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女遊び好きな皇子に契約結婚を申し込まれましたが、お互い好きになったら離婚だそうです  作者: 春野スミレ


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NO.16 初夏の馬場

 王立孤児院の件は、王宮主導の正式な調査へ移っていた。

 職員たちへの聞き取りや帳簿の精査は、まだ終わっていない。


 それでも、王宮の時間は止まらない。

 孤児院の調査が進む一方で、次の公務予定もまた、当然のようにイネスの前へ差し出された。


***


 ルシウスの執務室には、いつものように紙とインクの匂いが満ちていた。


 机上には、孤児院関連の報告書が積まれている。

 その横には、別の封蝋が押された書状が数通。


 王宮という場所は、どれほど大きな事件が起きても、次の用件を待ってはくれないらしい。


 イネスは、ルシウスの向かいに座り、報告書へ目を通していた。

 そこへ侍従が入室し、一礼する。


「第一皇子殿下、妃殿下。数日後に行われる王都近郊の乗馬大会について、出席の確認が届いております」


 侍従から書状を受け取ると、ルシウスはそれに視線を落とした。


「乗馬大会か」


 短く呟いたあと、ふと思い出したようにイネスを見る。


「そういえば、君は馬が得意だったな」


 イネスは一拍置いて答える。


「得意というほどではありません」


「春の馬場で見た限り、十分だったと思うが」


 イネスは少しだけ瞬きをした。


「……よく覚えていらっしゃいますね」


「印象に残っている」


 ルシウスはそれだけ言って、書状へ視線を戻した。


 濃紺の乗馬服に身を包み、高く結われた黒髪を風に揺らしながら、馬場へ颯爽と現れた姿を思い出す。

 

 王宮へ来てからのイネスは、いつも美しいドレスに身を包んでいた。

 それはそれで良い。

 だが、もう一度彼女の乗馬服姿をみるのも悪くないと思った。


「出席するか」


 ルシウスが短く告げると、侍従は一礼した。


「かしこまりました」


 侍従が退出すると、室内にはふたたび静けさが戻った。

 イネスは手元の報告書を閉じ、少しだけ迷うように口を開く。


「この状況で、華やかな催しに出てもよろしいのでしょうか」


 ルシウスは顔を上げる。


「孤児院の件か」


「はい。調査はまだ終わっておりませんし」


「事件があるたびに公務を止めれば、王宮は機能しない」


 イネスは黙って聞いていた。その理屈は分かる。

 ひとつの事件だけにかかりきりになるわけにはいかない。


 ルシウスは、少しだけ声を和らげて続けた。


「それに、君には少し外の空気が必要だ」


 イネスは目を上げた。


「私のためですか」


「馬の前では、少しは表情が変わるかと思ってな」


「……そうでしょうか」


「ああ」


 ルシウスは、からかうように目を細めた。


「君は隠しているつもりでも、案外分かりやすいところがある」


「……そう、でしょうか」


 重く沈みかけていた空気が、ほんの少しだけほどけた。


 王都近郊の乗馬大会。公務としての出席。

 そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥に、ほんの小さな灯りがともるのを否定できなかった。


***


 それから数日後、迎えた乗馬大会当日の朝。

 王宮の庭には、初夏の陽射しが明るく落ちていた。


 イネスの部屋では、朝から侍女たちが支度に追われていた。

 用意された乗馬服は、初夏の若葉を思わせる落ち着いた緑だった。

 鮮やかすぎず、暗すぎない。光の加減で翡翠のような艶を帯びている。


 王宮で着るドレスとはまるで違う。

 身体の動きを妨げず、上着の線はすっきりとしていて、袖口や襟元には控えめな刺繍だけが施されていた。


 イネスは袖を通した瞬間、懐かしい感覚を覚えた。

 侍女が黒髪を高い位置でまとめていく。


 鏡の中の自分は、第一皇子妃として王宮に立つ姿より、少しだけ昔の自分に近いように見えた。


「妃殿下は、乗馬がお得意なのですね」


 侍女の一人が、髪飾りを整えながら言った。


「少し乗れる程度ですよ」


 侍女は楽しげに微笑んだ。


「それでも、楽しみですね」


 その言葉に、胸の奥がほんの少しだけ軽くなる。


「……ええ」


 短く答えた声は、自分で思ったよりも柔らかかった。

 侍女たちは顔を見合わせ、微笑みを深くした。


 やがて支度が整った頃、扉が控えめに叩かれる。


「妃殿下。第一皇子殿下がお迎えにいらしております」


「お通しして」


 扉が開いた。


 姿を見せたルシウスは、いつもの礼装よりいくらか軽やかな装いだった。

 襟元や袖口には控えめな装飾が施されているものの、馬場へ向かうためか、全体の仕立てはすっきりとしている。


 銀の髪は淡く光を受け、紺の瞳がまっすぐイネスを捉える。

 その視線が、一瞬だけ止まった。


 初夏の若葉を思わせる緑の乗馬服。

 高く結われた黒髪。

 すっきりと出た首筋。


 ルシウスは、春の馬場で初めて見たイネスの姿をふと思い出す。


 あの時の濃紺の乗馬服もよく似合っていた。

 だが、初夏の光を受けるこの緑も悪くない。

 黒髪と白い肌、翡翠の瞳を静かに引き立てている。


 イネス本人は、いつも通りに振る舞っているつもりなのだろう。

 表情は落ち着いている。

 けれど、その翡翠の瞳の奥に、ほんのわずかな嬉しさが見えた。


 乗馬大会を、楽しみにしている。


 そんな彼女の変化に気づけるようになったのは、いつからだろう。


「……何かおかしいでしょうか」


 イネスが静かに尋ねる。

 ルシウスは我に返ったように、わずかに目を細めた。


「いや」


 少し間を置く。


「よく似合っている」


 イネスは一礼した。


「ありがとうございます」


 返事はいつも通りだった。

 けれど、その声にもほんの少しだけ、柔らかな響きがあった。


 ルシウスはそれ以上何も言わなかった。

 ただ、視線を外すのが少しだけ遅れた。


「行くぞ」


「はい」


 短いやり取りのあと、二人は並んで部屋を出る。

 王宮の廊下には、初夏の明るい光が差し込んでいた。


***


 馬車は王都近郊の馬場へ向かって進んでいた。

 窓の外には、初夏の緑が流れていく。


 陽を受けた木々は青々と葉を茂らせ、街道の脇には草が明るく揺れていた。

 春のやわらかさとは違う、少し濃くなった季節の匂いがある。


 イネスは窓の外を見ていた。

 背筋は伸び、表情は落ち着いている。

 けれど、その意識がすでに馬場へ向いていることは、ルシウスにも分かった。


「楽しみか」


 ルシウスが問うと、イネスは少しだけ間を置いた。


「……少し」


 その返事に、ルシウスの口元がわずかに緩む。


「少し?乗馬服を用意させておいてか?」


「せっかくの機会ですし」


 涼しい顔で答える。けれど、窓の外へ向けられた翡翠の瞳は、いつもより少し柔らかい。

 ルシウスはそれ以上からかわなかった。


「あまり無茶はするな」


「はい」


 イネスは素直に頷いた。

 馬車の中には、それきり静かな時間が流れた。

 窓の外を流れる緑が、少しずつ王宮の空気を遠ざけていく。


 イネスは何も言わず、その景色を見つめていた。

 ルシウスは、そんな彼女の横顔を静かに見ていた。


***


 王都近郊の馬場は、初夏の陽射しに明るく照らされていた。

 広く開けた草地の向こうに、整えられた馬場がある。


 土は軽く踏みならされ、周囲には色とりどりの天幕が張られていた。貴族たちのための観覧席、商人たちが品を並べる小さな区画、従者たちが馬を休ませるための木陰。


 どこからか、乾いた土と青い草の匂いが風に乗ってくる。

 馬のいななき。蹄が地面を叩く音。手綱の金具が触れ合うかすかな音。

 王宮の石壁に囲まれた日々とは、まるで違う空気だった。


 馬車が止まり、扉が開かれる。

 先に降りたルシウスが手を差し出すと、イネスはその手に自分の指を重ねた。


 地面へ足を下ろした瞬間、風が乗馬服の裾を軽く揺らした。

 高く結った黒髪の先が、肩の後ろでわずかに動く。


「第一皇子殿下」


 主催者が足早に近づき、深く一礼する。


「本日はお越しいただき、誠に光栄にございます。妃殿下も、ようこそおいでくださいました」


「招待に感謝する」


 ルシウスは穏やかに応じた。

 その隣で、イネスも静かに膝を折る。


「本日はお招きいただきありがとうございます」


 主催者は顔を上げ、イネスの乗馬服姿に一瞬だけ目を留めた。


「妃殿下は、乗馬もなさるのですね」


「少しだけ」


 イネスが控えめに答えると、周囲にいた貴族たちが小さくざわめいた。


「第一皇子殿下と妃殿下だわ」

「妃殿下も乗馬服でいらしているのね」

「まあ、お似合いですね」

「今日は乗りになるのかしら」


 扇の陰で囁かれる声。

 好奇と羨望と、少しの値踏み。

 イネスはそれらを聞き流し、主催者の挨拶に落ち着いて応じた。


 やがて、競技の準備が始まった。

 騎手たちが馬を整え、旗が高く掲げられる。


 観覧席にいた人々も少しずつ身を乗り出した。

 イネスの視線が、自然と馬場へ向く。


 王宮で張っていた糸が、馬場の風に触れてわずかに緩んでいる。


 ルシウスは、その横顔を見ていた。

 もし、ベルフォール領のあの日に戻ったとして。

 あの時の自分は、今のこの表情に気づいただろうか。


 おそらく、気づかなかった。気づこうともしなかった。

 彼女が何に目を向けるのか。何に心を動かすのか。


 今は自然に考えてしまう。そのことに気づいて、ルシウスは少しだけ目を細めた。

 競技開始の合図の鐘が鳴ろうとした、その時だった。


「殿下」


 侍従が近づき、控えめに声をかける。

 ルシウスは馬場から視線を外さずに問う。


「何だ」


「第二皇子殿下がご到着されました」


 その瞬間、ルシウスの目がほんのわずかに冷えた。

 イネスも振り返る。


 初夏の陽射しを受けた天幕の向こう。

 淡い金髪の青年が、こちらへ歩いてくるところだった。


 柔らかな笑み。読めない琥珀色の瞳。

 周囲のざわめきさえ、彼の歩みに合わせて少し色を変える。

 エリアスが、馬場へ現れた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます!

物語はここで一度区切りとし、少しの間お休みします。

続きは今月末くらいから、また上げていけたらいいなと思っています。

再開したら、またイネスとルシウスたちの続きを見守っていただけると嬉しいです!

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