NO.17 ルシウスとエリアス
現在、2026年5月13日までに書いた全16話を、20話構成で読みやすく修整中です!そこまで読んでくださった皆様は、21話からが続きになりますのでよろしくお願いいたします!
21話以降は、5月中に載せられるよう、鋭意製作中です!引き続きよろしくお願いいたします!
王宮の紋章を掲げた馬車からルシウスが降り立つと、孤児院の前にいた者たちは一斉に姿勢を正した。
エリアスの従者たちまでもが姿勢を正し、その場の空気がはっきりと第一皇子のものへ変わる。
ルシウス・アルヴェイン。
夕暮れの薄い光の中でも、その姿ははっきりと目を引いた。
銀の髪は冷たく淡く光り、紺の瞳は沈んだ夜のように静かだった。
ルシウスは周囲へ目もくれず、まっすぐにイネスの方へむかってくる。
イネスは静かに一礼する。
「殿下」
「無事か」
挨拶より先に落ちた問いだった。
「私は問題ありません」
その答えに、ルシウスの紺の瞳がわずかに細くなる。
私は。
その一言だけで、彼は全てを理解する。
子供たちはそうではないと。
「兄上。まさか直接いらっしゃるとは」
エリアスが、いつもの柔らかな声で言った。
ルシウスはようやく弟へ視線を向ける。
「妻の慰問先で問題が起きたと聞いた」
「ええ。少々、見過ごせない状況でした」
エリアスは穏やかに微笑んでいる。けれど、その琥珀色の瞳の奥には、いつもの軽さだけではない冷えた怒りがあった。
ルシウスは、それを見逃さなかった。
エリアスがこの件そのものに腹を立てていることは分かる。王家の名で守るべき孤児院で、子どもたちが傷つけられていた。それを面白がるほど、弟も腐ってはいない。
だが、それとこれとは別だった。
エリアスが、イネスのそばにいた。
その事実が、まず面白くなかった。
「中で聞く」
ルシウスは短く言った。
***
孤児院内の応接室には、急ぎ椅子が用意された。
部屋にいるのは、ルシウス、イネス、エリアス、マルグリット夫人、そして護衛隊長のオスカーだけだった。
イネスは背筋を伸ばし、手短に報告を始めた。
子どもたちに複数の痣があったこと。職員たちの証言には食い違いがあり、若い職員リーナからは、暴力と寄付品の不正流用を示す証言を得たこと。
ただし、証言だけでは足りない。
帳簿は押さえているが、内容が正しいとは限らない。搬入量と現物に差がある以上、搬入記録や納品元まで確認する必要があった。
ルシウスは黙って聞いていた。
その顔から、余計な表情が消えていく。
イネスは少しだけ言葉を切った。そして、静かに続ける。
「それから……私の判断で、院長と職員たちには帰宅を命じました。今夜、子どもたちを任せることはできないと判断したためです」
ルシウスの視線が、イネスへ戻る。
「証言した職員リーナの身柄も、王宮側で保護するよう手配をお願いしました。彼女が他の職員に接触される危険があると考えたためです」
そこまで言って、イネスはほんのわずかに息を整えた。
現場では迷わず動いた。子どもたちを職員から切り離すことが、最優先だと思ったからだ。
けれど、第一皇子妃として、どこまで踏み込んでよかったのか。その線引きは、まだイネス自身にも測りきれていなかった。
「……問題がありましたでしょうか」
問いは静かだった。だが、その声の奥には、わずかな緊張が滲んでいた。
ルシウスは即答する。
「いや」
短く、迷いのない声だった。
「十分だ。それが最善だった」
イネスは一瞬だけ目を見開いた。
ただ、彼女の判断を認める言葉。
イネスの肩から、ほんのわずかに力が抜ける。
自分でも気づかないほど小さな変化だったが、ルシウスはそれを見ていた。
「職員を残せば、子どもたちに何をするかわからない。リーナも危ない。君の判断は正しい」
「……ありがとうございます」
イネスは静かに頭を下げた。
エリアスは、そのやり取りを黙って見ていた。
ただ、兄が迷いなくイネスの判断を認めたことに、少しだけ興味深そうに目を細める。
「今夜の子どもたちの世話は、私の者が引き受けます」
エリアスが穏やかに言った。
「食事と寝床の確認は済ませています。医師の手配も」
ルシウスの目が、わずかに冷える。
「たまたま居合わせた弟の部下に任せるわけにはいかない」
エリアスは変わらず穏やかな口調で答える。
「居合わせたのは偶然ですが、私も孤児院支援には少し関わっています。今から人を入れ替えれば、ただでさえいつもと環境が変わった子供たちが落ち着けません」
その言葉は正しかった。何度も知らない大人が出入りすれば、子どもたちはまた緊張する。ようやく食事を取り、わずかに空気が緩んだところなのだ。
イネスは少し考えてから口を開いた。
「明日以降、王宮側から医師と監督を正式に加えるのはいかがでしょう。今夜は最低限の見守りに留め、子どもたちを休ませた方がよいかと」
ルシウスはイネスを見た。
エリアスの手を借りるのは癪だが、彼女の言っていることは正しい。
「……分かった」
ルシウスは短く答えた。
「今日の所はお前に任せる」
「もちろん。お任せください」
エリアスが静かに頷く。
二人はそれ以上、無駄に争うことはしなかった。
子どもたちのことに関しては、少なくとも今、火花を散らしている場合ではない。
「それから」
場が少し落ち着いたところで、エリアスが再度口を開く。
「納品元と搬入記録については、私の方でも確認を始めています」
ルシウスの視線が弟へ向く。
「いつからだ」
「実は、義姉上に聞く前から」
今度はイネスも少し驚いたように、エリアスの方に顔をむけた。ではあの時の確認は何だったのか。
あくまでも勝手に動いたように見えないためだけのやり取り。
「帳簿と現場の数が合わないと分かった時点で、放っておける話ではありませんでしたから」
「ずいぶん手が早いな」
ルシウスが低く言う。
「義姉上が一人で動いておられるところを、ただ眺めているわけにもいきませんから」
その言葉には、ルシウスがその場にいなかったことへの皮肉のようにも聞こえた。
ルシウスは一拍置き、短く命じる。
「調査結果は私にも回せ」
「もちろんです」
エリアスは穏やかに頷いた。
「これは王家の名で守るべき場所の話ですから」
その言葉に嘘はない。エリアスの怒りも本物だろう。
だが同時に、ルシウスには見えていた。
この件にかこつけて、エリアスはイネスとやり取りする名目を得た。調査、報告、確認、協力。
今後も近づく理由はいくらでも作れる。
それが、ひどく引っかかる。
ルシウスは、マルグリット夫人とオスカー、それからエリアス側の責任者から、今夜の体制を簡単に確認した。
残る者の配置、帳簿の保全、子どもたちの食事と寝床、リーナの保護。
すでに必要な手配は、イネスたちによって進められていた。
ルシウスはその内容を聞き、最後に「よろしく頼む」とだけ告げた。
***
確認が済んだあとも、イネスはまだ孤児院の奥を気にしていた。
「そろそろ帰るぞ」
ルシウスが言った。
イネスは一度だけ、廊下の奥へ視線を向ける。
「……そうですね」
言葉では答えた。けれど、すぐには足が動かなかった。
ルシウスはそれを見る。
「ここにいても仕方がない」
少し冷たく聞こえる声だった。イネスの瞳が、わずかに揺れる。
だが、ルシウスは続けた。
「我々は、事件を解決しなければならない。今夜ここに留まるより、王宮で動いた方が早い」
イネスは黙った。
子どもたちのそばにいることだけが、守ることではない。この先は、証拠を押さえ、関係者を調べ、正式に処分を下す段階に入る。
「妃殿下」
マルグリット夫人が静かに一礼した。
「本日はお戻りください。こちらには私どもがおります」
イネスは小さく息を吐いた。そして、ゆっくりと頷く。
「……そうですね」
ルシウスはそれ以上、何も言わなかった。
孤児院の外へ出ると、夕暮れはさらに深くなっていた。
空の端に残る橙色が、夜の青へ沈んでいく。
王宮の馬車が門前に待っていた。
イネスが馬車へ向かおうとした時、背後から声がかかる。
「義姉上」
エリアスだった。
イネスは振り返る。
「本日はお疲れ様でした」
「エリアス殿下も、ご協力感謝いたします」
その言葉に、ルシウスの眉がほんのわずかに動いた。
エリアス殿下。
その響きが、妙に耳に残る。
イネスは、ルシウスのことをいつもただ「殿下」と呼ぶ。名を呼ばれることは、ほとんどない。それが当たり前だったはずなのに。
弟の名が彼女の口から自然に出たことが、ひどく面白くなかった。
エリアスはそんな兄の表情を読み取ったのか、琥珀色の瞳にほんの少しだけ、満足げな余韻が浮かんだ。
「お気をつけてお帰りください」
エリアスは柔らかく微笑む。
そして、少し間を置いて付け足した。
「兄上も」
あくまでもルシウスをついで扱いするような態度。
それが癇に障る。
「これ以上、お前の手は煩わせない」
「そんな、いつでも力になりますよ」
エリアスは柔らかく微笑んだ。
二人の間に沈黙が落ちる。
イネスはそんな二人の沈黙を破るように、エリアスへ静かに一礼した。
「では、私たちはこれで失礼いたします」
「ええ。お気をつけて」
何事もなかったように、先程とおなじ柔らかな声が帰ってくる。
ルシウスは何も言わずに先に踵を返した。
イネスも後に続くように隣へ並ぶ。
馬車の前で、ルシウスが差し出した手を借り、馬車へ乗り込む。
続いてルシウスも乗り込むと、扉が閉められた。
車輪がゆっくりと動き出す。
孤児院の門が、窓の向こうで少しずつ遠ざかっていった。




