NO.12 焦らせば焦らすほど
現在、2026年5月13日までに書いた全16話を、20話構成で読みやすく修整中です!そこまで読んでくださった皆様は、21話からが続きになりますのでよろしくお願いいたします!
21話以降は、5月中に載せられるよう、鋭意製作中です!引き続きよろしくお願いいたします!
夕食と夜の身支度を整え、寝室へ向かう頃には、私邸は深い静寂に包まれていた。
今日は一緒に寝よう。
夕刻に落とされたルシウスの声が、まだ耳の奥に残っている。
昨夜は自室に戻ると言ったくせに、今日は当然のように呼びつける。
本当に、気まぐれな人だ。
燭台の火だけが回廊を淡く照らしている。
昼間の王宮とは違い、夜の私邸は音が少ない。衣擦れや小さな足音までもが、妙にはっきりと耳に届く。
夫婦の寝室の前で、イネスは一度だけ呼吸を整えた。
きっと、彼の気まぐれに深い理由などない。
扉を開けると、すでにルシウスが待っていた。
夜着に着替え、銀の髪をわずかに乱した彼は、窓際で外の闇を眺めている。イネスの入室に気づくと、彼は音もなく視線を向けた。
「お待たせいたしました」
「ああ」
短い返事。だが、その声はいつもより低く感じた。
イネスが寝台へ歩みを寄めようとした瞬間、彼の腕が伸び、彼女の黒髪を一房すくい上げた。
突然のことに、イネスは足を止める。
ルシウスは、その髪に触れるか触れないかの距離まで顔を寄せ、彼女の身に纏う香りを吸い込んだ。
「いつもどおりか」
「……頂いたものは、使っていませんので」
「そうか」
短いやり取り。けれどルシウスの声は低く重いままだった。
イネスは、ほんの少しだけ眉を寄せる。
一体この男は何に苛立っているのか。
昨夜、別の女と過ごし、別の寝室で夜を明かした。
そのくせ今日は、イネスをこの寝室に呼びつけて第二皇子からの贈り物を気にしている。
自分に執着するなと言うくせに、彼の行動は全く意味が分からなかった。
本当に、勝手な人だ。
そう思う。
思うのに。触れられた髪のあたりから、意識がじわりと熱を持つ。
それが少し癪だった。
ルシウスが誰と過ごそうと別に構わない。
ただ、一週間前にあれだけけしかけておいて。
今まで何もしてこなかったくせに。
こうしてまた彼の気まぐれで距離を詰められる。
そのたびに、何も感じないふりをしている自分のほうが乱されていく。
それが、どうにも面白くなかった。
「……どうかされましたか」
そう尋ねた声は、自分で思ったよりも小さかった。
ルシウスは答えない。
代わりに、彼の指先がイネスの頬へ触れた。
顎へ滑り、ほんの少し上を向かされる。
紺の瞳が、すぐ近くにあった。
「……殿下?」
問いかけた瞬間、唇が重なる。
触れるだけの淡いキスではない。最初から、息の仕方さえ奪われるような口づけだった。
「っ……」
イネスの細い指先が、彼の胸元を頼りなげに掴む。そのわずかな隙を突いて、ルシウスはさらに深く口づけを重ねた。
強引ではない。けれど、今夜の彼は遠慮をするつもりがないようだった。
呼吸を繋ぐためのわずかな合間に、イネスは酸素を求めて喉を鳴らす。ルシウスはそのたびに唇をわずかに緩め、彼女が喘ぐ隙を与えてから、より深く、逃げ場を塞ぐように重ねてきた。
湯上がりの香油の匂い。
ルシウスの肌から伝わる、男らしい体温。
月下香の香りなどどこにもないはずなのに、この口づけのきっかけが、あの香りにあったことをイネスは直感していた。
ルシウスの唇が一度離れる。
その隙にイネスは乱れた息を整えようとした。
けれど、彼は待ってくれない。
頬、首筋、鎖骨。
短い口づけが、熱を残しながら落ちていく。
「……嫌なら、そう言え」
掠れた低い声。
嫌ではない。けれど、あまりに自分勝手で、好き放題な彼を素直に受け入れるのはほんの少しだけ癪だった。
「……別に。嫌ではありません」
強がった声は、溜息に混じって震える。
ルシウスの動きが止まる。彼は一瞬だけ、鋭く熱をはらんだ目で彼女を見下ろした。
「そうか」
腰に回された腕に力が入り、イネスの身体は隙間なく彼に密着させられた。そのままゆっくりと、柔らかな寝台へといざなわれる。
背中に布の感触が広がると同時に、彼の手が夜着の裾へと伸びた。
視線、呼吸、触れる指先。
すべてが肌を焦がすほどに近く、イネスは意識が遠のくような感覚に陥る。
けれど、彼はそこでまた、意地悪なほど急に動きを止めた。
紺碧の瞳が、熱に浮かされるイネスの姿を愉しげに観察している。
「……今日は、ここまでにしておく」
「……っ、私は、いつでも大丈夫だと……」
反射的に口走った言葉は、自ら夜を誘うような響きを帯びていた。
ルシウスは喉の奥で、艶やかに笑った。
「知っているよ。だが、急いで終わらせるのは惜しい」
彼は、赤く染まったイネスの頬を指先で撫で、囁く。
「君は、焦らしたほうがずっと素直になりそうだ」
「……悪趣味、です」
悔しさと、それ以上の気恥ずかしさが混ざり合い、イネスは視線を逸らした。
ルシウスは満足そうに彼女を解放し、乱れた髪を慈しむように整える。その手つきは驚くほど優しく、先ほどまでの荒々しいキスとの落差に、イネスの心臓はさらに大きく跳ねた。
「灯りを落とすぞ」
「……はい」
燭台の火が消え、視界が闇に閉ざされる。
隣にいるルシウスの気配は、昨夜感じなかったぶん、より一層強く感じられた。
***
翌朝、イネスが目を覚ました時、隣にはまだルシウスの姿があった。
窓から差し込む朝の光が、寝台の白い布を淡く照らしている。
昨夜落とされた燭台の匂いはもう薄れ、部屋には静かな朝の空気だけが満ちていた。
ルシウスは先に身を起こしていたらしい。
夜着の襟元を軽く直しながら、イネスへ視線を向ける。
「おはよう」
何事もなかったような声だった。
昨夜、あれほど勝手に距離を詰めてきたくせに。
あれほど好き放題に口づけておいて、途中でやめたくせに。
イネスはゆっくりと身を起こした。
「……おはようございます」
いつも通りに返したつもりだった。
けれど、まだ唇に昨夜の熱が残っているような気がして、声がほんの少しだけ硬くなる。
ルシウスはそれを見逃さなかった。
「どうかしたか」
「いえ。別に」
「別に、という顔ではないな」
「気のせいです」
イネスは視線を逸らした。
怒っているわけではない。
けれど、思い出すだけで胸の奥に妙な熱が戻ってくる。
それが気に入らなかった。
ルシウスに振り回されている。
そう認めるようで、癪だった。
ルシウスはそんなイネスを見て、口元を緩める。
「物足りなかったのか?」
イネスは思わず顔を上げた。
「そんなわけありません」
きっぱり言ったつもりだった。
けれど、頬に熱が上るのが自分でも分かった。
ルシウスは愉しげに目を細める。
「そうか」
その短い一言が、少しも信じていない響きだった。
言い返せば、また余計にからかわれる。
そう判断して口を閉じると、ルシウスはますます面白そうな顔をした。
それがまた、少しだけ悔しい。
昨夜、閉じた引き出しの中にしまった月下香の香りは、もうどこにも漂っていない。
それなのに、ルシウスが残した熱だけは、まだイネスの中に薄く残っている。
婚礼から一週間。
この男との距離は、少しずつ変わっている。
それが良い変化なのか、厄介な変化なのか。
イネスには、まだ分からなかった。




