NO.20 初夏の馬場
現在、2026年5月13日までに書いた全16話を、20話構成で読みやすく修整中です!そこまで読んでくださった皆様は、21話からが続きになりますのでよろしくお願いいたします!
21話以降は、5月中に載せられるよう、鋭意製作中です!引き続きよろしくお願いいたします!
王立孤児院の件は、王宮主導の正式な調査へ移っていた。
職員たちへの聞き取りも、帳簿の精査も、まだ終わっていない。
それでも、王宮の時間は止まらない。
ひとつの事件が終わらぬうちに、次の公務は当然のように差し出される。
***
ルシウスの執務室には、いつものように紙とインクの匂いが満ちていた。
机上には、孤児院関連の報告書が積まれている。
その横には、別の封蝋が押された書状が数通。
王宮という場所は、どれほど大きな事件が起きても、次の用件を待ってはくれないらしい。
イネスはルシウスの向かいに座り、報告書へ目を通していた。
そこへ侍従が入室し、一礼する。
「第一皇子殿下、妃殿下。数日後に行われる王都近郊の乗馬大会について、出席の確認が届いております」
侍従から書状を受け取ると、ルシウスはそれに視線を落とした。
「乗馬大会か」
短く呟いたあと、ふと思い出したようにイネスを見る。
「そういえば、君は馬が得意だったな」
イネスは一拍置いて答えた。
「得意というほどではありません」
「春の馬場で見た限り、十分だったと思うが」
イネスは少しだけ瞬きをする。
「……よく覚えていらっしゃいますね」
「印象に残っている」
ルシウスはそれだけ言って、再び書状へ視線を戻した。
濃紺の乗馬服。
高く結われた黒髪。
第一皇子である自分を前にしても、少しも媚びず、瞳を揺らさなかった女。
王宮へ来てからの彼女は、いつも美しいドレスに身を包んでいる。
それはそれでよく似合っていたが、もう一度、馬場に立つ姿を見るのも悪くない。
「出席する」
ルシウスが短く告げると、侍従は一礼した。
「かしこまりました」
侍従が退出すると、室内にはふたたび静けさが戻った。
イネスは手元の報告書を閉じ、少しだけ迷うように口を開く。
「この状況で、華やかな催しに出てもよろしいのでしょうか」
「孤児院の件か」
「はい。調査はまだ終わっておりませんし」
「事件があるたびに公務を止めれば、王宮は機能しない」
イネスは黙って聞いていた。
その理屈は分かる。ひとつの事件だけにかかりきりになるわけにはいかない。
ルシウスは、少しだけ声を和らげた。
「それに、君には少し外の空気が必要だ」
イネスは目を上げる。
「私のためですか」
「馬の前では、少しは表情が変わるかと思ってな」
「……そうでしょうか」
「ああ」
ルシウスは、からかうように目を細めた。
「君は隠しているつもりでも、案外分かりやすいところがある」
「……そう、でしょうか」
重く沈みかけていた空気が、ほんの少しだけほどける。
王都近郊の乗馬大会。
公務としての出席。
そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥にほんの小さな灯りがともるのを、イネスは否定できなかった。
***
それから数日後、迎えた乗馬大会当日の朝。
王宮の庭には、初夏の陽射しが明るく落ちていた。
春よりも濃くなった緑が、風を受けてきらめいている。
イネスの部屋では、朝から侍女たちが支度に追われていた。
用意された乗馬服は、初夏の若葉を思わせる落ち着いた緑だった。
鮮やかすぎず、暗すぎない。
光の加減で、翡翠のような艶を帯びる。
王宮で着るドレスとはまるで違う。
身体の動きを妨げない上着の線はすっきりとしていて、袖口と襟元には控えめな刺繍だけが施されていた。
イネスは袖を通した瞬間、懐かしい感覚を覚えた。
侍女が黒髪を高い位置でまとめていく。
鏡の中の自分は、第一皇子妃として王宮に立つ姿より、少しだけ昔の自分に近いように見えた。
「妃殿下は、乗馬がお得意だそうですね」
侍女の一人が、髪飾りを整えながら言った。
「少し乗れる程度ですよ」
「それでも、楽しみですね」
その言葉に、胸の奥がほんの少し軽くなる。
「……ええ」
短く答えた声は、自分で思ったよりも柔らかかった。
侍女たちは顔を見合わせ、微笑みを深くする。
やがて支度が整った頃、扉が控えめに叩かれた。
「妃殿下。第一皇子殿下がお迎えにいらしております」
「お通しして」
扉が開く。
入ってきたルシウスは、馬場へ向かうためか、普段よりも少し動きやすい装いをしていた。
銀の髪は淡く光を受け、紺の瞳がまっすぐイネスを捉える。
その視線が、一瞬だけ止まった。
初夏の若葉を思わせる緑の乗馬服。
高く結われた黒髪。
すっきりと出た首筋。
春の馬場で見た濃紺の乗馬服もよく似合っていた。
けれど、初夏の光を受けるこの緑も悪くない。黒髪と白い肌、翡翠の瞳を静かに引き立てている。
イネス本人は、いつも通りに振る舞っているつもりなのだろう。
表情は落ち着いている。
けれど、その瞳の奥に、ほんのわずかな高揚が見えた。
乗馬大会を、楽しみにしている。
そんな彼女の変化に気づけるようになったのは、いつからだろう。
「……何かおかしいでしょうか」
イネスが静かに尋ねる。
ルシウスは我に返ったように、わずかに目を細めた。
「いや」
少し間を置く。
「よく似合っている」
イネスは一礼した。
「ありがとうございます」
返事はいつも通りだった。
けれど、その声にもほんの少しだけ、柔らかな響きがあった。
ルシウスはそれ以上何も言わなかった。
ただ、視線を外すのが少しだけ遅れた。
「行くぞ」
「はい」
短いやり取りのあと、二人は並んで部屋を出た。
王宮の廊下には、初夏の明るい光が差し込んでいた。
***
馬車は王都近郊の馬場へ向かって進んでいた。
窓の外には、初夏の緑が流れていく。
春のやわらかさとは違う、少し濃くなった季節の匂いがある。
イネスは窓の外を見ていた。
背筋は伸び、表情は落ち着いている。
けれど、その意識がすでに馬場へ向いていることは、ルシウスにも分かった。
「楽しみか」
ルシウスが問うと、イネスは少しだけ間を置いた。
「……少し」
「少し?乗馬服まで用意させておいてか」
「せっかくの機会ですし」
涼しい顔で答える。
けれど、窓の外へ向けられた翡翠の瞳は、いつもより少し柔らかい。
ルシウスはそれ以上からかわなかった。
「あまり無茶はするな」
「はい」
イネスは素直に頷いた。
馬車の中には、それきり静かな時間が流れた。
窓の外を流れる緑が、少しずつ王宮の空気を遠ざけていく。
イネスは何も言わず、その景色を見つめていた。
ルシウスは、そんな彼女の横顔を静かに見ていた。
***
王都近郊の馬場は、初夏の陽射しに明るく照らされていた。
広く開けた草地の向こうに、整えられた馬場がある。
土は軽く踏みならされ、周囲には色とりどりの天幕が張られていた。
貴族たちのための観覧席。
商人たちが品を並べる小さな区画。
従者たちが馬を休ませるための木陰。
乾いた土と青い草の匂いが、風に乗ってくる。
馬のいななき。
蹄が地面を叩く音。
手綱の金具が触れ合うかすかな音。
王宮の石壁に囲まれた日々とは、まるで違う空気だった。
馬車が止まり、扉が開かれる。
先に降りたルシウスが手を差し出すと、イネスはその手に自分の指を重ねた。
地面へ足を下ろした瞬間、風が乗馬服の裾を軽く揺らす。
高く結った黒髪の先が、肩の後ろでわずかに動いた。
「第一皇子殿下」
主催者が足早に近づき、深く一礼する。
「本日はお越しいただき、誠に光栄にございます。妃殿下も、ようこそおいでくださいました」
「招待に感謝する」
ルシウスは穏やかに応じた。
その隣で、イネスも静かに膝を折る。
「本日はお招きいただきありがとうございます」
主催者は顔を上げ、イネスの乗馬服姿に一瞬だけ目を留めた。
「妃殿下は、乗馬もなさるのですね」
「少しだけ」
イネスが控えめに答えると、周囲にいた貴族たちが小さくざわめいた。
「第一皇子殿下と妃殿下だわ」
「妃殿下も乗馬服でいらしているのね」
「まあ、お美しい」
「ベルフォール領では、乗馬大会を取り仕切っていらしたとか」
「では、今日もお乗りになるのかしら」
扇の陰で囁かれる声。
好奇と羨望と、少しの値踏み。
イネスはそれらを聞き流し、主催者の挨拶に落ち着いて応じた。
第一皇子妃としての姿勢に、乱れはない。
やがて、競技の開始を知らせる準備が始まった。
騎手たちが馬を整え、旗が高く掲げられる。
馬場の土が軽く踏みならされ、観覧席にいた人々も少しずつ身を乗り出した。
イネスの視線が、自然と馬場へ向く。
王宮で張っている糸が、馬場の風に触れてわずかに緩んでいる。
ルシウスは、ただ黙ってその横顔を見ていた。
もし、ベルフォール領のあの日に戻ったとして。
あの時の自分は、今のこの表情に気づいただろうか。
おそらく、気づかなかった。
気づこうともしなかった。
あの頃のルシウスにとって、女とは自分を見つめ、期待し、熱を帯びるものだった。
だから、イネスのように何も求めてこない女が珍しかった。
ただそれだけだった。
けれど今は違う。
彼女が何に目を向けるのか。
何に心を動かすのか。
そういうものが、気になるようになっている。
そのことに気づいて、ルシウスは少しだけ目を細めた。
競技開始の合図の鐘が鳴ろうとした、その時だった。
「殿下」
侍従が近づき、控えめに声をかける。
ルシウスは馬場から視線を外さずに問う。
「何だ」
「第二皇子殿下がご到着されました」
その瞬間、ルシウスの目がほんのわずかに冷えた。
イネスも振り返る。
初夏の陽射しを受けた天幕の向こう。
淡い金髪の青年が、こちらへ歩いてくるところだった。
柔らかな笑み。
読めない琥珀色の瞳。
周囲のざわめきさえ、彼の歩みに合わせて少し色を変える。
エリアスが、馬場へ現れた。




