NO.26 迎え
木々の間から現れた複数の馬影が、濡れた林道の上で止まった。
雨は、先ほどよりも弱まっている。
葉先から大きな雫が落ち、湿った土の匂いがあたりに満ちていた。
先頭の馬から、ルシウスが降りる。
銀の髪は雨に濡れ、紺の瞳はまっすぐイネスだけを捉えていた。
立ち上がろうとしてふらついたイネスの身体を、エリアスの腕が受け止めている。
そしてその肩には、エリアスのマントが掛かっていた。
「殿下」
少し遅れて駆けつけたセシルが、泥と雨に濡れたエリアスを見て顔色を変える。
「お怪我は」
「後でいい」
エリアスは短く返した。
そして、岩陰の近くに寄せられている馬たちへ視線を向ける。
逃げた馬は、ようやく落ち着きを取り戻しつつあった。だが、まだ耳を忙しなく動かしている。
雨と雷の名残で、馬たちの神経は張っていた。
「セシルは馬を頼む」
セシルは一瞬だけ言葉を呑んだ。
主君の泥だらけの姿を、そのままにしておくことに抵抗があったのだろう。
けれど、すぐに表情を引き締める。
「……承知しました」
セシルは従者たちを促し、馬の方へ向かった。
その間にも、ルシウスは迷いなくイネスの前へ来る。
「怪我は」
短い問いだった。
イネスは身を正そうとしたが、足に力が入らず、わずかに身体が揺れる。
「足を少し……」
答えかけたイネスの横で、エリアスが静かに告げた。
「斜面を滑り落ち、足を痛めています」
その声には、いつもの冗談めいた響きはない。
ルシウスの視線が、イネスの足元へ落ちる。
それから、彼女を支えているエリアスの手へ移った。
一瞬だけ、周囲の空気が静かに冷えた気がした。
だが、ルシウスは何も言わなかった。
ただ静かに、イネスへ手を差し出す。
「私が手を貸そう」
イネスは一瞬、目を上げた。
それから、ルシウスの手に自分の指を重ねる。
エリアスの手が静かに離れ、代わりにルシウスの手がイネスを支える。
ルシウスはイネスを支えたまま、エリアスに向き直った。
「助かった」
たったそれだけの短いひと言。
けれど、エリアスはほんのわずかに目を瞬く。
兄が、自分に礼を言ったという事実が、一瞬理解できなかった。
ルシウスの視線が、泥と雨に濡れたエリアスの服へ落ちる。
「お前も風邪をひく」
そう言って、彼は振り返った。
「オスカー」
「はい」
呼ばれるより早く、オスカーが厚手の布を二枚持って戻ってくる。
その言葉を、気遣いと呼んでいいのかは分からなかった。
兄上のことだ。
ただ、妻を助けた人間を濡れたままにしておくのは体裁が悪いと判断しただけかもしれない。
それでも一瞬、胸の奥がざわめいた。
けれど、エリアスはすぐにいつもの笑みを浮かべる。
「お役に立てたなら何よりです」
そう返す声は、いつも通りだった。
ただ、ほんの少しだけ反応が遅れた。
ルシウスはそれ以上何も言わず、すぐにイネスへ視線を戻した。
オスカーが差し出した布の一枚を、ルシウスが受け取る。
それから、イネスの肩に掛けられたマントへ視線を落とした。
雨の匂いに混じって、かすかに甘い香りが立っている。
「濡れている」
短く言って、ルシウスはそのマントを外した。
その動きは、ひどく丁寧だった。
外されたマントを、オスカーが何も言わずに受け取る。
代わりに、乾いた布がイネスの肩へ掛けられた。
オスカーは、もう一枚の布をエリアスへ差し出す。
エリアスはそれを受け取った。
けれど、肩へは掛けず、ただ手の中に握っていた。
そして、ルシウスに支えられるイネスを見ていた。
ルシウスは乾いた布でイネスの身体を包むと、そのまま彼女を抱き上げた。
「……殿下!」
イネスが驚いたように声を上げる。
今日、こうして抱き上げられるのは二度目だった。
一瞬、どう反応すればいいのか分からなくなる。
「一人で歩けます」
「駄目だ。掴まっていろ」
短い声だった。
彼もまた、反論を許すつもりはないらしい。
ルシウスはそれ以上何も言わず、イネスを抱えたまま、自分が乗ってきた馬の方へ戻っていく。
イネスは抵抗することを諦め、ただルシウスの肩に手を置いた。
馬の方まで行くと、オスカーがすぐに手綱を押さえ、護衛たちが周囲を固めた。
ルシウスはイネスを馬に乗せると、彼女を支えるように自分もその後ろへ跨った。
手綱を取る前に、ルシウスは一度だけエリアスを見る。
「先に行くぞ」
エリアスは一瞬だけ黙り、それからいつものように微笑んだ。
「ええ、兄上」
ルシウスの馬が、濡れた林道をゆっくりと動き出す。
雨はもう、ほとんど上がっていた。
木々の葉から落ちる雫だけが、時折、地面を打つ。
ふと、イネスが振り返ったように見えた。
ほんの一瞬。気のせいかもしれない。
オスカーから受け取った布は、まだ手に握られたままだった。
***
遠ざかる馬影を見つめたまま、エリアスはしばらく動かなかった。
――助かった。
兄の短い言葉が、雨上がりの静けさの中で、妙にはっきりと耳に残っている。
嫌味でも、牽制でもなく、シンプルに向けられた自分への言葉。
エリアスは濡れた指先をゆっくりと握る。
先ほどまで支えていた重さは、もう腕には残っていない。
代わりに、雨と泥の匂いだけが残っていた。
「殿下」
セシルの声で、エリアスはようやく瞬きをした。
いつの間にか、セシルは馬の処理を終え、そばへ戻ってきていた。
その視線が、エリアスの髪、服、泥のついた裾を確かめるように動く。
「殿下も早く身体を拭いてください」
言われて初めて、エリアスは自分の手元を見下ろした。
オスカーから受け取った布を、まだ手にしたままだった。
指先は、思っていたより冷えている。
「ああ、そうだな」
短く答え、エリアスはようやく布を肩へ掛けた。
濡れた衣服の重さが、そこで初めて身体に戻ってきたような気がした。
エリアスはいつものように、少しだけ笑う。
「帰るか」
そう言って踵を返す。
声は、いつも通り穏やかだった。
けれど、兄の言葉と、あの不器用な横顔がどうにも頭から離れなかった。




