NO.25 雨に混ざる香り
「イネス!」
雨と雷の残響の中、自分の声が思ったより鋭く響いた。
エリアスは掴んでいた手綱を引き、逃げ馬を岩陰の方へ押しやる。
その動きは、丁寧とは言い難かった。馬を完全に落ち着かせる余裕など、今はない。
エリアスは雨に濡れた茂みをかき分け、岩場の脇へ駆け寄る。
足元の土は崩れ、低い草が泥を含んで倒れていた。
山肌は、低い茂みに覆われながら斜めに下っている。
エリアスは斜面の下へ視線を走らせる。
若葉色の乗馬服が、低木のそばに見えた。
「……義姉上」
いつも通り呼びかけると、イネスはすでに上体を起こしかけていた。
意識があることに、ひとまず安堵する。
「大丈夫ですか」
「……はい。すぐに戻ります」
イネスはそう言って、立ち上がろうとした。
だが、左足へ体重をかけた瞬間、わずかに顔が歪む。
エリアスはその変化を見逃さなかった。
「痛めましたか」
「少し捻っただけです」
イネスは平静に答える。
いつものように、声に大きな揺れはない。
だが、足をかばう仕草は隠せていなかった。
エリアスは小さく息を吐き、斜面へ足を踏み入れた。
泥が靴に跳ね、裾が濡れた草に擦れる。
「そこを動かないでください」
木の根に手を掛けながらゆっくりとイネスの元まで降りてくる。
思わずイネスは声を上げた。
「何をしているんですか!私は大丈夫です」
彼女はなるべくひねった足に体重をかけないように自力で立ち上がった。
その姿を見て、エリアスはもう一度息を吐く。
「何処が大丈夫なんですか。その足ではこの山道は登れないでしょう」
そう言って手を差し出した。
イネスは差し出された手をただ見つめた。
そしてエリアスの表情に視線を移す。
彼はいつもの読めない表情ではなく、半ば呆れたような顔をしていた。
怒らせてしまったのかもしれない。
「申し訳ございません。こんなところまで来て頂いただけでもご迷惑だと言うのに……。これ以上エリアス殿下の手を煩わせる訳にはいきません」
イネスは両手を胸の前で振るような仕草をして、彼の心配を丁寧に辞退した。
もう既に手間を取らせすぎている。
エリアスは、しばらくそんなイネスを見ていた。
彼女はもう何を言っても聞かないだろう。
今もなお、雷鳴が近づいてきている。
ここで押し問答をしている時間はなかった。
彼は無言でイネスの腰と膝下に手をかけると、彼女を抱き上げた。
「エリアス殿下……!」
突然のことに、イネスは一瞬何が起きたのか分からなかった。
地面が遠のき、雨に濡れたエリアスの肩が近くなる。
「しっかり掴まってください」
「……ですが」
なおも反論しようとするイネスに、きっぱりと言い放つ。
「暴れられる方が迷惑です」
イネスはまだ何か言おうとしたが、結局おとなしく従った。
一度だけ目を伏せてから、エリアスの肩へそっと手を置く。
「申し訳ございません……」
エリアスは俯く彼女に一度だけ視線を落としてから、周囲を見て傾斜が緩やかな方へ回る。
イネスは、気まずい空気のまま黙ってエリアスの腕の中に収まっていた。
今は、彼に身体を預けるしかない。
雨に濡れた布の匂いに混じって、かすかに甘い花の香りがした。
月下香。
以前、エリアスが贈ってきた香油と同じ香り。
それに気づいた瞬間、イネスはほんの少しだけ息を詰める。
抱き上げられている距離を、改めて意識する。
彼はそんなイネスの心など知ったふうもなく、ただ慎重に斜面を登っていた。
雨粒が頬を滑り落ちる。
もうすぐ登りきれると思った、その時。エリアスの足がぬかるみに沈んだ。
身体がわずかに傾き、イネスは反射的に彼の首元へ腕を回す。
すぐに離れようとしたが、エリアスの腕が彼女を抱え直す方が早かった。
エリアスの腕に、少しだけ力がこもる。
「しばらくそうしていてください」
低く告げられた声が、耳元のすぐ近くで響いた。
イネスは小さく頷くことしかできなかった。
エリアスは地面に足を取られながらも、ようやく岩陰へ戻った。
***
岩陰には、二人が乗ってきた馬と、先ほど逃げた馬が寄せられていた。
逃げ馬はまだ落ち着かない様子で耳を動かしていたが、先ほどのように暴れる気配はない。
雨は強く、風も冷たくなっている。
岩陰は、雨を完全に避けられるわけではないが、木の下にいるよりは安全だった。
エリアスはイネスを岩場の内側へ座らせた。
そして自分のマントを外し、彼女の肩へ掛ける。
「多少の風よけにはなります」
濡れたマントが肩に落ちると、先程香った月下香がさらに密度を上げてイネスを包んだ。
瓶の中の香りを嗅いだときとは違い、エリアスの体温と雨の匂いが混じり妙に生々しく感じる。
イネスは慌てて顔を上げた。
「そんな、これではエリアス殿下が風邪を引いてしまいます」
「義姉上が風邪を引けば、私が兄上に怒られますから」
先程までの呆れた表情は消え、またいつもの柔らかな笑みに戻っている。
兄に怒られる。
そんな言い方をすれば、イネスが強く拒めないと分かっていて、わざとそう言ったのだろう。
イネスは言葉を探したが、すぐには返せなかった。
濡れたマントは冷えていたが、厚手の布は吹き込む風を確かに遮った。
イネスは肩に掛けられたマントの端を、そっと握りしめる。
彼の真意はどうであれ、助かったことには変わりない。
彼女は小さく呟いた。
「……ありがとうございます」
「いえ」
エリアスは短く答えて隣に腰を下ろす。
それから、少しだけ考えるように口を開いた。
「……義姉上は、いつもそうなのですか?」
「……そう、とは?」
相変わらず彼の質問は要領を得ない。
イネスは思わず聞き返す。
「人を頼るということをしない」
その声音はいつもより硬い気がした。
ただ、雨が岩肌をたたいている。
はたして、人を頼らないのか。頼れないのか。
どちらでも良かった。
昔から、そのほうが楽だとわかっていたから。
「……自分でなんとかするほうが、早いですから」
それだけ言ってから、マントに掴む手に力を込める。
だが今回ばかりは、エリアスに迷惑をかけてしまった。
きっとその事を非難されているのだろう。
イネスはもう一度静かに口を開く。
「ですが、結局エリアス殿下にご迷惑かけてしまいましたね……。申し訳ございません」
二人の間に沈黙が落ちる。
「そういうことじゃないんですけどね」
エリアスはイネスには聞こえないほど小さな声で呟いた。
「何かおっしゃいましたか?」
イネスが尋ねると、彼はまたいつもの笑みに戻る。
「いえ。なんでも」
そう答えてから続けた。
「兄上に対しても、そうなのですか?」
イネスはゆっくりとエリアスに視線を向ける。
相変わらずその瞳の奥は読めない。
彼女もまた心を隠すように優しく目を細め、口を開いた。
「……殿下はお忙しい方ですから」
それだけ言ってから、森の方へ視線を移した。
エリアスは森を見つめる彼女の横顔を見ていた。
兄はなぜ彼女を選んだのか。
今までの二人を見るに、ルシウスが本気で彼女を愛しているようには見えない。
それに、彼女もまた、兄に気があるようには見えない。
確かにイネスは、容姿や能力では申し分ないだろう。
けれど、家柄としては心許ないし、ルシウスに利益があるようにも思えない。
疑いはまだ消えない。
兄と彼女の関係が、見えているままのものではないことも分かっている。
それでも今、エリアスの意識は、契約や思惑だけではなく、イネス自身へ向き始めていた。
弱みを見せない。
頼ることを知らない。
その不器用な横顔が、なぜか気にかかった。
雨はなおもまだ降り続いている。
二人の間には、甘い香りと静かな時間だけが流れた。
***
しばらくして、雨音の向こうに別の音が混じった。
蹄の音だった。
エリアスが先に気づき、顔を上げる。
「迎えが来たようです」
イネスも雨の向こうへ視線を向けた。
胸の奥が、ほんの少しだけ緩む。
その安堵に押されるように、イネスは咄嗟に立ち上がろうとした。
「私も――」
言いかけた瞬間、足に痛みが走る。
身体がぐらりと傾いた。
エリアスがすぐに腕を伸ばす。
「無理をしないでください」
低い声とともに、イネスの身体が支えられた。
肩に掛けられたマントが揺れる。
雨に濡れたエリアスの胸元が近くなり、月下香の香りが、また鼻を掠める。
イネスは息を呑んだ。
離れようとするが、足に力が入らない。
エリアスの腕が、彼女をしっかりと支えている。
その時、木々の間から複数の馬影が現れた。
雨に霞む林道。
濡れた枝葉の向こう。
先頭にいたのは、銀の髪の男だった。
ルシウスが、こちらを見ていた。




