NO.16 リーナの証言
現在、2026年5月13日までに書いた全16話を、20話構成で読みやすく修整中です!そこまで読んでくださった皆様は、21話からが続きになりますのでよろしくお願いいたします!
21話以降は、5月中に載せられるよう、鋭意製作中です!引き続きよろしくお願いいたします!
職員たちへの聞き取りを終える頃には、談話室の空気はさらに重く沈んでいた。
院長は何度も額の汗を拭い、職員たちは互いに視線を避けている。誰もが、自分に不利なことだけは口にすまいとしているようだった。
だが、イネスはまだ結論を出さなかった。
子どもたちが移された別室へ向かう。扉を開けると、小さな気配が一斉にこちらを向いた。
広めの部屋に、子どもたちが集められている。椅子に座る子。壁際で膝を抱える子。与えられた毛布を握りしめ、顔を伏せたままの子。
職員たちはいない。
それでも、子どもたちはまだ周囲をうかがっていた。
その沈黙の重さに、イネスは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
泣かないのではない。
泣くことさえ、もう諦めているのだ。
イネスは部屋の中央まで進み、膝を折った。
「今すぐ、全部を話さなくていいわ」
子どもたちが、そっと顔を上げる。
「怖いなら、黙っていてもいい。話したくないことを、無理に言わなくていい。でも、痛かったことを、なかったことにしなくていいの」
年長の少女が唇を噛んだ。
小さな男の子が、毛布を握る手に力を込める。
今日一日で心を開かせることなどできない。
それでも、ここで何も言わずに離れることはできなかった。
イネスは立ち上がり、侍女たちへ告げる。
「温かい飲み物と軽い食事を。食べられる子だけで構いません。怪我の記録も一人ずつ。怖がらせないように」
「かしこまりました」
侍女たちが深く頭を下げる。
部屋の奥で、ノエが小さく顔を上げた。
何かを言いたそうに唇が動く。
けれど、声にはならない。
イネスは、ほんの少しだけ頷いてみせた。
今はそれでいい。
沈黙の中にも、確かに変化はあった。
***
談話室へ戻ると、院長と職員たちは一斉にこちらを見た。
不安と警戒が入り混じった目だった。
イネスは部屋の中央で足を止める。
「本日はもう、お帰りください」
院長が目を見開いた。
「妃殿下、それは……」
「院長、職員の皆さまには、本日この孤児院から離れていただきます」
職員たちの間にざわめきが走る。
「お待ちください」
「私どもは何も」
「子どもたちを置いて帰れとおっしゃるのですか」
院長も一歩前へ出た。
「正式な調査もないまま、私どもを追い出すような真似をなされば、施設の運営に支障が出ます」
「処分を決めるのは後です」
イネスは静かに言った。
「ですが、今夜このまま子どもたちを任せることはできません」
「では、子どもたちはどうするのですか」
その問いに答えたのは、エリアスだった。
「私の者を置きましょう」
場にそぐわないほど、穏やかな声だった。
「子どもの世話に慣れた者もおります。食事と寝床の準備程度なら問題ありません。医師も呼ばせます」
エリアスの力を借りる。
それは、この件に第二皇子の存在を深く入れるということでもある。
けれど、別室にいる子どもたちの顔が脳裏をよぎった。
今、優先すべきものは一つだった。
「お願いいたします」
イネスは静かに頭を下げる。
「ええ。お任せください」
エリアスの合図で、従者たちがすぐに動き出した。
食事、寝床、医師の手配。無駄のない動きだった。
第一皇子妃と第二皇子が同じ判断を示した以上、院長たちに抗う余地はない。
「オスカー」
イネスが呼ぶと、護衛隊長が一歩前へ出た。
「院長および職員全員の名と居所を確認してください。王宮から正式な呼び出しがあるまで、所在を明らかにしておくように」
「承知しました」
護衛たちが職員を一人ずつ確認し始める。
名、住所、連絡先。
職員たちは青ざめた顔で答えた。
院長が最後に退出しようとした時、エリアスがにこやかに声をかける。
「院長」
その肩が、びくりと揺れた。
「逃げることは考えないほうがいいですよ。罪が重くなりますから」
穏やかな声だった。
だが院長は、喉元に刃を当てられたように顔を強張らせる。
「後日、改めてお話を伺います」
院長と職員たちが護衛に促され、談話室を出ていく。
その流れの中で、マルグリット夫人が静かに動いた。
リーナが廊下へ向かおうとしたところで、そっと声をかける。
「あなたは少し、こちらへ」
周囲の職員たちは、自分たちのことで精一杯だった。
リーナだけが呼び止められたことに気づいた者はいない。
リーナは驚いたように顔を上げたが、抵抗はしなかった。
唇を引き結び、マルグリット夫人に従って小さな控室へ入っていった。
***
控室にいるのは、イネス、マルグリット夫人、記録係の侍女。 そしてリーナだけだった。
エリアスと護衛たちは外に控えている。
リーナは椅子に座ったものの、今にも逃げ出しそうなほど震えていた。
「リーナ」
イネスはできるだけ穏やかに呼んだ。
「ここで話したことを、他の職員へ伝えるつもりはありません。けれど、子どもたちを守るために必要なことなら、聞かせてください」
リーナはしばらく黙っていた。
やがて、かすれた声が落ちる。
「……私、止められませんでした」
その一言が出た瞬間、彼女の目が潤んだ。
リーナは震えながら話した。
暴力は以前からあったこと。
食事を減らされる罰や、物置に閉じ込められる罰があったこと。
寄付品は届いていたが、一部は子どもたちに渡る前に別の荷車へ積まれていたこと。
院長は知らないふりをして、止めなかったこと。
「私も、怖くて何も言えませんでした」
リーナは膝の上で指を握りしめる。
「ノエが閉じ込められた時も、少し食べ物を持っていくことしかできなくて……あの子たちを、守れませんでした」
小さな嗚咽が漏れた。
イネスはしばらく黙っていた。
責めることは簡単だった。
けれど、今リーナを責めても子どもたちは救われない。
「あなたが黙っていたことで、傷ついた子はいます」
リーナが息を詰める。
「はい……」
「その事実は消えません。けれど、今話してくれたことも消えません」
リーナがゆっくりと顔を上げる。
「今、話してくれたことを後悔させません」
リーナの顔が、くしゃりと歪んだ。
「これから正式な調査があります。その時も、今日と同じことを話せますか」
「はい。話します」
「なら、今夜は家には戻らないで。王宮側であなたの身を保護します」
リーナは目を見開いた。
「私の……?」
「あなたが話したことを、他の職員が知れば危険です」
マルグリット夫人が静かに頷く。
「こちらで手配いたします」
リーナはもう一度、深く頭を下げた。
肩はまだ震えていたが、最初に部屋へ入ってきた時より、ほんの少しだけ呼吸が深くなっていた。
***
リーナの証言で、疑いはほとんど輪郭を持ちはじめていた。
だが、まだ証言だけだ。
確実な証拠を押さえなければ、処分は決められない。
談話室に戻ると、エリアスが窓際に立っていた。
夕方の光が淡い金髪を照らしている。
「何か聞けましたか」
「ええ。ですが、今は詳しく申し上げられません」
「もちろん」
エリアスは軽く頷いた。
「納品元と搬入記録はこちらで確認を始めてもよろしいですか?私の名で問い合わせれば、返答も早いでしょう」
また借りが増える。
そう思った。
けれど、証拠が動かされる前に押さえる必要がある。
「お願いいたします」
「ええ。任せてください」
イネスはマルグリット夫人へ向き直る。
「王宮へ正式な報告を。帳簿、搬入記録、納品元、出入りした荷車、食料と毛布と薬品の不足分。それから、院長および職員の関与を確認する必要があります」
「かしこまりました」
「リーナの身柄は保護を。子どもたちの診察記録も、医師に取らせてください」
「はい」
次々と決めていくうちに、イネスの心はむしろ静かになっていった。
怒りはある。
けれど、第一皇子妃という立場は、ただ美しく隣に立つためだけのものではない。
この立場だから、できることがある。
そう思った時、胸の奥に冷たく澄んだ覚悟が生まれた。
***
孤児院を出る前に、イネスはもう一度子どもたちの部屋を訪れた。
部屋には温かいスープとパンが用意され、先ほどより少しだけ空気が緩んでいる。
ノエは窓際の椅子に座っていた。
腕には布が巻かれている。
スープの器を両手で持っていたが、ほとんど減っていない。
イネスは少し離れたところで膝を折り、目線を合わせた。
「ノエ」
小さく呼ぶと、ノエの肩が揺れる。
「あの職員たちは、今夜ここへ戻りません」
ノエは黙ったまま、イネスを見る。
「明日からのことも、王宮で決めます。あなたたちが、また同じ思いをしないように」
小さな指が、器の縁をぎゅっと掴んだ。
「また来ます」
ノエの目が、わずかに大きくなる。
「……本当、ですか」
「ええ。約束します」
ノエはしばらくイネスを見つめていた。
やがて、ほんの小さく頷く。
それだけだった。
けれど、今はそれで十分だった。
***
孤児院の外へ出ると、空は夕暮れの色に染まり始めていた。
馬車の準備はすでに整っている。
マルグリット夫人は王宮への報告を急がせるため、先に侍女の一人を走らせていた。
「義姉上」
柔らかな声に呼び止められ、イネスは振り返った。
エリアスが夕暮れの光の中に立っていた。
淡い金髪が陽を含み、琥珀色の瞳はいつもより少し深く見える。
「今日はお疲れでしょう」
「エリアス殿下こそ、お力添えありがとうございました」
イネスは静かに礼をする。
「いえ。当然のことです。この国の皇子として、役に立ててよかった」
まっすぐな言葉だった。
けれど、やはりその瞳の奥は読み切れない。
「また何かあれば、いつでも」
「必要な時は、正式にお願い申し上げます」
イネスは距離を置いて返した。
エリアスは、その線引きさえ楽しむように目を細める。
「ええ。お待ちしています」
その声音に、少しだけ甘さが混じった。
イネスが馬車へ向かおうとした、その時だった。
遠くから車輪の音が聞こえた。
門の外、夕暮れに沈みかけた道の向こう。
王宮の紋章を掲げた馬車が、こちらへ近づいてくる。
イネスが足を止める。
エリアスもまた、ゆっくりと視線を向けた。
やがて馬車が孤児院の前で止まり、扉が開く。
降り立った銀髪の男を見た瞬間、周囲の空気が変わった。
***
数刻前。
王宮の執務室に、孤児院からの先触れが届いた。
「妃殿下が、慰問を中断されました」
侍従の報告に、ルシウスは手を止める。
「何があった」
「子どもへの暴力、および寄付品管理に不正の疑いがございます」
ルシウスの表情が消えた。
「イネスは」
「現地で確認を続けておいでです。マルグリット夫人と護衛も同行しております」
そこで、侍従が言い淀む。
ルシウスはその間を見逃さなかった。
「まだ何かあるな」
「……第二皇子殿下も、ご同席を」
その瞬間、紺の瞳が冷えた。
エリアス。
ルシウスは手にしていた書類を静かに置き、立ち上がる。
「馬車を用意しろ。孤児院へ向かう」




