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女遊び好きな皇子に契約結婚を申し込まれましたが、お互い好きになったら離婚だそうです  作者: 春野スミレ


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NO.29 書状の内容

 目を覚ました瞬間、イネスはしばらく動けなかった。

 見慣れた天井。自分の部屋。窓辺から差し込む朝の光も、淡い布の揺れも、何ひとつ変わらない。


 ただひとつだけ、いつもと違うものがあった。


 背後から、腕が回されている。

 イネスの腰を抱くように、ルシウスの腕が絡んでいた。背中には彼の体温があり、髪のすぐ近くで、静かな寝息が聞こえる。


 その事実を理解した瞬間、昨夜の記憶が一気に戻ってくる。


 なぜ自分はあんな事をしてしまったのか。

 あんな、挑発に乗るような事を。


 いつもの自分なら、あんな言葉は口にしなかった。

 けれど、昨夜のルシウスの熱に浮かされた瞳が彼女を狂わせたのは間違いなかった。


 思い出せば思い出すほど頬が熱くなる。


 起き上がろうにも腰に回された腕はイネスを掴んで離さない。

 無理にどければ起こしてしまうだろうか。


 だがこのままじっとしているのも落ち着かない。


 どうしようか迷っているうちに、背後でわずかに衣擦れの音がした。


「起きていたのか」


 低く、少し掠れた声が耳元に落ちる。

 イネスの肩が小さく跳ねた。


「……おはようございます」


 どうにかそう返して、そっと顔を向ける。

 すぐ近くに、ルシウスの紺の瞳があった。


 一度目が合う。

 けれど、イネスはすぐに視線を伏せてしまった。

 それを見て、ルシウスの目がわずかに細くなる。


「……照れているのか?」


「……っ。そういうわけでは……」


 即座に否定したつもりだったが、声が少し硬くなる。

 ルシウスは喉の奥で低く笑った。

 腰に回されていた腕に、ほんの少しだけ力がこもる。


「素直じゃないな」


 イネスは黙る。


「昨夜の君は、もう少し素直だった」


 その言葉に、思わず顔を上げてしまった。

 ルシウスは余裕のある笑みを浮かべている。

 憎たらしいほど、落ち着いた顔だった。


「……からかわないでください」


 イネスは小さく反論して、また視線を逸らした。

 耳の先まで熱くなっているのが、自分でも分かった。


 ルシウスはしばらくそんな彼女を見ていた。

 やがて、指先でイネスの頬に触れる。


 昨夜とは違い、静かで、やわらかな触れ方。


 視線が交わるより先に、唇が重なる。

 触れるだけの優しい口づけ。


 唇が離れると、ルシウスは意地悪な笑みを浮かべて言った。


「焦らした甲斐があったな」


 イネスはもう、何も返せなかった。

 これ以上、彼のペースに乱されたくない。


 イネスは抗議するようにルシウスを見たあと、上体を起こし、寝台の上で姿勢を正た。

 そして、わざとらしく話題を変える。


「……そういえば」

「あの時の書状は、何だったのですか?」


 ルシウスは、そんなイネスの態度すら面白そうに見ていた。

 そして、一度柔らかく笑ってから、真面目な顔になる。


「孤児院の件だ」


 その一言で、イネスの表情が変わる。


「進展があったのですか」


「ああ」


 ルシウスは寝台から身を起こした。


「詳しくは後で話す。支度が済んだら、この部屋で」


「殿下の執務室でなくて、よいのですか?」


 そう呼んでから、昨夜の記憶が一瞬だけ蘇る。

 

――名前で呼ばれたい。


 そんな彼の甘く掠れた声が脳内に響いた。


 こんな真面目な話をしている時に……。


 イネスは、ルシウスに気づかれないように小さく俯いた。


「……君は、足を痛めているからな」


 イネスの心を知ってか知らずかルシウスは答える。

 特段、呼び方について問い詰められることはなかった。


 イネスがうつむいている間に、ルシウスが寝台脇のベルに手を伸ばす。澄んだ音が部屋に響いた。

 気づいた時にはもう遅い。イネスが止める間もなく、控えめなノックがあった。


「失礼いたします」


 扉が開き、侍女たちが入ってくる。

 そして、一瞬だけ動きを止めた。


 イネスの寝室。寝台のそばにいるルシウス。

 状況を理解するには、それだけで十分だった。


 侍女たちはすぐに深く頭を下げ、平静を装った。

 けれど、空気がほんの少しだけ華やいだことを、イネスは感じ取ってしまう。


 恥ずかしさで、顔を上げられない。

 ルシウスは涼しい顔のまま立ち上がった。


「妃の支度を」


「かしこまりました」


 侍女たちがすぐに動き始める。

 湯の用意、着替え、髪を整えるための道具。


 イネスは俯いたまま、膝の上で指先を握った。

 ルシウスはその様子を一瞥し、口元だけでかすかに笑う。

 彼は何か言いたげだったが、結局何も言わなかった。


「では、後ほど。……イネス」


 名前を呼ばれただけなのに、胸の奥が小さく跳ねた。


「……はい」


 イネスは小さく答える。

 目は合わせられなかった。


***


 支度を終えた頃、部屋には簡易の席が整えられていた。

 イネスは長椅子に腰掛けている。


 やがて、扉が叩かれる。


「どうぞ」


 入ってきたのは、ルシウスだった。

 その後ろには、一人の男が控えている。


 ルシウスの執務室で、何度か書類を携えて出入りしているのを見かけたことがある男だった。


 年は三十前後だろうか。濃い栗色の髪をきっちりと整え、落ち着いた色の衣を身につけている。

 男はイネスの前で丁寧に一礼する。


「妃殿下。改めてご挨拶申し上げます。クラウス・レナードにございます」


「イネス・アルヴェインです。よろしくお願いいたします」


 イネスも座ったまま静かに一礼した。

 ルシウスは椅子に腰を下ろし、短く告げる。


「クラウスには、孤児院の件を整理させている」


 イネスが頷くと、ルシウスはクラウスへ視線を向けた。


「報告を」


「はい」


 クラウスは手元の資料に視線を落とす。


「王立孤児院から抜かれていた物資について、横流し先の一つとしてダルク商会の名が浮上いたしました」

「表向きは古物、雑貨、輸送を扱う小商会です。ですが、以前より出所の不明瞭な品を扱っているという噂がございました」


「商会主は」


 ルシウスが問う。


「姿を隠しております。商会そのものは完全に消えておりませんが、主だった帳簿の一部は持ち去られております」


「逃げたか」


「その可能性が高いかと」


 クラウスは淡々と頷いた。


「ただ、残された記録と関係者の証言から、ダルク商会とゲイツ伯爵家周辺に接点がある可能性が出てまいりました」


 ゲイツ伯爵家。


 イネスには、まだ馴染みのない名だった。

 視線を向けると、ルシウスが短く説明する。


「宝石や鉱石の取引で力を持つ家だ。第二皇子派に近い」


 第二皇子派。

 エリアスとも関わりがあるということなのだろうか。


 クラウスは続ける。


「ゲイツ伯爵家が直接関与している証拠は、まだございません。ただ、ダルク商会の資金の流れを追うと、ゲイツ家と縁の深い宝石商の名が幾度か出てまいります」


 クラウスは書類を一枚めくる。


「それから、もう一つ。ダルク商会が、会員制の違法競売に関わっているという噂がございます」

「表向きは宝飾品や美術品、希少な香料などを扱う私的な競売です。ですが、帳簿上では国外へ輸出されたはずの宝飾品が、そこに出品されているようです」


 ルシウスの紺の瞳が、わずかに細められる。


「輸出されたものが、“なぜか”国内にあるということか」


「はい。おそらく別の物資を流して金品をやりとりしていたのではないかと」


 部屋に、短い沈黙が落ちた。


「面白そうだな」


 ルシウスが静かに言った。

 クラウスの動きが、ほんの一瞬だけ止まる。


「……まさか、殿下が直接お確かめになるおつもりですか」


「その方が早い」


 あまりにも当然のように返されクラウスは一瞬目眩がする。


「問題は」


 クラウスは言いたい言葉をすべて飲み込み、続けた。


「……その競売が完全な招待制であることです。招待状がなければ入れません。参加者は仮面を着用し、名ではなく招待状で確認されると聞いております」


「なら、招待状を手に入れればいいな」


 ルシウスの口元に、薄い笑みが浮かぶ。

 クラウスは軽く目をつぶってから頭を下げた。


「数日後、ゲイツ伯爵家と、例の競売に出入りしている可能性のある貴族たちが顔を出す夜会がございます」


 ルシウスの笑みが濃くなる。


「ちょうどいい」

「手頃な相手を見つけておけ」


 クラウスはこっそりと息を吐いてから、深く一礼した。


「承知いたしました」


 イネスは静かに二人のやり取りを見ていた。


 あの事件に関わっていた人物たち。

 そして怪しい競売会。

 子供たちを傷つけて私腹を肥やしていた連中を許すわけにはいかない。

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