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女遊び好きな皇子に契約結婚を申し込まれましたが、お互い好きになったら離婚だそうです  作者: 春野スミレ


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NO.19 帰る場所

現在、2026年5月13日までに書いた全16話を、20話構成で読みやすく修整中です!そこまで読んでくださった皆様は、21話からが続きになりますのでよろしくお願いいたします!

21話以降は、5月中に載せられるよう、鋭意製作中です!引き続きよろしくお願いいたします!

 翌朝、王宮の空気はいつもより張りつめていた。


 王立孤児院から届いた報告は、すでに監察官、財務官、王宮医師たちへ回されている。朝早くから会議室に集められた役人たちの顔には、緊張が浮かんでいた。


 イネスは会議室へ向かう途中、昨夜のことを思い出していた。

 低く落とされた声。髪を撫でる手の感触。


 人に頼ったことも、あんなふうに眠りへ導かれたことも初めてで、思い返すと少しだけ落ち着かない。

 けれど、そのおかげで休めたのも事実だった。


 回廊の先に、マルグリット夫人の姿が見える。彼女は昨夜、孤児院に残り、子どもたちの様子を見届けてから王宮へ戻っていた。


「昨夜はどうでしたか」


 イネスが尋ねると、マルグリット夫人は一拍置いて答えた。


「寝つきは悪かったようです。物音がするたびに目を開ける子もおりました」

「ですが、一度眠ってからは、朝まで起きなかった子がほとんどでした」


「……そうですか」


「職員たちが戻らないと分かって、安心したのでしょう」


 その言葉の重さを、イネスは静かに受け止めた。子どもたちは眠れた。今は、それだけでいい。


***


 会議室では、ルシウスが上座に座っていた。

 机の上には、孤児院から持ち帰られた帳簿の写しと、昨夜まとめられた報告書が置かれている。


 イネスは席につくと、昨日の経緯を簡潔に報告した。


 子どもたちに複数の痣が見つかったこと。

 職員たちの証言に食い違いがあったこと。

 リーナから、暴力と寄付品の不正流用を示す証言を得たこと。

 帳簿と現場の物資に差がある可能性が高いこと。

 そして、子どもたちを守るため、院長と職員たちを孤児院から離し、リーナを王宮側で保護したこと。


 報告が終わると、役人の一人が慎重に口を開いた。


「妃殿下。恐れながら、正式な調査前に職員全員へ帰宅を命じたのは、少々急ぎすぎだったのではありませんか」


 イネスが答えるより先に、ルシウスが口を開く。


「では、あのまま子どもたちを職員の手元へ戻せと?」


 会議室が静まり返った。


「職員たちの証言は食い違い、子どもたちには痣があり、証言者もいた。あの場で職員を残せば、子どもたちや証言者へ接触した可能性もある」


 ルシウスは書類から顔を上げる。


「妻の判断は妥当だ」


 その一言で、会議室の空気が変わった。

 イネスは静かにその言葉を受け止めた。

 胸の奥に残っていた小さな緊張が、ほんの少しほどける。


 その後の方針はすぐに決まった。

 院長は職務停止。

 ガルムは暴力行為の疑いで拘束。

 他の職員も個別に聴取。

 帳簿と搬入記録は押収し、納品元へ正式に照会する。


 孤児院には王宮監督と医師を派遣し、子どもたちへの聞き取りは急がず、医師や女官を通して慎重に進めることになった。


 会議の途中、第二皇子側からの報告も届いた。

 食料、毛布、薬品はいずれも王宮の支給記録どおりに出荷され、孤児院側の受領記録にも同数が記されているという。

 つまり、物資は孤児院へ届いたあとで消えている可能性が高い。


「得た記録は随時こちらへ回せ」


 ルシウスは短く命じた。


「確認内容に食い違いが出ないよう、共有を怠るな」


 一度借りを作られたなら、とことん使う。

 それが今のルシウスの判断だった。


***


 会議が終わると、役人たちはそれぞれの仕事へ散っていった。

 ルシウスも書類を手に立ち上がる。


「私はこのまま、院長たちの聴取と帳簿確認へ入る」


 イネスは顔を上げた。


「では、私だけでも孤児院へ行かせてください」


 ルシウスの視線が、イネスへ向く。


「昨日の今日だ。現場が落ち着いたとは言い切れない」


「長く留まるつもりはありません。ただ、子どもたちの様子をこの目で確かめたいのです」


 そこで一度、言葉を切る。


「……それに、ノエにも、また来ると伝えました」


 ルシウスは黙った。

 約束。その言葉が、今のイネスにとって軽いものではないことは分かる。


「オスカーをつける。護衛も増やす。マルグリット夫人の指示に従え。勝手な単独行動はするな」


「承知しました」


 イネスは迷わず頷いた。


***


 数時間後、イネスはオスカー、護衛たち、マルグリット夫人、数名の王宮女官を伴い、ふたたび王立孤児院へ向かった。


 孤児院の空気は、昨日とは違っていた。

 門には王宮の護衛が立ち、出入りは厳しく管理されている。帳簿や記録が保管された部屋には封がされ、監督役の役人が立ち会っていた。


 けれど、子どもたちの部屋は、護衛や役人たちが必要以上に立ち入らないよう、配慮されていた。


 イネスが部屋へ入ると、小さな瞳が一斉にこちらを向いた。昨日より、ほんの少しだけ空気が柔らかい。


 ノエは窓際の椅子に座っていた。

 顔色は少し良くなっていたが、警戒はまだ消えていない。


「こんにちは、ノエ」


 イネスが少し離れたところで膝を折ると、ノエはじっと彼女を見つめた。


「……また来た」


「ええ。様子を見に来ました」


 その一言に、ノエは何かを確かめるように瞬きをした。約束が本当だったと、今ようやく知ったような顔だった。

 その時、近くにいた年少の子が小さく口を開いた。


「……リーナ先生は?」


 部屋の空気が、ほんの少し止まる。


「リーナ先生、帰ってこないの?」


 イネスはすぐには答えられなかった。

 リーナは止めきれなかった。けれど、子どもたちにとっては、この孤児院の中で数少ない味方だったのかもしれない。


「リーナ先生は、今、安全な場所にいます」


「安全な場所……?」


「ええ。少し休んでいるだけです」


 子どもたちは、イネスの言葉を静かに聞いていた。

 今後、彼女をどう扱うべきか。簡単には決められない。

 けれど、子どもたちが彼女を待っていることだけは確かだった。


***


 部屋を出たあと、イネスはマルグリット夫人へ尋ねた。


「リーナを戻すべきでしょうか」


「本来であれば、彼女も処分の対象です」


 夫人は静かに答えた。


「暴力を振るった本人ではないにせよ、見ていながら止められなかった。寄付品の不正についても黙っていた。その責任は問われます」


「ええ」


「ですが、子どもたちに必要な存在なのも事実でしょう」


 イネスは小さく頷いた。


「少なくとも、あの子たちは彼女を待っています」


「子どもたちが求め、本人に償う意思があるなら、答えは決まっているのでは?」


 柔らかな声が廊下の向こうから落ちた。

 振り返ると、エリアスが立っていた。昨日と同じように、穏やかな笑みを浮かべている。


「エリアス殿下」


「昨夜置いた者たちの引き継ぎと、報告を受けに来ました。立ち聞きのようになってしまい、失礼」


「いいえ」


 エリアスは子どもたちの部屋へ視線を向ける。


「ただ戻すのではなく、処分を兼ねた形にしてはどうでしょう。王宮側の監督下に置き、給金は停止。職務は子どもたちの世話に限る。単独行動も、他の職員との接触も禁じる」


「罰として、ですか」


 マルグリット夫人が問う。


「罰であり、償いでもあります」


 イネスは静かに考えた。遠ざけるだけが正しいとは思えない。

 けれど、ただ戻すだけでも駄目だ。


「最終的な判断は、ルシウス殿下へ確認いたします」


「ええ。それがよろしいかと」


 エリアスは微笑んだ。


「昨日よりは、少し落ち着いているようですね」


「ええ。まだ警戒は強いですが、少しだけ空気が変わったように思います」


「義姉上の判断のおかげですね」


「いいえ。エリアス殿下のご協力がなければ、あの場を収めることはできませんでした」


 エリアスの琥珀色の瞳が、わずかに細められる。


「では、私たちはなかなか良い連携ができたということでしょうか」


 冗談めかした口調だった。

 だが、その言葉には、少しだけ距離を詰める響きがある。

 イネスは静かに答えた。


「同じく孤児院の運営に関わるお立場として、ご助力いただいたものと受け止めております」


 あくまで公的に。失礼のない距離で。

 エリアスは一瞬黙り、それから楽しそうに笑った。


「そうですね」


***


 王宮へ戻ると、イネスはその足でルシウスの執務室へ向かった。

 机上には孤児院の帳簿や搬入記録が積まれている。

 ルシウスは鋭い目で報告書へ目を通していた。


「戻ったか」


「はい」


 イネスは孤児院で見たことを簡潔に報告した。

 子どもたちは昨日より少し落ち着いていたこと。

 そして、子どもたちがリーナを求めていたこと。


「彼女は、子どもたちにとって数少ない味方だったのかもしれません」


「戻したいのか」


「可能であれば」


 ルシウスはすぐには答えなかった。

 リーナも処分の対象だ。それは彼も分かっている。


「ただ戻すのではなく、王宮側の監督下に置くのはいかがでしょうか」


 イネスは、エリアスから聞いた案を簡潔に伝えた。

 そして、最後に少しだけ迷って付け加える。


「マルグリット夫人と……エリアス殿下とも、そのように話しました」


 ルシウスの表情が、わずかに曇る。


「また来ていたのか」


「はい。昨夜、部下を置かれていましたので。引き継ぎと報告を受けに」


 理由としては何も問題はない。

 だからこそ、ルシウスもそれ以上は問い詰めなかった。


「……リーナについては許可する。ただし、護衛と王宮女官をつける。孤児院内での単独行動は禁止だ」


「ありがとうございます」


「正式な処分が下るまでの間、王宮監督下で子どもたちの世話を命じる。給金は出さない。逃げることも、他の職員と接触することも許さない」


「はい」


「手配はこちらで出す」


 ルシウスは書類へ視線を戻した。


「君はもう休め」


「ですが」


「昨日も眠れなかっただろう」


 その一言に、イネスは言葉を失った。

 昨夜の抱擁と、髪を撫でる手つきがよみがえる。


「……それは」


「それとも」


 ルシウスが顔を上げる。


「私がいないと休めないか?」


 からかうような声だった。

 けれど目の奥には、こちらの疲れを測るような色がある。

 イネスは一瞬返答に詰まり、それから背筋を伸ばした。


「いえ。問題ありません」


「そうか。なら、今のうちに休んでおけ」


「……承知しました。リーナの件、お願いいたします」


「ああ」


 イネスは静かに一礼し、執務室を後にした。


***


 その日の夜、リーナは王宮女官と護衛に付き添われ、再び王立孤児院へ戻った。


 門をくぐる時、リーナは一度足を止めた。

 自分が声を上げなかったせいで、子どもたちは傷ついた。

 ここに戻れば、その事実を突きつけられ続ける。


 隣に立つ王宮女官が、静かに告げる。


「この場所に戻ると決めたなら、今度は子どもたちを守る覚悟をしてください」

それが、あなたにできる唯一の償いです」


 リーナは唇を噛み、やがて頷いた。


「……はい。必ず」


 子どもたちのいる部屋の前で、彼女はもう一度立ち止まる。

 合わせる顔などない。それでも、逃げてはいけない。


 扉が開かれると、中にいた子どもたちが一斉に顔を上げた。

 誰かが小さくつぶやく。


「……リーナ先生?」


 リーナの目が揺れる。

 責める響きはなかった。だからこそ、余計に胸が痛んだ。

 リーナは扉のそばで深く頭を下げる。


「……戻りました」


 年少の少女が、おずおずと近づいてくる。

 小さな手が、リーナの服の裾を掴んだ。


「……もう、いなくならない?」


 リーナの顔がくしゃりと歪む。


「……うん」


 膝をつき、少女の目線に合わせる。

 涙が頬を伝った。


「今度は、ちゃんと守るから」


 少女は何も言わず、リーナの服を掴んでいた。

 リーナはその小さな体を、たしかに抱き寄せた。


 事件はまだ終わっていない。

 子どもたちの傷も、すぐには癒えない。

 それでも昨日より、ほんの少しだけ空気は変わっていた。

 約束を守る大人がいると、知ったからかもしれない。

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