NO.11 月下香
現在、2026年5月13日までに書いた全16話を、20話構成で読みやすく修整中です!そこまで読んでくださった皆様は、21話からが続きになりますのでよろしくお願いいたします!
21話以降は、5月中に載せられるよう、鋭意製作中です!引き続きよろしくお願いいたします!
翌朝、イネスはいつもより静かな部屋で目を覚ました。
一週間前までは当たり前だった、ひとりで迎える朝。
何も変わらないと思うのに部屋が少しだけ広く感じられる。
イネスはしばらく天井を見つめてから、ゆっくりと身を起こす。
すぐに控えめなノックが響いた。
「奥様、失礼いたします」
「ええ」
返事をすると、侍女たちが静かに入ってくる。
朝の支度は、もう決まった流れになりつつあった。
湯を含ませた布。軽い香油。日中用のドレス。髪を結うための櫛。
婚礼から一週間。
王宮での暮らしに慣れたとは言えない。けれど、何をされるのか分からず戸惑うことは少なくなっていた。
「殿下は、早朝より執務に入られております」
侍女が髪を整えながら、そう告げる。
「そう」
イネスは短く答えた。
夫婦だからといって、毎朝顔を合わせなければならないわけではない。
なにも不自然なことはなかった。
侍女の手が、黒髪をゆるやかにまとめていく。
鏡の中のイネスは、いつも通りだった。
少なくとも、そう見えた。
***
朝食を終えてしばらくすると、マルグリット夫人が訪れた。
イネスの教育係として初めて会った時と同じように、背筋の伸びた女性だった。落ち着いた色のドレスに身を包み、派手な飾りはない。けれど、その場に立つだけで部屋の空気が少し引き締まる。
「妃殿下」
マルグリット夫人は丁寧に一礼する。
「本日は、第二皇子殿下より婚礼祝いが届いております」
第二皇子。
イネスはその名に、ほんの少しだけ意識を向けた。
ルシウスの弟。
まだ直接会ったことはない。
婚礼の日にも姿は見ていない。
けれど王宮にいる以上、その名を知らないわけでは無かった。
「第二皇子殿下から」
「はい」
マルグリット夫人は、女官から受け取った細長い箱を、イネスの前へ差し出した。
白い絹布に包まれた箱だった。銀の留め具には繊細な細工が施され、蓋には白い花の意匠が刻まれている。
イネスはそれを両手で受け取った。
「開けても?」
「もちろんでございます」
イネスは静かに留め具を外し、蓋を開けた。
中に納められていたのは、ガラスの装飾が施された小瓶だった。
丸みを帯びた形に、銀細工の蓋。光を受けると、透明な装飾がかすかにきらめく。
蓋を開ける前から、ほのかに甘い香りが漂っていた。
「香油ですか」
「そのようですね」
イネスは小瓶を取り上げ、蓋を緩める。
その瞬間、香りがふわりと立ち上がった。
甘い。
花の香りでありながら、濃密で妖艶な夜の香り。
「月下香でございます」
マルグリット夫人が告げる。
「別名、チュベローズとも呼ばれる花です。夜になるほど香りを強め、肌に吸い付くように長く残る。古くより、情欲を煽る花として、あるいは秘密の恋文に添えられる香りとして重宝されてきました」
「……月下香」
イネスは小さく繰り返した。
マルグリット夫人は表情をほとんど変えずに続ける。
「新婚の第一皇子妃へ贈るには、受け取り方によっては挑発的にも映ります」
その言葉で、イネスはようやくこの贈り物の輪郭を理解した。
美しく、魅惑的な、挑発。
第二皇子が第一皇子妃へ贈るには、少しだけ踏み込んだ物。
イネスは小瓶の蓋を閉めた。
甘い香りは完全には消えず、部屋の中へ溶けていく。
「お返しは、慎重にお選びくださいませ」
マグリット夫人の声は、静かな警告の色を帯びる。
「香りに香りを返せば、親しみに親しみで応じたように見えます。装身具を返せば、身につけるものを贈り合ったことになります」
イネスは月下香の小瓶を見つめた。
ルシウス以外の男性から受け取った香りの意味。
「では、使うものではなく、食品の様なものがいいでしょうか」
マルグリット夫人の目元が、わずかに和らいだ。
「ええ。紅茶などがよろしいかと。香り繋がりではありますが、客人に出すにも、自分で嗜むにも最適ですし、私的な親しみにはなりにくいので」
同じ香りでも、意味合いをずらす。
返礼を決めるにも、品物に込められた意味まで考えなくてはならない。
王宮のやり取りは、地方の社交よりずっと繊細で、少し煩わしい。
けれど、第一皇子妃として避けては通れないのである。
「では、東方産の紅茶を」
「ご用意いたします」
マルグリット夫人は静かに頷いた。
「礼状には、親しげな言葉を避け、公の場で改めてご挨拶する旨を添えましょう」
「分かりました」
イネスはもう一度、小瓶へ視線を落とした。
第二皇子。
まだ会ったことのない相手だ。声も、顔も、表情も知らない。
先に届いた贈り物は、甘い花の香りと、わずかな含みをまとっていた。
***
その日の執務を終え、イネスは自室へ戻った。
部屋には侍女もおらず、イネスひとり。
机の上には、持ち帰った月下香の小瓶がある。
夕暮れの光の中で、ガラスの装飾が淡くきらめいていた。銀細工の蓋も、箱の内側に刻まれた白い花の意匠も美しい。
香りそのものは好きだった。
甘く、深く、簡単には忘れられない。
それに、第二皇子からの正式な婚礼祝いでもある。
どれほど含みがあろうと、雑に扱うわけにはいかなかった。
イネスが小瓶をそっと指先で回していると、扉が叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたのは、ルシウスだった。
イネスは少しだけ意外に思う。
彼がこの部屋を訪ねてくることは不思議では無い。
けれど昨日の夜から今朝にかけて、二人はほとんど言葉を交わしていなかった。
だからだろうか。
扉の前に立つ彼の姿が、ほんの少しだけ不意に見えた。
「殿下」
「邪魔をしたか」
「いいえ。執務は終えております」
イネスが立ち上がろうとすると、ルシウスは軽く手で制した。
「そのままでいい」
そう言って部屋へ入ってくる。
彼も日中の執務を終えた後らしい、落ち着いた装いだった。
ルシウスの視線が、イネスから机の上へ移った。
そして、小瓶の上で止まる。
「これは」
「第二皇子殿下からの婚礼祝いです」
答えた瞬間、ルシウスの目がわずかに細められた。
「月下香か」
「ご存じなのですね」
「知らない男のほうが少ない」
低く返され、イネスは小瓶へ視線を落とした。
マルグリット夫人の言葉を思い出す。
ルシウスも、それを知っているということだろうか。
「使うのか?」
問いは短かった。
イネスは一度、小瓶を見下ろす。
「香りは美しくてすきですが、外で使う予定はありません」
「外では、か」
ルシウスの声が、ほんの少し低くなる。
「眠る前に部屋で香らせる程度なら、悪くないかと」
そう答えると、ルシウスは黙った。
怒っているわけではない。
けれど、機嫌がよいわけでもなさそうだった。
しばらくして、彼は静かに言った。
「使うなら、私と二人の時にしろ」
予想していなかった言葉に、イネスは一瞬だけ言葉を失う。
公の場で身につけるのは、たしかに避けたほうがいい。
第二皇子から贈られた香りをまとって人前に出れば、余計な意味を持たせてしまう。
けれど、私的な部屋で、ひとり香らせる程度なら問題はないはずだった。
それなのに、なぜそこまで気にするのだろう。
「……わかりました」
疑問は残ったまま、イネスは静かに答えた。
ルシウスはそれ以上、香油については何も言わなかった。
ただ、机の上の小瓶を見ている。
その視線は、月下香そのものではなく、その向こうにいる誰かへ向けられているように見えた。
イネスは少し迷ってから、口を開く。
「第二皇子殿下は、どのような方なのですか」
ルシウスはすぐには答えなかった。
短い沈黙が落ちる。
やがて、彼は低く言った。
「人のものが好きな男だ」
その言葉の意味を、イネスはすぐには測れなかった。
「どういうことでしょう」
「気をつけろという意味だ」
答えはそれだけだった。
それ以上、ルシウスは説明しない。
イネスはもう一度、小瓶を見た。
美しく、甘く、挑発的な贈り物。
第二皇子は、何を思ってこれを選んだのだろう。
純粋な祝意。
親しみの表明。
あるいは、ルシウスへの当てつけ。
そのどれにも見える。
けれど、最も自然なのは最後だった。
第一皇子の妻へ、夜の香りを贈る。
その意味を、第二皇子が知らないはずがない。
ならばこれは、イネスへ向けられた好意というより、ルシウスに向けられた一手なのだろう。
そう考えると、なおさら扱いを誤るわけにはいかなかった。
会話が途切れると、部屋には夕刻の静けさが戻った。
イネスは月下香の小瓶を手に取る。
ガラスの装飾が、指先の中でかすかに光った。
そして小瓶を柔らかな布に包み、元の箱へ戻した。
銀の留め具を静かに閉じる。
それから机の引き出しを開け、箱をそっとしまった。
ルシウスはその動きを黙って見つめていた。
引き出しを閉めたところで、不意に声が落ちる。
「今日は一緒に寝よう」
イネスの手が、ほんの少しだけ止まる。
本当に、気まぐれな人だ。
そう思ったが、口には出さない。
「……かしこまりました」
イネスがそう答えると、彼は踵を返し部屋を出た。
扉が閉まる。
イネスは少しの間、その扉を見ていた。
それから、閉じた引き出しへ一度だけ視線を落とす。
月下香の香りは、もうほとんどしない。
けれど部屋のどこかに、まだ甘さの名残が薄く漂っているような気がした。




