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女遊び好きな皇子に契約結婚を申し込まれましたが、お互い好きになったら離婚だそうです  作者: 春野スミレ


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NO.14  王立孤児院への慰問

現在、2026年5月13日までに書いた全16話を、20話構成で読みやすく修整中です!そこまで読んでくださった皆様は、21話からが続きになりますのでよろしくお願いいたします!

21話以降は、5月中に載せられるよう、鋭意製作中です!引き続きよろしくお願いいたします!

 その夜、イネスが寝室へ向かう支度を終えた頃、ルシウスが部屋を訪ねてきた。


 すでに日中の礼装は解いている。銀の髪はいつもよりわずかに乱れ、襟元もくつろいでいた。


 けれど、その目だけは妙に冷たく硬い。


「殿下」


 イネスが立ち上がろうとすると、ルシウスは軽く手で制した。


「そのままでいい」


 そう言って部屋へ入ってくる。

 燭台の火が、壁に淡い影を落としていた。ルシウスはイネスの前で足を止める。


「今日、エリアスと会ったそうだな」


 やはり、耳に入っていたらしい。

 王宮では、些細なことでもすぐ誰かの耳に届く。分かってはいたが、改めて思い知らされる。


「はい。回廊でご挨拶を受けました」


「何を話した」


「婚礼祝いのお礼を」


 ルシウスが、少しだけ目を細める。


「本当にそれだけか」


 声音は穏やかだった。

 けれど、問いの奥には明らかな硬さがあった。

 イネスは一拍置いてから、静かに答える。


「……お茶に誘われました」


 ルシウスの眉が、わずかに動いた。


「行ったのか」


「いいえ。お断りしました」


 短い沈黙が落ちる。

 怒っているのか。それとも、何かを考えているのか。イネスには、どちらとも判断がつかなかった。

 やがてルシウスは低く言う。


「今後、あいつのことは無視しても構わない」


 イネスは思わず瞬きをした。


「それは……体裁としても、あまりよろしくないかと」


 ルシウスは答えなかった。

 彼自身、それが無理な話だと分かっているのだろう。


 第一皇子妃が第二皇子を露骨に避ければ、それだけで余計な噂を生む。

 エリアスが何を考えていようと、礼を欠くことはできない。


 イネスは少し声を落とした。


「不用意に近づかないよう、注意いたします」


「……そうしろ」


 返答は短かったが、納得していないような声だった。


「何かあれば、私に話せ」


「承知しました」


 第一皇子妃として、第二皇子の行動を報告する。

 ただそれだけのはずだった。


 けれどルシウスの声には、ただの警戒とは少し違うものが混じっているように聞こえた。


 ふと、ルシウスの指先がイネスの黒髪をすくい上げる。

 その瞬間、昨夜の口づけがよみがえった。


 イネスは何事もなかったように目を伏せる。


「そろそろ、寝室へ?」


「ああ」


 ルシウスは短く答えた。


 けれど、その声はまだ低かった。


***


 月下香が届いた夜から、ルシウスは毎晩のようにイネスへ口づけるようになった。

 その翌日も、その次の夜も。


 燭台の火が落とされる前、彼は当然のようにイネスの髪へ触れ、頬へ触れ、唇を重ねた。


 触れるだけのキスではない。

 いつも途中で終われることの方が不思議なほど深く、熱を帯びている。


 けれど、彼は最後には必ず身を引いた。

 乱れた呼吸。

 熱を残した指先。

 抑え込まれたままの気配。


 それなのに、その先へは進まない。

 初夜の時、あれほど自分勝手に相手をしてもらうと言ったのは彼の方だった。


 望んでいるわけではない。そう言い切れるほど、イネスはもう冷静ではなかった。


 毎夜、中途半端なまま眠りにつくことが、どうにももどかしい。


「……殿下」


 震える声で呼ぶと、首筋に触れていた指先がぴたりと止まる。


「何だ」


 すぐ目の前で、熱を帯びた紺の瞳に見下ろされる。

 イネスは喉まで出かかった問いを飲み込んだ。


 なぜ、やめるのですか。


 そんなこと、聞けるはずがなかった。


「……いえ」


「言いかけてやめるな」


「何でもありません」


 ルシウスは、困惑と熱情に揺れるイネスの瞳をじっと見つめていた。

 やがて、何かを察したように口元を緩める。


「不満か」


 あまりに図星を突かれ、頬から首筋までが一気に熱くなった。


「っ……違います」


「そうか」


 信じていない声だった。

 ルシウスは低く笑い、イネスが言い返す前に、その唇を優しく塞ぐ。


「今日は寝ろ」


 また、一方的に彼が決める。

 イネスは唇に残った熱を意識しないように、静かに頷いた。


「……はい」


 燭台の火が落とされる。

 暗くなった部屋の中で、ルシウスの気配だけがはっきりと分かった。


 そんな夜が、数日続いた。


***


 エリアスと回廊で会ってから数日経った頃だった。

 朝食を終えたあと、ルシウスは卓上の書類から視線を上げた。


「たしか今日は、初めて一人で行う外の公務だったな」


 イネスは手元の茶器を置く。


「はい。王立孤児院への慰問です」


「マルグリット夫人は同行するのか」


「はい。護衛もおります」


「ならいい」


 それだけ言って、ルシウスは再び書類へ視線を落としかけた。

 けれど、すぐに手を止める。


「……嫌な予感がする」


 低く落とされた声に、イネスはわずかに目を上げた。


「嫌な予感?」


「君が一人になる隙に、弟が何かしてくるかもしれない」


 第二皇子エリアス。

 あの柔らかな笑みの男が、また現れる可能性。

 イネスは静かに頷いた。


「……分かりました。注意いたします」


「無理はするな」


 その言葉は、思っていたよりも柔らかかった。

 イネスは少しだけ瞬きをする。


「はい」


 ルシウスはそれ以上、何も言わなかった。

 けれどイネスが部屋を出るまで、その視線はしばらく彼女の背に残っていた。


***


 王立孤児院は、王都の北側にある古い建物だった。


 白い石造りの外壁は、ところどころに年月の色を残している。

 けれど門前はきれいに掃かれ、入口には季節の花が控えめに飾られていた。


 王家の慈善の象徴。

 馬車の中で、マルグリット夫人はそう説明してくれた。


 戦で親を失った子。

 病で家族を失った子。

 あるいは、家名も親の顔も知らずに保護された子。


 そうした子どもたちを受け入れるため、王家の名で維持されている施設だという。

 イネスは馬車を降り、正面の扉を見上げた。


「妃殿下、本日はようこそお越しくださいました」


 入口で待っていた院長が、深々と頭を下げる。

 年配の男だった。物腰は柔らかく、声音も丁寧だ。


 その後ろには数人の職員と、きちんと並ばされた子どもたちがいる。


 子どもたちはみな、揃いの簡素な服を着ていた。

 白い襟。紺色の上着。磨かれた靴。

 けれど、イネスはその光景に小さな違和感を覚えた。


 子どもらしいざわめきが、ほとんどない。

 好奇心で目を輝かせる子もいる。だが、その目はすぐに職員の方へ向き、何かを確かめるように伏せられる。


 まるで、顔色をうかがっているようだった。

 イネスは表情を変えず、院長へ向き直る。


「日頃より、子どもたちのために尽力いただき感謝いたします」


「もったいないお言葉でございます」


 院長はさらに頭を下げた。


「本日は、施設内をご案内いたします。子どもたちも、妃殿下にお目にかかれることを大変楽しみにしておりました」


 その言葉に合わせるように、職員の一人が子どもたちを見る。

 すると子どもたちは揃って、小さく礼をした。

 小さな子まで、乱れずに。


 案内が進むにつれ、違和感は少しずつ濃くなっていった。


 部屋は清潔に整えられている。

 寝台には真新しい布が掛けられ、食堂の机も綺麗に磨かれていた。


 だが、薬棚の空き瓶の多さや、倉庫にある寄付品の箱が帳面に記された数より少ないように見えた。

 隣に立つマルグリット夫人が、わずかに視線を寄越す。


「妃殿下」


 小さな声だった。

 イネスは目録から顔を上げずに、静かに答えた。


「ええ。後ほど確認します」


 院長は気づいていないのか。

 それとも、分かった上なのか。

 案内を終えたあと、広い談話室で子どもたちとの交流の時間が設けられた。


 長机の上には、王宮から持参した焼き菓子と小さな絵本が並べられている。

 子どもたちは職員に促され、順にイネスの前へ進み出た。


「どうぞ」


 イネスは膝を折り、子どもの目線に近づけて菓子を手渡す。

 どの子も礼儀正しい。けれど、表情は硬く、言葉も少ない。


 その中で、ひとりの子どもがひどく緊張した様子で前へ出た。

 小柄な男の子だった。

 年は六つか、七つほどだろうか。薄い茶色の髪は短く切られ、頬は痩せている。


 大きな目でイネスを見上げていたが、その瞳には好奇心よりも怯えが濃かった。


「お名前は?」


 イネスが柔らかく尋ねると、少年は唇を震わせた。


「……ノエ、です」


「ノエ。来てくれてありがとう」


 イネスは焼き菓子を差し出した。

 ノエが受け取ろうと両手を出す。

 けれど指先が震えていたせいか、菓子は小さな音を立てて床に落ちた。


 その瞬間、空気が変わる。


「またお前か」


 職員の低い声が、談話室の端から落ちた。

 ノエの肩が大きく跳ねる。

 職員はすぐに近づき、ノエの細い腕を強く掴んだ。


「申し訳ございません、妃殿下。躾が行き届いておらず」


 言葉はイネスへ向けられている。

 けれど、その手はノエの腕をきつく締めつけていた。

 ノエの顔が痛みに歪む。


 イネスは静かに立ち上がった。


「これは一体、どういうことなの」


 院長が青ざめながら一歩前へ出る。


「妃殿下、お見苦しいところを」


 イネスは院長を見た。


「見苦しいのは、菓子を落とした子どもではありません」


 院長が言葉を失う。

 談話室は静まり返っていた。


 子どもたちは息を殺している。

 イネスはノエの腕を掴んでいる職員へ向き直り、低い声で告げた。


「その手を離しなさい」


 職員は慌てて手を離す。

 イネスは一歩近づき、ノエの前で膝を折った。


「見せて」


 ノエは怯えたように職員を見た。

 その視線だけで、十分だった。


「私を見なさい、ノエ」


 イネスが静かに告げると、ノエはおずおずとイネスを見る。


「大丈夫。怒っていないわ」


 細い腕をそっと取る。

 袖口の奥に、薄く残った痣があった。


 今日ついたものではない。

 色が変わりかけた古い痣。

 それが一つではないことに、イネスはすぐ気づいた。

 職員が慌てて口を開く。


「活発な子でして、よく転ぶのです」


「そう」


 イネスはノエの腕を離さず、顔を上げた。

 そしてマルグリット夫人へ視線を向ける。


「今すぐ他の子どもたちにも怪我がないか確認を」


「かしこまりました」


 マルグリット夫人はすぐに動いた。

 その時だった。


「ずいぶん物騒な空気ですね」


 柔らかな声が、談話室の入口から響いた。

 イネスは顔を上げる。


 扉のそばに、淡い金髪の青年が立っていた。

 エリアス・アルヴェイン。

 琥珀色の瞳が、談話室の中を静かに見渡している。


 笑みは柔らかい。

 けれど、その目の奥は少しも笑っていなかった。


「お会いできて嬉しいです、義姉上」


 イネスはほんの一瞬だけ、ルシウスの言葉を思い出した。


 ――嫌な予感がする。

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