第七話:軽トラ・垂直走行
秋葉原の夜は、電飾の海だ。だが、その華やかさの裏側には、再開発から取り残された、車一台が通るのがやっとの「垂直な路地」が無数に存在する。
「ミミさん、頼むから……これ、ただの軽トラなんだよ。最大積載量三百五十キロの、善良な日本の物流を支える働き者なんだ。壁を走るための設計なんて一ミリもされてねえんだよ……!」
阿久津拓海は、運転席でハンドルを握りしめたまま、白目を剥いて絶叫していた。彼の視界の先にあるのは、アスファルトの道路ではない。隣接するオフィスビルの、滑らかなコンクリートの「外壁」だった。
『評価:管理者、重力という単一のプロトコルに固執しすぎよ。――お札、四輪同時適用』
阿久津の右肩に鎮座する一対七スケールのミミが、小さな指先でフロントガラスを叩く。その合図とともに、軽トラの四つのタイヤハウス内に貼られた「特製のお札」が、同時に発光した。
「キィィィィン……」
軽トラの全重量が「情報の塊」へと書き換えられ、挙動から「慣性」という概念が消失する。アクセルを踏み込んだ阿久津の意図をミミの演算が先読みし、軽トラは路地を直進する勢いのままビルの壁面へと突っ込んだ。
「う……うわあああああ! 窓の外が空だあああ!」
軽トラは、重力を嘲笑うようにしてビルの壁面を垂直に駆け上がった。阿久津の体はシートに押し付けられ、内臓が悲鳴を上げる。だが、その恐怖の最中で、阿久津の脳内には別の回路が火を噴いていた。
(……待てよ。この映像、ドラレコから抜いて『物理演算バグらせてみた』って動画で上げれば、広告収入だけで新車が買えるんじゃねえか……?)
恐怖を上回るクズの生存本能が、彼を「被害者」から「共犯者」へと変質させていく。
『静かにしなさい、周辺機器。……後方から、旧世代の「追跡プログラム」が接近中よ』
バックミラーを覗いた阿久津は、さらに絶叫を上塗りした。地上から、一台の白バイが猛烈なスピードで壁を登ってきている。千代丸が、あろうことか自らの意志で「壁を走る」プロトコルを再現し、阿久津を追撃してきたのだ。
「阿久津拓海ィィィ! 止まれ! 道路交通法、および物理法則違反で現行犯逮捕する!!」
千代丸の白バイが、青白い霊子の火花を散らしながら距離を詰める。
「千代丸さん、マジかよ! あの人、適応能力高すぎだろ!」
『あら……。私のロジックを模倣しようなんて、生意気なアンチウイルスね。……管理者、軽トラの「排気ガス」にお札を。――構成変更』
阿久津は窓から束になったお札を外へ放り出した。お札がマフラーから吐き出される煤煙に触れた瞬間、黒煙が鉄のような質量を持つ「壁」へと変貌する。
「……っ!? 重い! だが、読めているぞ!」
千代丸は鋭い咆哮とともに、排気ガスの壁を力技で突破し、軽トラの荷台にその手をかけようとした。一瞬、千代丸の指先がミミの演算を上回り、物理的な接触を果たす。
「……待て、この圧力……私の“重力制御”が、煙の質量によって相殺されている……?」
千代丸がその絶望的な計算違いに気づき、指先の力が抜けた0.5秒後。彼女の白バイは壁面から引き剥がされ、地上へと落下していった。
「た、助かった……。なあミミ、もう屋上だぞ! ブレーキだ!」
『……あら。お札の粘着力に、0.002パーセントの誤差が発生したわね』
ミミの声に、初めて「揺らぎ」が混じった。
タイヤの接続が一瞬だけ遅れ、軽トラの車体がガクりと傾く。屋上の縁まであと一メートルというところで、阿久津は明確に「自分の死」を確信した。
「おい待て! ミミ! 計算ミスかよ! 嘘だろおおお!?」
『評価:管理者の絶叫、ノイズ。――ジャンプ・コマンド、強制実行!』
軽トラのエンジンが、この世のものとは思えない絶叫を上げた。ビルの縁に差し掛かった瞬間、ミミはあえて「計算外の慣性」を逆利用し、軽トラを隣のビルへと跳ねさせた。
夜の秋葉原。
月を背にして跳躍する軽トラの車内で、阿久津は「動画、絶対バズらせてやるからなああ!」と、死の恐怖を強欲へと変換して叫び続けていた。
地上では、着地した千代丸が、夜空を舞う「空飛ぶ軽トラ」を呆然と見上げていた。
「……阿久津。……次は、重機の免許を取ってから出直してこい……」
現代陰陽師・阿久津拓海。
彼は、ミミという「故障する神」を背負いながら、自らもまた「強欲な共犯者」として、世界のバグの中へと加速していく。




