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女遊び好きな皇子に契約結婚を申し込まれましたが、お互い好きになったら離婚だそうです  作者: 春野スミレ


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NO.22 悪くないかもしれない

 競技の合間には、招かれた貴族たちが馬に触れ、短く馬場を歩かせる時間が設けられていた。


 王都近郊の乗馬大会は、競技を見るだけの場ではない。

 馬主が自慢の馬を披露し、貴族たちは気に入った馬や馬具について言葉を交わす。


 希望する者は、従者や馬丁の付き添いを受けて、馬場の端を軽く歩かせることもできる。

 イネスが乗馬服で来ていたのも、そのためだった。


 主催者が近づき、頭を下げる。


「妃殿下も、よろしければ」


 イネスは一度、ルシウスを見た。

 ルシウスは小さく頷く。


「行ってくればいい」


「ありがとうございます」


 イネスがそう答えた直後、エリアスが穏やかな声で言った。


「せっかくですから、私もご一緒しても?義姉上の乗馬姿を、近くで拝見してみたいので」


 ルシウスの視線が、すぐにエリアスへ向く。


「お前は自分の準備をしていろ」


「まだ少し時間がありますが」


「これ以上妻との時間を邪魔しないでもらおうか」


 その言葉は、本気のようにも、この婚姻の綻びをみられたくないようにも聞こえた。


 エリアスは一瞬だけ黙る。

 それから、いつものように柔らかく微笑んだ。


「……では、またの機会に」


 そう言って、あっさりと引きさがる。

 その表情は、ルシウスの反応を確かめて楽しんでいるように見えた。


 その時、馬丁が近づいてきた。


「妃殿下、こちらへ」


「ええ」


 イネスは、背中にエリアスからの視線を受けながら馬場の端へ向かった。


 ルシウスがゆっくりと隣に並ぶ。

 前を向いたまま、彼はイネスにだけ聞こえるような声で囁いた。


「あいつに何か言われたか」


 イネスは一瞬で理解する。

 今話していることをエリアスに悟られてはいけない。


 彼女もまた、前を向いたまま静かに答えた。


「……はい。婚姻の経緯について少々」


「何と答えた」


 その問いに、イネスの胸がわずかに強ばった。

 自分の返答に、不備があったのではないか。

 そんな不安が、遅れて胸に浮かぶ。


「嘘は申しておりません。ベルフォール領の乗馬大会でお目にかかり、数日後に登城を求められ、婚姻の話をいただいたと」


 ルシウスはわずかに息を吐いた。


「それに対して、あいつは何か言ったか?」


 イネスは一瞬だけ言葉に迷う。


 エリアスの言葉をそのまま伝えるには、少々気恥ずかしい気がした。

 けれど嘘をつくことはできない。


「殿下が……私に一目惚れなさったのか、というようなことを」


 言ってから、少しだけ声を落とす。


「本当の理由を伝えるわけにはまいりませんでしたので」


 イネスはルシウスの反応を待った。

 まずいことを言ってしまっただろうか。


 だがルシウスはそんなイネスの心配をよそに、わずかに微笑んだ。


「そうか、あながち間違いでもないな」


 不意に落ちた言葉に、イネスの眉が動く。

 そんなイネスの反応を知ってか知らずか、ルシウスは何ともなしに続けた。


「君と初めて出会った時に思った。契約するのに適役だと」


 それは婚姻を申し込まれた初日に、聞いた言葉だった。

 彼が恋愛的な意味で一目惚れをしたはずなど無いと始めから分かっていたのに、なぜ動揺してしまったのか。


 イネスは自分を落ち着かせるように軽く息を吐いた。


「……私の対応に不備はあったでしょうか」


 ルシウスは短く答えた。


「いや、変に嘘をつくよりずっといい」


 その声音に責めるような響きはない。

 

「また何かあったら、私に伝えろ。君一人であいつの相手をするには荷が重いだろう」


 イネスは先程のエリアスの表情を思い出す。

 微笑みながら、こちらの奥を探るような瞳。


「……分かりました」


 そう答えて、馬たちが集まる広場へと足を踏み入れた。


 用意された馬は、栗毛の穏やかな牝馬だった。

 大きな黒い瞳が、こちらを静かに見ている。


 その真っ直ぐな目を見ていると、先程までの緊張が和らいでくる。


 イネスはすぐに手綱を取らず、首筋へそっと手を伸ばす。

 ゆっくりと撫でるように手を滑らせ、声をかけた。


「……よろしくね」


 低く、小さな声で囁く。

 馬が鼻を鳴らし、耳をわずかに動かした。

 その感触が、ひどく懐かしかった。


 手のひらに伝わる体温。

 草と土と、馬の匂い。


 イネスはもう一度だけ、栗毛の馬の首筋を撫でた。


 馬丁が踏み台を用意する。

 イネスは手綱を受け取り、鞍に手を添えた。

 鐙に足をかけると、無駄のないまっすぐな動きで馬に跨った。


 久しぶりであっても、一度身体に染みついた感覚は簡単には消えないらしい。


 馬に乗ると、視界が一気に高くなる。

 若葉色の乗馬服の裾が風に揺れ、高く結った黒髪が肩の後ろでふわりと動いた。


 イネスは手綱を握り直し、そっと馬の首筋へ視線を落とした。


「行きましょう」


 小さく声をかけると、馬は静かに一歩を踏み出した。


 馬場の端を、ゆっくりと進む。

 観客席からの視線も、貴婦人たちの囁きも、少しずつ遠のいていくようだった。


 何も考えず、ただ、馬の背で初夏の風を受けている。

 それだけで、胸の奥が少しほどけるような気がした。


 少し離れた場所で、ルシウスはその姿を見ていた。


 馬場を進むイネスの横顔。

 風を受けた時に、ほんの少しだけやわらぐ目元。


 馬の上で揺れている彼女は、どこか嬉しそうに見えた。


 イネスは馬場の端を一周すると、馬丁のいる場所へ戻ってきた。

 鞍から下りようとしたところで、ルシウスが自然に一歩近づき、手を差し出す。


 イネスはその手を軽く取り、踏み台へ足を下ろした。

 それから地面へ降り立ち、乗馬服の裾を整える。


「楽しかったか?」


 ルシウスが尋ねると、イネスは少しだけ目を上げた。


「ええ。久しぶりに風を感じられました」


 その声は、いつもよりわずかに穏やかだった。

 ルシウスは目を細める。


「これからは、定期的に二人で乗るのも悪くないかもしれないな」


 イネスは一瞬、言葉を止めた。


 二人で。

 その響きが、妙に耳に残る。


 夫婦として人前に立つためでも、契約を果たすためでもない。

 ただの誘い。


 そのことが、少しだけ意外だった。

 けれど、嫌ではない。


「……そうですね。いいかもしれません」


 イネスがそう答えると、ルシウスの口元がわずかに緩んだ。

 それ以上、彼は何も言わなかった。


 ただ、少しだけ満足したように視線を馬場へ戻した。

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