NO.10 第十話 王立孤児院への慰問
その夜、イネスが寝室へ向かう支度を終えた頃、ルシウスが部屋を訪ねてきた。
すでに日中の礼装は解いている。
銀の髪はいつもよりわずかに乱れ、襟元もくつろいでいた。
けれど、その目だけは妙に冷たく硬い。
「殿下」
イネスが立ち上がろうとすると、ルシウスは軽く手で制した。
「そのままでいい」
そう言って部屋へ入ってくる。
燭台の火が、壁に淡い影を落としていた。
ルシウスは、イネスの前で足を止める。
「今日、エリアスと会ったそうだな」
やはり、耳に入っていたらしい。
王宮では、些細なことでもすぐ誰かの耳に届く。分かってはいたが、改めて思い知らされる。
「はい。回廊でご挨拶を受けました」
「何を話した」
「婚礼祝いのお礼を」
ルシウスが、少しだけ目を細める。
「本当にそれだけか」
声音は穏やかだった。
けれど、問いの奥には明らかな硬さがあった。
イネスは一拍置いてから、静かに答える。
「……お茶に誘われました」
ルシウスの眉が、わずかに動いた。
「行ったのか」
「いいえ。お断りしました」
短い沈黙が落ちる。
怒っているのか。
それとも、何かを考えているのか。
イネスには、どちらとも判断がつかなかった。
やがてルシウスは、低く言う。
「今後、あいつのことは無視しても構わない」
イネスは思わず瞬きをする。
「それは……体裁としても、あまりよろしくないかと」
ルシウスは答えなかった。
彼自身、それが無理な話だと分かっているのだろう。
第一皇子妃が第二皇子を露骨に避ければ、それだけで余計な噂を生む。
エリアスが何を考えていようと、礼を欠くことはできない。
イネスは少し声を落とした。
「不用意に近づかないよう、注意いたします」
「……そうしろ」
返答は短かったが、納得していないような声だった。
その後に付け加える。
「何かあれば、私に話せ」
「承知しました」
第一皇子妃として、第二皇子の行動を報告する。
ただそれだけ。他に意味なんてない。
そう思うのに、ルシウスの声には、ただの警戒とは少し違うものが混じっているように聞こえた。
ふと、ルシウスの指先がイネスの黒髪をすくい上げた。
その瞬間、昨夜の口づけがよみがえる。
イネスは何事もなかったように目を伏せた。
「そろそろ、寝室へ?」
「ああ」
ルシウスは短く答えた。
けれど、その声はまだ少し低かった。
***
月下香が届いた夜から、ルシウスは毎晩のようにイネスへ口づけるようになった。
その翌日も、その次の夜も。
燭台の火が落とされる前、彼は当然のようにイネスの髪へ触れ、頬へ触れ、唇を重ねる。
触れるだけのキスではない。
むしろ、いつも途中で終われることの方が不思議なほど深く、熱を帯びている。
その夜も同じだった。
夫婦の寝室へ入ると、ルシウスは言葉もなくイネスを寝台の端へと促し、隣に腰を降ろす。
手つきは紳士的な、けれど穏やかとは言い難い強引さがあった。
顎をすくい上げられ、視線が絡み合う。至近距離で見つめる彼の紺色の瞳は、燃えるような熱を帯びている。
頬へ触れた指先は熱く、上向かされた顔にすぐ唇が落ちてくる。
「……っ」
息を呑むわずかな隙間を、彼は決して見逃さない。
塞がれた唇から、熱い吐息が漏れる。イネスはたまらず目を閉じた。
もう、初めてのような戸惑いはない。けれど、慣れることなど決してできないほど、激しい口づけ。
髪を愛でていた彼の手が、いつの間にか首筋の柔らかな肌をなぞり、もう片方の手はイネスの腰を強く引き寄せていた。
触れる場所が増えるたび、薄い衣越しに伝わる彼の体温が、イネスの理性を狂わせていく。
それでも、彼は最後には必ず身を引くのだった。
離れた唇の隙間で、ルシウスの呼吸が深く、熱く乱れているのが分かる。
触れる指先は震え、抑えた熱が残っている。
それなのに、彼はその先へは進まない。
初夜の時、あれほど自分勝手に相手をしてもらうといったのは彼の方だった。
望んでいるわけではない。そう言い切れるほど、イネスはもう冷静ではなかった。毎夜、中途半端なまま眠りにつくことがもどかしい。
「……殿下」
震える声で名を呼ぶと、首筋を滑っていた指先がぴたりと止まる。
「何だ」
すぐ目の前の、熱に浮かされた瞳に見下ろされ、イネスは喉まで出かかった問いを飲み込んだ。
なぜ、やめるのですか。
そんなこと、聞けるはずがなかった。
「……いえ」
「言いかけてやめるな」
「何でもありません」
ルシウスは、困惑と熱情に揺れるイネスの瞳をじっと見つめていた。
やがて、何かを察したように口元を愉しげに緩める。
「不満か」
あまりに図星を突かれ、頬から首筋までが一気に熱くなる。
「っ……違います!」
「そうか」
ルシウスは信じていない様子で、喉の奥で低く笑う。
イネスが言い返す前に、その唇を優しく塞いだ。
「今日は寝ろ」
また、一方的に彼が決める。
イネスは唇に残った熱を意識しないように、静かに頷いた。
「……はい」
燭台の火が落とされる。
暗くなった部屋の中で、ルシウスの気配がはっきりとわかる。
そんな夜が数日間続いた。
***
エリアスと廊下で会ってから数日経った頃だった。
朝食を終えた後、ルシウスは卓上の書類から視線を上げた。
「たしか今日は、初めて一人で行う外の行事だったな」
イネスは手元の茶器を置く。
「はい。王立孤児院への慰問です」
「マルグリット夫人は同行するのか」
「はい。護衛もおります」
「ならいい」
それだけ言って、ルシウスは再び書類へ視線を落としかけた。
けれど、すぐに手を止める。
「……嫌な予感がする」
低く落とされた声に、イネスはわずかに目を上げた。
「嫌な予感?」
イネスが聞くとルシウスはわずかに眉を寄せた。
「君が一人になる隙に、弟が何かしてくるかもしれない」
ルシウスの弟。第二皇子エリアス。
あの柔らかな笑みの男が、また現れる可能性。
イネスは静かに頷いた。
「……わかりました。注意いたします」
「無理はするな」
その言葉は、思っていたよりも柔らかかった。
イネスは少しだけ瞬きをする。
「はい」
ルシウスはそれ以上、何も言わなかった。
けれど、イネスが部屋を出るまで、その視線はしばらく彼女の背に残っていた。
***
王立孤児院は、王都の北側にある古い建物だった。
白い石造りの外壁は、ところどころに年月の色を残している。
けれど門前はきれいに掃かれ、入口には季節の花が控えめに飾られていた。
王家の慈善の象徴。
馬車の中で、マルグリット夫人はそう説明してくれた。
戦で親を失った子。
病で家族を失った子。
あるいは、家名も親の顔も知らずに保護された子。
そうした子どもたちを受け入れるため、王家の名で維持されている施設だという。
イネスは馬車を降り、正面の扉を見上げた。
「妃殿下、本日はようこそお越しくださいました」
入口で待っていた院長が、深々と頭を下げる。
年配の男だった。
物腰は柔らかく、声音も丁寧だ。
その後ろには数人の職員と、きちんと並ばされた子どもたちがいる。
子どもたちはみな、揃いの簡素な服を着ていた。
白い襟。紺色の上着。磨かれた靴。
けれど、イネスはその光景に小さな違和感を覚えた。
子どもらしいざわめきが、ほとんどない。
好奇心で目を輝かせる子もいる。
しかし、その目はすぐに職員の方へ向き、何かを確かめるように伏せられる。
まるで顔色をうかがっているような。
イネスは表情を変えず、院長へ向き直った。
「日頃より、子どもたちのために尽力いただき感謝いたします」
「もったいないお言葉でございます」
院長はさらに頭を下げる。
「本日は、施設内をご案内いたします。子どもたちも、妃殿下にお目にかかれることを大変楽しみにしておりました」
その言葉に合わせるように、職員の一人が子どもたちを見る。
すると子どもたちは揃って、小さく礼をした。
小さな子まで、乱れずに。
案内が進むにつれ、ほんの僅かな違和感が募っていく。
どの部屋も、清潔に整えられ、ごみひとつ落ちていない。
寝台には真新しい布が掛けられ、食堂の机は綺麗に磨かれている。
だが、擦り切れた靴を履く子供たち、食糧庫の在庫、薬棚の空き瓶の多さ。そんなものに目がいく。
最後に訪れたのは倉庫だった。院長が寄付品の目録を見せながら説明を続ける。
「こちらが、先月王宮より賜りました毛布でございます。冬場に備え、大切に保管しております」
イネスは目録へ視線を落とす。
帳面に記された数字と、目の前にある箱の数を確認する。
箱の中身が見えないため、断定はできないが明らかに量が少ないように見える。
隣に立つマルグリット夫人が、わずかに視線を寄越す。
「妃殿下」
小さな声だった。
イネスは目録から顔を上げずに、静かに答える。
「ええ。後ほど確認します」
院長は気づいていないのか。それとも分かった上なのか。
案内を終えた後、広い談話室で子どもたちとの交流の時間が設けられた。
長机の上には、王宮から持参した焼き菓子と小さな絵本が並べられている。
子どもたちは職員に促され、順にイネスの前へ進み出た。
「どうぞ」
イネスは膝を折り、子どもの目線に近づけて菓子を手渡す。
最初の少女は、固い表情でそれを受け取った。
「ありがとうございます、妃殿下」
緊張しているのか声が小さい。
丁寧に一礼して列を離れる。
イネスは、ひとりひとりに短く声をかけた。どの子供も、見知らぬ人間に警戒しているのか、会話が少なく表情も硬い。
その中で、ひとりの子どもがひどく緊張した様子で前へ出た。
小柄な男の子だった。
年は六つか、七つほどだろうか。
薄い茶色の髪は短く切られていて、頬は痩せている。
大きな目でイネスを見上げているが、その瞳には好奇心よりも怯えが濃かった。
「お名前は?」
イネスが柔らかく尋ねると、少年は唇を震わせた。
「……ノエ、です」
「ノエ。来てくれてありがとう」
イネスは焼き菓子を差し出した。
ノエが受け取ろうと両手を差し出す。
けれど指先が震えていたせいか、菓子は小さな音を立てて床に落ちた。
その瞬間、空気が変わる。
「またお前か」
職員の低い声が、談話室の端から落ちた。
ノエの肩が大きく跳ねる。
職員はすぐに近づき、ノエの細い腕を強く掴んだ。
「申し訳ございません、妃殿下。躾が行き届いておらず」
言葉はイネスへ向けられている。
けれど、その手はノエの腕をきつく締めつけていた。
ノエの顔が痛みに歪む。
イネスは静かに立ち上がった。
「これは一体、どういうことなの」
院長が青ざめながら一歩前へ出る。
「妃殿下、お見苦しいところを」
イネスは院長を見た。
「見苦しいのは、菓子を落とした子どもではありません」
院長が言葉を失う。
談話室は静まり返っていた。
子どもたちは息を殺している。
イネスはノエの腕を掴んでいる職員に向き直り、低い声で告げた。
「その手を離しなさい」
職員は慌てて手を離す。
イネスは一歩近づき、ノエの前で膝を折る。
「見せて」
ノエは怯えたように職員を見た。
その視線だけで、十分だった。
「私を見なさい、ノエ」
イネスが静かに告げると、ノエはおずおずとイネスを見る。
「大丈夫。怒っていないわ」
細い腕をそっと取る。
袖口の奥に、薄く残った痣があった。
今日ついたものではない。
色が変わりかけた古い痣。
それが一つではないことに、イネスはすぐ気づいた。
職員が慌てて口を開く。
「活発な子でして、よく転ぶのです」
「そう」
イネスはノエの腕を離さず、顔を上げた。
そしてマルグリット夫人へ視線を向ける。
「今すぐ他の子どもたちにも怪我がないか確認を」
「かしこまりました」
マルグリット夫人はすぐに動いた。
その時だった。
「ずいぶん物騒な空気ですね」
柔らかな声が、談話室の入口から響いた。
イネスは顔を上げる。
扉のそばに、淡い金髪の青年が立っていた。
エリアス・アルヴェイン。
琥珀色の瞳が、談話室の中を静かに見渡している。
笑みは柔らかい。
けれど、その目の奥は少しも笑っていなかった。
「お会いできて嬉しいです、義姉上」
イネスはほんの一瞬だけ、ルシウスの言葉を思い出した。
――嫌な予感がする。
なぜ彼がここにいるのか。
いや。そんなことは後だ。
「……そうですね」
短く返すと、エリアスは穏やかに微笑んだ。
「今日は孤児院の様子を見に。私も、少しばかり支援に関わっておりますので」
そして彼の視線は、ノエの腕に落ちる。
次いで、院長へ。
「院長」
声は柔らかいままだった。
「妃殿下の前で取り繕うには、全てが雑だったようですね」
院長の顔から、はっきりと血の気が引いた。
「第二皇子殿下、これは、その……」
「ええ。何か事情がおありなのでしょう」
エリアスは穏やかに頷いた。
まるで相手の言い分を聞くつもりがあるような顔だった。
だが、その琥珀色の瞳は少しも緩んでいない。
「ですが、まずは妃殿下のお話を伺いましょう」
静かな声に促され、院長は口をつぐんだ。
イネスはノエを侍女に預ける。
「腕を冷やしてあげてください。痛むところが他にもないか、確認を」
「かしこまりました」
侍女がノエをそっと連れていく。
ノエはまだ怯えた目をしていたが、イネスを一度だけ振り返った。
イネスは小さく頷いてみせる。
大丈夫。
そう伝わったかは分からない。
けれど、ノエの指先が少しだけ緩んだ。
イネスは院長へ向き直る。
「寄付品と支援金の管理記録を見せてください」
院長の目が揺れた。
「本日は慰問でございまして、帳簿は……」
「今確認できるものだけで構いません」
静かな声だった。
だが、拒む余地はない。
院長は助けを求めるように職員たちへ視線を走らせた。
しかし、誰も口を開かない。
マルグリット夫人が一歩前に出る。
「妃殿下のご指示です。記録をお持ちください」
「……かしこまりました」
院長はようやく頭を下げた。
その背中を見送っていると、エリアスがイネスのすぐ隣へ歩み寄る。
「人手が必要なら、私の者も使ってください」
イネスは一瞬だけエリアスを見る。
ここで借りを作るのはあまり良いとは言えない。
けれど今、優先すべきは子どもたちの状態を確認すること。
寄付品や支援金の流れを調べること。
そのために使える手があるなら、使うべきだった。
「お願いいたします」
イネスがそう答えると、エリアスは微笑んだ。
「承知しました」
その声は柔らかい。
けれど、ほんの一瞬だけ、彼の目に楽しげな色が差したように見えた。
エリアスが控えていた従者に目配せする。
すぐに数人が動き出した。
子どもたちは別室へ移され、ひとりずつ怪我の有無を確認される。
職員たちはその場から離され、護衛が談話室の扉の前に立った。
先ほどまで整っていた孤児院の空気が、静かに剥がれていく。
やがて、院長が数冊の帳簿を抱えて戻ってきた。
「こちらが、直近の記録でございます」
差し出された帳簿を、イネスは受け取る。
革の表紙は古い。
けれど、最近よく開かれていたのか、角だけが妙に擦れていた。
マルグリット夫人が隣に立ち、イネスと共に記録へ目を通す。
食料の搬入量。
毛布の数。
薬品の購入記録。
帳簿の上では、十分な品が届いている。
けれど、先程見回った施設内にはそれだけの物資は無いように思えた。
「毛布は、先月五十枚届いているのですね」
「はい、妃殿下」
院長の声は少し上ずっていた。
「本日見せていただいた倉庫には、それほどの数はなかったように見えました」
「すでに使用している分がございますので」
「寝室には、夏用の薄手のものしか無かったはずでは?」
院長が口を閉ざす。
イネスはページをめくる。
「薬品の購入記録も多いようです。けれど医務室の棚には、空き瓶が目立ちました」
「子どもたちは体調を崩しやすく……」
「では、医師の診療記録も後ほど確認します」
院長は小さく喉を鳴らし、額に汗を浮かべていた。
その時、別室へ行っていた侍女が戻ってくる。
声をひそめ、イネスの耳元で報告した。
「妃殿下。他にも、打撲の痕がある子が数名おります」
イネスの指が、帳簿の端を静かに押さえた。
「数名、ですか」
「はい。古いものと新しいものが混じっております」
部屋の空気が、さらに重くなる。
院長が慌てて口を開いた。
「子ども同士の喧嘩もございますし、遊びの中で怪我をすることも」
「すべてがそうだと?」
イネスは顔を上げる。
声は静かだった。
その静けさが、かえって院長を黙らせた。
「本日の慰問は、予定を変更します」
院長の顔が強張る。
「妃殿下……」
「子どもたちの状態と、寄付品の管理状況を確認します。職員全員から話を聞き、帳簿と現物の照合も行います」
「しかし、それは」
「必要な確認です」
イネスは言い切った。
その場にいた者たちが、息を呑む。
第一皇子妃として初めての外の公務。
本来なら、形ばかりの慰問で終わるはずだった。
子どもたちに菓子を配り、院長の報告を受け、王宮へ戻る。
だが、もう見てしまった。
ノエの腕。
他の子どもたちの痣。
帳簿と現場のずれ。
見てしまった以上、見なかったことにはできない。
「私も立ち会いましょう」
エリアスが静かに言った。
イネスは彼を見る。
「妃殿下お一人に負わせるには、少し重い」
その申し出が善意だけでできているとは思わない。
けれど今は、拒む理由もなかった。
第二皇子が立ち会えば、院長も職員もさらに逃げにくくなる。
王宮へ戻った後の手続きも進めやすくなる。
使えるものは使う。
そう判断して、イネスは小さく頷いた。
「では、お願いいたします」
エリアスは微笑んだ。
「ええ。喜んで」
その笑みは相変わらず柔らかい。
マルグリット夫人が職員の聞き取りを手配し、護衛たちは出入り口を固める。
エリアスの従者たちは、子どもたちを別室へ誘導し、怯えさせないよう落ち着いた声で話しかけていた。
第二皇子の部下たちだけあって手際がいい。
エリアスも必要な場所へ視線を向け、短い合図だけで人を動かしている。
柔らかな表情のまま、全てを動かす。
肩書は伊達ではないようだった。
イネスは自分の立場を改めて考える。
第一皇子妃。
この立場だから見えるものがある。
この立場だから、動かせるものがある。
ならば、これ以上見逃すわけにはいかなかった。




