NO.13 第二皇子エリアス
現在、2026年5月13日までに書いた全16話を、20話構成で読みやすく修整中です!そこまで読んでくださった皆様は、21話からが続きになりますのでよろしくお願いいたします!
21話以降は、5月中に載せられるよう、鋭意製作中です!引き続きよろしくお願いいたします!
朝食を終えたあとも、イネスの中にはどこか落ち着かない熱が残っていた。
昨夜の口づけ。
そして、こちらの動揺を見透かしたような、あのからかう目。
思い出した瞬間、イネスは手元の礼状へ視線を落としたまま、ほんのわずかに眉を寄せる。
別に、昨夜のことを気にしているわけではない。
自分はただ契約をまっとうしようとしただけ。
彼の持ち掛けた契約なのだから、決定権は彼にある。いちいち気にするだけ時間の無駄だ。
イネスはそう結論づけ、静かに息を整える。
目の前にあるのは、第二皇子への返礼である。
昨日決めた通り、返礼には東方産の紅茶を選んだ。
礼状も、親しげな言葉は避け、婚礼祝いへの礼と、公の場で改めて挨拶する旨だけを、過不足なく整える。
マルグリット夫人が確認を終え、静かに頷いた。
イネスも礼状へ目を通し、視線を上げる。
「では、こちらでお願いします」
「かしこまりました」
マルグリット夫人が合図をすると、控えていた女官が返礼の品と礼状を丁寧に受け取った。
これで、礼は尽くした。
距離もとった。はずだった。
***
昼を少し過ぎた頃、イネスは侍女を一人伴い、王宮の回廊を歩いていた。
庭園に面した回廊には、白い柱の間から陽光が差し込んでいる。
磨かれた床に淡い光が揺れ、外では新緑と噴水の音が風に混じっていた。
王宮の中でも、ここは比較的穏やかな場所だった。
イネスは整えられた庭園を眺めながら、静かに歩を進める。
「義姉上」
ふいに、柔らかな声がした。
イネスは足を止め、声のした方へ向き直る。
回廊の柱のそばに、一人の青年が立っていた。
淡い金の髪が、光を含んでやわらかく揺れている。
毛先はゆるく癖づき、整いすぎていない分、どこか親しみやすい。
琥珀色の瞳はやわらかく、笑うと人懐こい印象を与えた。
ルシウスのように切れ長で冷ややかな美貌ではない。
もっと明るく、柔らかい。
それでいて、立ち姿には王族らしい隙のなさがあった。
名を聞かずとも、誰なのかはすぐに分かった。
第二皇子。
エリアス・アルヴェイン。
エリアスは一歩近づくと、優雅に一礼した。
「お初にお目にかかります。エリアス・アルヴェインです。義姉上、とお呼びしても?」
義姉上。
事実上、彼との関係を考えれば間違いではない。
ただ、初めて会う相手にしては、親しげな呼び方だった。
イネスも静かに一礼する。
「イネス・アルヴェインにございます。第二皇子殿下」
エリアスは、少し寂しそうに眉を下げた。
「第二皇子殿下、ですか。少し寂しいですね」
「寂しい、ですか」
「ええ。兄上の妃なら、私にとっては義姉上でしょう。気軽にエリアスとお呼びください」
柔らかな声だった。
まるで拗ねた子どものような甘えた響き。
イネスは表情を崩さず答えた。
「いえ、そんな。畏れ多いことです。エリアス殿下と、そう呼ばせていただきます」
エリアスはにこりと笑う。
「では、今はそちらで我慢いたしましょう」
その笑みは人懐こい。
だが、その瞳の奥には、月下香の香りのように甘く妖しいものがあった。
イネスは静かに姿勢を正す。
「昨日は、婚礼祝いをありがとうございました」
「届いていましたか」
「はい。美しい香りを頂戴いたしました」
「お気に召したなら何よりです」
エリアスの琥珀色の瞳が、かすかに細められる。
「月下香は、夜になってから本当の香りを見せる花ですから」
その言い方には、やはり含みがあった。
イネスは昨日、マルグリット夫人から聞いた説明を思い出す。
夜に香りを強める花。
肌に長く残る香油。
恋文に添えられることもある香り。
この第二皇子が、その意味を知らずに贈ったとは思えなかった。
イネスは穏やかに微笑む。
「香りはとても好みでした。しばらくは、ひとりの時間に楽しませていただこうかと」
エリアスは楽しそうに首を傾けた。
「お一人で楽しまれるのですか?」
やわらかな声だった。
けれど、その一言は先ほどより少し深く踏み込んでいる。
イネスは一瞬だけ、昨夜のルシウスの声を思い出した。
使うなら、私と二人の時にしろ。
あの言葉を思い出しただけで、昨夜の熱まで戻りそうになる。
イネスはそれを表に出さず、静かに答えた。
「いいえ。ルシウス殿下と二人の時だけにいたします」
エリアスが、一瞬だけ目を丸くした。
それはほんの短い間だった。
すぐに彼は、ゆっくりと笑みを深める。
「……そうですね。それがよろしいかと」
声は穏やかだった。
けれど、その瞳の奥で何かが動いた気がした。
エリアスはイネスを見つめる。
人懐こく、柔らかく。
「兄上は昔から、華やかな香りに囲まれていらっしゃる方でしたから。ひとつの香りにこだわるとは、少し意外です」
ルシウスの浮き名のことを言っているのだろう。
しかしイネスは動じなかった。
「では、今は珍しい時期なのでしょう」
「珍しい時期?」
「少なくとも今は、私の香りを気になさっているようです。エリアス殿下よりいただいた品のおかげかもしれませんね」
エリアスの琥珀色の瞳が、またわずかに丸くなった。
庭園から吹き込む風が、回廊の白い柱の間を抜けていく。
イネスの黒髪が、肩先でわずかに揺れた。
エリアスは、その様子をじっと見ていた。
やがて、喉の奥で小さく笑う。
「……義姉上は、思っていたよりずっと面白い方ですね」
イネスは答えなかった。
ただ、微笑みを崩さない。
エリアスはその沈黙さえ楽しむように、琥珀色の瞳を細めた。
「兄上は、良い方を妃に迎えられたようだ」
「身に余るお言葉にございます」
エリアスはそこで、ふと思い出したように微笑んだ。
「そういえば、返礼にいただいたお茶ですが、大変良い香りでした」
「お気に召したのでしたら、何よりです」
「ええ。せっかくですから、このあとご一緒にいかがですか。いただいた茶を、義姉上と味わえれば嬉しいのですが」
あまりにも自然な誘いだった。
と同時に、気をつけろというルシウスの言葉を思い出す。
イネスは静かに微笑んだ。
「ありがたいお言葉ですが、このあとも予定がございますので」
「それは残念です。では、また今度」
「はい。ルシウス殿下とご一緒に伺わせていただきます」
エリアスの笑みが、ほんのわずかに止まった。
ほんの一瞬だけ。
「……ええ。ぜひお待ちしています」
柔らかな声だった。
けれど、琥珀色の瞳の奥に、楽しげな光がひとつ灯る。
「またお話しできるのを楽しみにしております、義姉上」
イネスは静かに一礼する。
「ええ。公の席にて」
その言葉に、エリアスの笑みがもう一度深くなった。
彼はそれ以上、イネスを引き留めなかった。
イネスは侍女を伴い、静かにその場を離れた。
***
イネスの姿が回廊の向こうへ消えたあとも、エリアスはしばらくその場に立っていた。
エリアスは小さく笑う。
思っていたより、ずっと面白い。
月下香を贈ったのは、もちろんただの祝意ではない。
兄がどんな顔をするか、少し見てみたかった。
突然現れた第一皇子妃が、あの香りをどう扱うのかも。
皇帝は病床にあり、王宮の空気は日ごとに変わりつつある。
そんな時に、兄は唐突に妃を迎えた。
直前まで女遊びをやめる気配などなかった男が、急にひとりの女だけを選ぶ。
それを愛だと信じるほど、エリアスは子どもではない。
おそらく、この婚姻には別の意味がある。
愛ではなく、契約のようなものが。
ならば、そこには隙がある。
そう思っていた。
けれど実際に会ってみれば、イネスは想像よりずっと面白かった。
艶やかな黒髪。
静かな翡翠の瞳。
皇子である自分を前にしても、怯えない。媚びない。
柔らかく距離を取りながら、こちらの言葉を受け流してみせる。
地方の伯爵家から来た令嬢だと聞いていた。
王宮の空気に呑まれ、少し近づけば容易く揺れるかと思っていた。
だが、違った。
女の心を傾けるのは、難しくない。
兄は、誰にでも惜しみなく甘さを与える。
だからこそ、あれほど華やかな浮き名が立つ。
けれど、エリアスはそうしない。
与えるのは、ほんの少しでいい。
次を待たせるだけの、わずかな甘さ。
それだけで、相手はいつの間にかこちらを探すようになる。
兄が迎えた新しい妃。
今は、その立場に静かに収まっているように見える。
だが、兄が再び他の女へ目を向けた時、果たしてあの落ち着きを保っていられるだろうか。
待てばいい。
焦らず、急がず。
相手が自分からこちらを向くまで、少しずつ道を狭めていけばいい。
兄の妃。
触れてはいけないもの。
そういうものほど、欲しくなる。
エリアスは琥珀色の瞳を細めた。
「……セシル」
名を呼ぶと、少し離れた場所に控えていた従者が音もなく近づいた。
「はい、殿下」
「第一皇子妃の公務予定を調べておけ」
「妃殿下の、でございますか」
「そう。兄上が同席しないものがいい」
セシルは一瞬だけ目を伏せたが、すぐに答えた。
「かしこまりました」
エリアスは楽しげに微笑む。
「なるべく早いものがいい」
「承知いたしました」
セシルが下がると、回廊にはふたたび庭園の風だけが戻った。
月下香を贈ったのは、兄への当てつけだった。
けれど、香りを受け取った女は、思っていたよりずっと面白い。
次は、もう少し長く話してみたい。
そう思っただけで、退屈だった王宮の午後が、少しだけ色を変えた。




