NO.24 駆け出す馬
ルシウスは書状を受け取ると、封蝋に刻まれた印へ視線を落とした。
その瞬間、紺の瞳がわずかに冷える。
イネスは隣で、その変化を見ていた。
何が書かれているのかは分からない。けれど、彼が無視できる類の用件ではないことだけは分かった。
馬場裏では、すでに締めの一周の準備が進んでいる。
馬は用意され、主催者は少し離れた場所で返答を待っていた。
客席からも、期待を含んだざわめきが流れてくる。
ルシウスは書状を伏せ、一瞬だけイネスを見た。
「私は少し外さなければならない」
短く告げた声には、かすかな硬さがあった。
急ぎの用件なのだろう。
ルシウスの視線が、用意された馬へ向く。
「君一人では大変だろう。やめておくか」
イネスはすぐには答えなかった。
馬場の向こう、観客席へ視線を向ける。
多くの人々が、こちらを見ていた。
主催者は緊張した面持ちで待っている。ここで取りやめれば、場に余計な憶測を生むだろう。
イネスは静かに姿勢を正した。
「いえ。皆様お待ちです。私一人だけでも」
ルシウスの眉が、わずかに動く。
その時だった。
「では、私がご一緒しましょうか?」
柔らかな声が、横から落ちた。
振り向くと、エリアスがいつもの穏やかな笑みを浮かべて立っていた。淡い金髪は、湿り気を含み始めた風に揺れている。
ルシウスの視線が、すぐに冷える。
「お前が?」
「ええ。義姉上お一人では心細いかと思いまして」
穏やかな申し出だった。
けれど、先ほどまでのやり取りを思えば、ただの親切として受け取るには軽すぎる。
ルシウスは何も言わず、エリアスを見る。
短い沈黙が落ちた。
今さら取りやめれば、不自然になる。
イネス一人で出すのも望ましくない。
だが、エリアスに任せるなど、ルシウスにとっては最も避けたい選択だった。
それでも、手の中にある封書の重みが、彼の邪魔をする。
ルシウスはしばらくして低く言った。
「……今回は、仕方なくだ」
「お任せください」
「余計なことはするな」
「もちろんです」
エリアスの返事は、どこまでも穏やかだった。
その穏やかさが、かえって信用ならない。
ルシウスは最後にイネスへ視線を向ける。
「すぐ戻る」
「はい」
イネスが頷くと、ルシウスはそれ以上何も言わず、使者とともに馬場裏を離れた。
その背中が遠ざかる。
先ほどまで、ほんの少し柔らかくなっていた空気が、そこでふっと途切れた。
***
エリアスが、イネスの隣へ並ぶ。
「僕が代役ですみません」
「いえ。むしろありがとうございます」
いつも通りに返したつもりだった。
けれど胸の奥には、かすかな曇りが残っている。
エリアスを警戒しているからだろうか。
それとも。
もしかして自分は、ルシウスと馬場へ出ることを、楽しみにしていたのだろうか。
そう考えて、すぐに打ち消す。
ただ先ほどの会話が、少し心に残っていただけだ。
きっと、それだけのこと。
それなのに、馬場を渡る初夏の風が、ほんの少しだけ遠く感じられた。
「よろしくお願いいたします、義姉上」
「こちらこそ、お願いいたします」
二人は短く言葉を交わし、それぞれの馬へ向かった。
雲行きを見て、競技を終えた馬たちはほとんど馬小屋へ戻されていた。
馬場の端では、帰りたがらない一頭を、馬丁がなだめている。
イネスは用意された馬に近づき、手綱を取った。
先ほど乗った栗毛の牝馬ではないが、落ち着いた目をした馬だった。
踏み台へ足をかけ、鞍へ上がる。
エリアスもまた、先ほど披露で乗っていた自分の馬へ軽やかにまたがった。
その直後だった。
遠くで、空が低く鳴った。
風が強まり、天幕の布が大きくはためく。
馬場の端でぐずっていた馬が、鋭くいなないた。
馬丁が慌てて手綱を握り直す。
だが、次の瞬間、馬は大きく首を振り、馬丁の手を振り切った。
「待て!」
声が飛ぶ。
馬は広場を横切り、まっすぐ森の方へ駆け出した。
森の奥へ入られれば、どこへ向かったのか分からなくなる。
空には、遠雷の気配もあった。
このまま走らせるのは危険だ。
イネスは一瞬だけ迷う。
自分が追いかけるべきなのかと。
けれど次の瞬間にはもう手綱を握り直していた。
「追いかけます!」
言い終えるより早く、馬が力強く前へ出る。
背後で、エリアスの馬も動く気配がした。
今、この場であの馬を追いかけられるのは自分しかいない。
護衛たちも馬小屋に向かって走ってはいたが、彼らの準備を待っていたら馬を見失う。
イネスは振り返らずに、前だけ見て走った。
***
逃げた馬は、馬場の外周を抜け、草地を突っ切るようにして森の方へ向かった。
馬場のざわめきが遠のいていく。
草地を抜け、木立の影へ入る頃には、風と雨と地面を駆ける足音だけになっていた。
ぽつり、と雨粒が頬に落ちる。
その時、すぐ後から蹄の音が重なった。
一瞬だけ振り返ると、エリアスが追ってきていた。
琥珀色の瞳に、先ほどまでの探るような笑みはない。
雨を受けながら、まっすぐこちらへ馬を寄せてくる。
心配して、ついてきたのだろうか。
イネスは手綱を握り直す。
前方の馬は、まだ速度を落とさない。
濡れた土を蹄が蹴り、細かい泥が跳ねる。
「この先、右手は渓谷です!」
エリアスが、雨音に負けない声で告げる。
「左手に岩場があります。そちらへ寄せましょう!」
「分かりました!」
短く答え、イネスは手綱を握り直した。
今は彼の真意を考えている場合ではない。
イネスは逃げた馬の右側へ並ぶように出る。
エリアスは左後ろにつき、逃げ道を塞いだ。
雨に濡れた林道を、三頭の馬が駆け抜けていく。
逃げた馬はしばらく抵抗するようにまっすぐ走り続けたが、やがて前方に張り出した岩場が見え始めると、少しずつ速度を落とし始めた。
イネスはそれを見て、手綱を緩めた。
エリアスも同じように、逃げ馬から距離を取る。
馬は岩場の手前で足を止めた。
荒い息を吐き、濡れた地面を前脚で掻くようにしている。
雨脚が強くなる。
風が木々を揺らし、葉がざわざわと鳴った。
「岩陰があります!」
エリアスの声が、雨を裂く。
「いったん馬を寄せましょう!」
「ええ!」
二人はまず、自分たちの馬を岩陰の近くへ寄せた。
雨を完全に避けられるわけではないが、むき出しの林道にいるよりはましだった。
逃げた馬は少し離れた場所で、まだ落ち着かない様子で首を振っている。
垂れた手綱が、濡れた地面を引きずっていた。
イネスが馬から下りると、雨に濡れた地面が靴の下で小さく沈む。
エリアスもすぐに馬を下り、イネスの隣に並んだ。
「手綱は私が」
エリアスが短く告げ、手綱を取れる位置へ静かに進む。
イネスは小さく頷き、馬の首筋側へ回った。
馬は荒く息を吐き、濡れた地面を前脚で掻くようにしている。
イネスは声を落とした。
「大丈夫。もう怖がらなくていいわ」
馬の耳が、ぴくりと動く。
イネスはすぐには手を伸ばさなかった。
ただ、もう一歩だけ距離を詰める。
雨が頬を伝い、顎から落ちた。
馬の呼吸が、ほんの少しだけ落ち着いたように見える。
エリアスが静かに手を伸ばし、垂れていた手綱を取った。
その時だった。
すぐ近くで、雷が鳴った。
空気が震える。
逃げ馬が大きく身を跳ねさせた。
前脚が上がり、濡れた鬣が跳ねる。
馬の身体が、イネスの方へ流れかけた。
エリアスがすかさず手綱を引く。
馬の頭が逸れ、イネスのすぐ前を濡れた鬣が掠めた。イネスは反射的に一歩下がる。
その足元の先には、雨に濡れた低い茂みが生い茂っていた。
エリアスの意識が、ほんの一瞬、馬を抑える方へ向く。
「……義姉上?」
声をかけた時、側にいるはずの姿はなかった。
雨音が強くなる。
エリアスは視線を走らせた。
岩場の脇。
濡れた茂み。
不自然に崩れた土。
その奥、茂みに隠れていた斜面の下へ、若葉色の布が一瞬だけ消えていくのが見えた。
「イネス!」
余裕の消えた声が、雨と雷の残響を裂いた。




