NO.18 背中を撫でる手
現在、2026年5月13日までに書いた全16話を、20話構成で読みやすく修整中です!そこまで読んでくださった皆様は、21話からが続きになりますのでよろしくお願いいたします!
21話以降は、5月中に載せられるよう、鋭意製作中です!引き続きよろしくお願いいたします!
馬車の扉が閉まると、外の声が一段遠のいた。
孤児院の門前に残る人影も、車輪が動き出すにつれて少しずつ後ろへ流れていく。
けれどイネスの胸には、まだあの部屋の空気が残っていた。
イネスは膝の上で、そっと指先を握っていた。
向かい合って座るイネスとルシウスの間には、車輪の音だけが規則正しく流れている。
窓の外では、夕暮れの名残が少しずつ夜へ変わりはじめていた。
「初めて一人で出た公務が、ずいぶんなものになったな」
先に口を開いたのは、ルシウスだった。
今日一日の重さを確かめるような声音。
イネスは膝の上で重ねた手元へ視線を落とす。
「……そうですね」
短く返した声には、わずかな疲労が滲んでいた。
「よくやった」
不意に落とされた言葉に、イネスは一瞬だけ顔を上げる。
「ありがとうございます」
イネスは静かに答える。
けれどすぐに、また視線を落とした。
「ですが……まだ何も終わっておりません」
「分かっている。明日からはこちらで動く」
ルシウスの返答は短かった。
けれど、その声に迷いはなかった。
イネスは小さく頷く。
孤児院に残してきた子どもたちの顔が、まぶたの裏に浮かんだ。
今夜、あの子たちは眠れるだろうか。
少なくとも、職員を子どもたちから切り離したことは間違いではなかった。
エリアスの部下に一時的な世話を任せたことも、あの場では最善だったはずだ。
そう思う。
思うのに、胸の奥には小さな引っかかりが残っていた。
――気をつけろ。
今朝、ルシウスにそう言われたばかりだった。
第二皇子には不用意に近づくな、と。
それなのに結果として、イネスは彼の手を借りることになった。
子どもたちを守るために必要だったとはいえ、その事実だけは消えない。
しばらく黙っていたあと、イネスは静かに切り出した。
「……申し訳ございません」
自分でも少し意外なほど、自然に謝罪の言葉が出ていた。
ルシウスがイネスを責めたわけではない。
それでも、彼の忠告を思い出せば、その言葉以外がすぐには見つからなかった。
「何のことだ」
ルシウスの声は低かったが、責める響きはなかった。
イネスは一度だけ息を整え、静かに答える。
「エリアス殿下のお力を借りてしまいました」
ルシウスは一瞬、口を閉ざした。
それから、短く息を吐く。
「君が呼んだわけではないだろう」
「ですが、助けられました」
エリアスがいたから、子どもたちを職員から切り離すのも、その後の世話を整えるのも早かった。
調査の手配も進んだ。
あの場では、彼の力が必要だった。
ルシウスもそれを分かっているのだろう。
だからこそ、苦い顔をした。
「分かっている。あいつがいたおかげで、対応が早かったのも事実だ」
認める声は低い。
その事実を否定できないこと自体が、気に食わないという響きだった。
ルシウスは窓の外へ一度視線を逃がす。
「だから余計に、面白くない」
その声には、どうしても否定できない事実への苦さが滲んでいた。
イネスはすぐには返せなかった。
「この件を理由に、君へ近づく口実を与えてしまった」
「私は、必要な範囲でしか関わるつもりはありません」
「君がそうでも、あいつがそうとは限らない」
低い声だった。
それが、第一皇子妃として第二皇子に借りを作ることへの警戒なのか。
それとも、イネス自身がエリアスと距離を縮めることを嫌がっているのか。
そこまで考えて、イネスはすぐに否定した。
ありえない。
この結婚は、そういうものではない。
好きになったら離婚する。余計な感情を持ち込まない。
そう決めたのは、ルシウス自身だ。
ならば、これは第一皇子としての忠告だ。
王宮での貸し借りは、ただの厚意では済まない。第二皇子の助力を受けた以上、警戒するのは当然だった。
けれど。
先ほどの低い声には、それだけでは片づけられない何かが混じっていたようにも聞こえた。
「気をつけろ」
その言葉が何に向けられたものなのか、イネスにはまだ分からない。だがその意味を聞いてはいけないような気がした。
「……承知しました」
イネスがそう答えたきり、会話は途切れた。
問い返せなかった言葉だけが胸の奥に残ったまま、馬車の中には再び静けさが戻る。
馬車は静かに揺れ続けている。
張り詰めていたものが少しずつ緩んでいくにつれ、イネスの瞼が重くなっていった。
眠るつもりはなかった。
王宮へ戻れば、報告も、明日以降の手配も、考えなければならないことはいくらでもある。
それでも、初めて一人で臨んだトラブル続きの公務が、今になって重く身体にのしかかってきた。
ふ、と意識が遠のく。
やがて、彼女の肩がゆっくりと傾き、膝の上に重ねていた手からわずかに力が抜ける。
向かいに座るルシウスは、しばらく黙ってその様子を見ていた。
起こすことも、声をかけることもしない。
馬車が小さく揺れ、イネスの肩が窓枠へ触れる。
張り詰めていた表情は少しだけほどけていたが、眉間には消えきらない影が残っていた。
ルシウスは静かに息を吐くと、自分の外套を脱いだ。
そして向かいの席へ身を乗り出し、眠るイネスの肩へそっと掛ける。
触れれば起こしてしまいそうで、指先に細心の注意をはらう。
ルシウスはすぐに身を引き、再び席へ戻る。
それから暗い窓の向こうへ視線を向けた。
孤児院の不正は、必ず暴く。
子どもたちを傷つけた者も、王家の名を利用した者も、逃がすつもりはない。
ただ、それとは別に。
この件を口実に、エリアスがイネスのそばへ入り込むことだけは、見過ごすつもりがなかった。
ルシウスはもう一度だけ、眠るイネスへ視線を戻した。
外套がずれていないことを確かめると、何も言わず、窓の外へ目を戻した。
***
王宮へ戻ったあとも、後処理はすぐに終わらなかった。
孤児院から届いた報告をもとに、監察官や財務官、記録係が次々と呼び出される。
会議と確認が終わる頃には、すでに夜も更けていた。
イネスは、湯浴みを済ませいつも通り支度をすると主寝室に向かった。
ルシウスはまだいない。
きっと確認作業に追われていたのだろう。
燭台の火が、壁にやわらかな影を落としている。
イネスは寝台へ腰を下ろしても、横になる気になれなかった。
どれほど時間が経ったのか分からない。
やがて、扉が静かに開き、ルシウスがあらわれた。
いつもより少しだけ瞳が疲れて見える。
部屋へ入ってきた彼は、寝台の上で起きているイネスを見て、わずかに眉を動かした。
「まだ寝ていなかったのか」
低い声だった。
イネスは小さく視線を落とした。
「……眠れなくて」
ルシウスはしばらく彼女を見ていた。
それから、何も言わずに寝台のそばへ歩いてくる。
「明日も忙しい。早く休め」
「はい」
返事はした。
けれど、身体は動かなかった。
ルシウスはそれ以上続けず、寝台へ上がった。
彼は、いつものようにイネスに触れることはせず、そのまま横になる。
もちろん、イネスも今日は、そんな気分ではなかった。
それなのに。
胸の奥が、ひどく静かで、寂しかった。
イネスは隣で横になったルシウスを見下ろした。
燭台の淡い光に、彼の銀髪が鈍く光っている。
この静かな夜に、ひとりで目を閉じるのが少しだけ怖かった。
誰かの温度が恋しかった。
イネスは膝の上で、そっと指先を握る。
「……殿下」
気づけば、声をかけていた。
ルシウスが目を開ける。
「何だ」
イネスは言葉を探した。
けれど、探した言葉はどれも形にならない。
少しだけ唇を結んだあと、ようやく小さく言った。
「……少しだけ」
そこまで言って、言葉が途切れた。
触れてほしいのか。
慰めてほしいのか。
自分でも上手くわからない。
「……いえ。何でもありません」
イネスは視線をふせた。
ルシウスはしばらくイネスを見つめた後、静かに彼女の名前を呼んだ。
「イネス」
その声音があまりに優しく、イネスはゆっくりと彼を見た。
ルシウスは身を起こし、紺の瞳がまっすぐイネスに向く。
「こちらへ」
短く言って両手を差し出す。
イネスは一瞬だけ迷った。けれど、ゆっくりと彼の方へ近づく。
ルシウスは包み込むように、イネスを抱き寄せた。
眠れない子どもをあやすような、穏やかな手つき。
彼の胸元へ頭を寄せられ、黒髪に大きな手が触れる。髪を梳くように、そっと。
それから背中へ手が回り、一定のリズムで撫でられた。
イネスの身体は、最初こわばっていた。人にこんなふうに抱きしめられることに慣れていない。
まして、慰められることには、もっと慣れていなかった。
けれどルシウスはゆっくりと。何度も。イネスの背を撫でていた。
その手のひらの動きに合わせるように、イネスの呼吸が少しずつほどけていく。
「孤児院のことか」
静かな声が頭上から落ちた。
イネスはためらうように口を開く。
「……子どもたちの顔が、離れません」
ぽつりと零れた声は、思ったより頼りなかった。
「そうか」
「もっと早くに気づけていたら……」
イネスは目を伏せる。
「今夜は考えるな」
ルシウスの声は少しだけ強かった。
彼の手が、また黒髪を撫でる。ゆっくりと、繰り返し。
やがて彼は、イネスの髪にそっと口づけた。次に、額へ。そして頬へ。
イネスは目を閉じる。
最後に、ルシウスの指が彼女の顎へ触れた。そっと上を向かされ、唇が重なる。
いつものように深く奪うものではない。
静かで、やわらかい。優しいキスだった。
イネスの肩から、ほんの少し力が抜ける。
胸の奥に残っていた冷たいものが、ゆっくりとほどけていく。
唇が離れると、ルシウスは彼女の顔を近くで見た。
「少しは落ち着いたか」
「……はい」
答える声は、小さかった。けれど、さっきより少しだけ呼吸が楽だった。
「なら、眠れ」
そう言って、ルシウスはイネスの背に回していた腕をゆっくりと動かした。
支えるようにして、彼女の身体を寝台へ横たえる。
イネスはされるがまま、白い布の上に身を沈めた。
疲れているはずなのに、力の抜き方を忘れてしまったように、肩だけがまだ少し強張っている。
ルシウスはそれに気づいたのか、片手で乱れた黒髪を枕の上へ逃がし、もう片方の手で掛布を引き上げた。
その仕草は、驚くほど静かだった。
イネスは、ぼんやりと彼を見上げる。
「……ありがとうございます」
「ああ。おやすみイネス」
「おやすみなさい」
ルシウスの手は、眠れない子をあやすように髪を撫で続けている。
やがて、イネスの呼吸が静かに深くなる。
ルシウスは腕の中で眠りに落ちた彼女を、しばらく見下ろしていた。
誰かを慰めたいなどと思ったのは、初めてだった。
その感情の名を、ルシウスはまだ知らない。
知らないまま、彼はもう一度、イネスの黒髪をゆっくりと撫でる。
その手は、彼女が完全に眠りに落ちてからも、しばらく止まらなかった。




