下、本当に大丈夫です……」
小さな声で訴えたが、ルシウスは足を止めなかった。
「大丈夫かどうかは、医師が診てからだ」
淡々とした返事だった。
廊下を進むあいだ、女官や侍従たちが慌てて道を開ける。
集まる視線に、イネスは耳まで熱くなるのを感じた。
イネスは布の端を握りしめ、できるだけ顔を伏せた。
部屋へ運ばれると、すぐに医師が呼ばれた。
ルシウスはイネスを長椅子に下ろし、少し離れた場所に立っている。
医師が腫れた足首に触れる。
イネスは声を上げなかったが、ほんのわずかに眉を寄せた。
「骨に異常はございません」
診察を終えた医師が、頭を下げた。
「捻挫でしょう。数日は安静になさってください。腫れが引くまでは、なるべく歩かれませんよう」
「分かりました。ありがとうございます」
イネスは小さく息を吐いた。
大事ではなかった。
その事実に、部屋の空気が少しだけ緩む。
ルシウスも表情には出さなかったものの、胸の奥に張っていたものが、そこでようやくほどけたようだった。
彼は女官へ視線を向ける。
「湯を。このままでは風邪をひく」
女官たちがすぐに動き出す。
イネスは、もう一度ルシウスを見た。
「殿下も、お身体を冷やされては」
「私は後でいい」
「ですが」
「君は自分の心配をしていろ」
短い声だった。
イネスは、それ以上何も言えなかった。
***
湯浴みを終える頃には、窓の外は暗くなり始めていた。
イネスは室内着に着替え、長椅子に座らされている。
足首には手当てが施され、動かさないよう柔らかな布で支えられていた。
濡れた髪も洗い流され、雨と土の匂いはもうしない。
月下香の香りも、消えていた。
女官たちが下がると、部屋にはルシウスとイネスだけが残った。
沈黙が落ちる。
先に口を開いたのは、イネスだった。
「本日は、ご迷惑をおかけしました」
ルシウスはイネスを見る。
「それは先ほども聞いた」
低い声だった。
イネスは目を伏せる。
「第一皇子妃として、軽率な行動でした」
ルシウスの眉が、ほんのわずかに動いた。
軽率。
確かに、そう言えばそうなのだろう。
第一皇子妃として、褒められた行動ではない。
それは分かる。
けれど、その言葉だけで片づけられるほど、ルシウスの胸の内は単純ではなかった。
「君は何を謝っている」
イネスは少しだけ戸惑ったように顔を上げる。
「何を、と申しますと」
「言葉の通りだ」
ルシウスは静かに返しす。
「君は今、何を謝っている」
イネスは少し考えたあと、答える。
「逃げた馬を追い、結果として殿下にも、エリアス殿下にもご迷惑を――」
「エリアスの名を出すな」
遮る声は、思ったより鋭かった。
部屋の空気が止まる。
イネスは目を見開いた。
ルシウス自身も、わずかに口を閉ざす。
今の声は、冷静ではなかった。
エリアスは必要なことをした。
責める理由などない。
それでも、彼女の口からその名が出た瞬間、胸の奥がざわついた。
「……申し訳ございません」
イネスは静かに頭を下げる。
その姿に、ルシウスはさらに苛立ちを覚えた。
違う。
謝らせたいわけではない。
では何を言ってほしいのか。
何をしてほしいのか。
答えは出ない。
ルシウスは短く息を吐いた。
「もういい」
「ですが……」
「今日は、おとなしくしていろ」
イネスは言葉を止める。
命令のようなきっぱりとした言い方だった。
ルシウスに、ここまで強く言葉を遮られたことはない。
そのことが、ひどく胸に刺さった。
「……はい」
小さく頷く。
胸の奥が、静かに沈んでいく。
幻滅されたのかもしれない。
ふと、そんな考えがよぎる。
もうそれ以上、言い訳の言葉は出てこなかった。
ルシウスはしばらく、黙って俯く彼女を見ていた。
湯浴みを終えたイネスからは、もう月下香の香りはしない。
いつもの、清潔で静かな香りがするだけだった。
それなのに、雨の中で見た光景だけが、まだ胸の奥に残っていた。
イネスを支えるように回されていた腕と、包むように肩に掛けられていた弟のマント。
そして雨に混じった、月下香の香り。
どれも最善を尽くした結果だった。
理解している。
それでも、胸の奥に残ったものだけが消えない。
ルシウスは、その不快さに名前をつけないまま、静かに視線を逸らした。




