7.
男は笑い続けた。笑って笑って、このままずっと笑い続けるのではないかとさえ思えた。
アルゼはしばらくの間、男の突然の行動に気をとられて身動きできずにいた。ただ、右手で顔を覆い、左手で腹を抱えて笑う男を見上げている。
だが男が自分に盗みをさせようとしていたことを思い出すと、アルゼは男に気づかれないようそろりと立ち上がった。
アルゼが、男から離れようと一歩を踏み出した瞬間だった。
「んなに急ぐなって」
「うわぁっ!?」
突然感じた肩の感触に、アルゼは文字通り飛び上がる。
男はクックッと小さく喉を鳴らしながら、アルゼの肩に乗せた手を強引に動かした。
アルゼの体がそれに引っ張られて半回転し、丁度男と向き合う形になる。
男はアルゼの肩にあった手を徐々に登らせ、彼の頭に到達するとそれをそのまま握りこんだ。
アルゼの顎を掴んで持ち上げ、自らの顔を近づる。
「い……っ、はなせ……ッ!!」
まるで男の指が頭に食い込んできているような錯覚を覚えながら、アルゼは男の腕を無意識に掴んだ。しかしどんなに引っ張ってみても、今度のそれはびくともしない。
「今更逃げようなんて、男のするこっちゃねぇぞ? それで……盗んできてくれるのか、くれないのか。どっちなんだ? あいつらが居るのはお前の家なんだし、簡単だろ?」
男は痛みに歪んでいくアルゼの表情をニヤニヤと楽しむように眺めながら、尋ねる。
「盗んできて、くれるんだろ? ハハハ、俺、我儘だからさ……だから、言う事聞いてくんないとさ」
男の手に更に力が加えられた。
声音は先ほどから変わらない。ずっと甘ったるい、纏わりついてくるような声。その声質がまた、アルゼの恐怖感を仰いでいる。
アルゼは頭から"ミシッ"という音が聞こえたような気がして、躍起になって手を外そうと抵抗を試みた。
「わか……っ、わかった、から……手ぇ、はなし……ッ」
アルゼの頭を掴んで離さなかった手から徐々に力が抜かれ、浮き上がりかけていたアルゼの足は地を踏んだ。足に一気に体重がかかり、アルゼは少しよろける。バランスを崩し、地面に膝をついて荒い息を繰り返した。
どうやら痛みに耐えることばかりに気を取られ、呼吸を忘れていたようだった。酸素の足りない頭のために必死で空気を取り入れる。
「おーっ、マジでか!? マジだな!? よし、頼んだぜ!」
一方の男はさっきまでの表情はどこへやら、ガッツポーズなどしながら嬉しそうにはしゃいでいる。
男はアルゼを掴み上げていた腕を軽く振ると、大きく伸びをする。
「よっし、決行は今夜だ! お前、盗めたらまたここに来いよな」
数回咳き込んで、頭のしびれが解けてきた頃、アルゼは男を見上げた。四肢を地面につけた状態からでは、男の表情を伺うことはできない。
だが、男はどうせ笑っているのだろうと、ほんの少し悪態をつく。
ふと気づいて、男の台詞を頭の中で繰り返した。空気の足りない頭で聞いた言葉を、改めて確かめる。
「……ちょ、ちょっと待てって!」
必死で男の言葉を思い出し、その意味に気づいたアルゼは、男の強引な進め方に意義を唱えた。怒鳴ったために先ほどまで空気を通していなかった喉が悲鳴をあげる。ピリッとした痛みが喉を駆けていった。
「何だよ。やってくれるんだろ? だったら待つだけ時間の無駄にしかならねぇよ」
男は、まだ嬉しそうに笑みを称えている。
「じゃ、楽しみに待ってるからな」
アルゼの真上で、男のマントが踊る。踵を返し、男はそのまま去って行った。
男と入れ違うように、その時、朝日が完全にその姿を現す。男の靴がたてる湿った草の鳴る音が、アルゼにはやけに大きく聞こえた。
左腕がずきずきと疼いた気がして、アルゼは右手でそれを抑えた。
「ったく、何で俺、こんなことしてんだろ……」
既に日は落ち、窓を覗けば月と星が照らす世界が見える。
彼には、自分がとっている行動の意味がわからなかった。特に気合を入れたわけではない。覚悟を決めたわけでもない。むしろ絶対やるもんか、なんであんな奴の言いなりになんかならなきゃいけないんだ。そう思っていた。
それなのに、足は自然とあの少女がいるであろう部屋に向かっていた。いや、正確に言えばあの"棒"があるであろう部屋に。
「あんな変な人、無視すりゃあいいのに」
アルゼが独り言に夢中になっても、自然と足は速まる。
「何で俺がそんなことを。しかも、盗むんだぞ? できるわけねぇじゃんか」
左腕がじわりと痛いのは、いつもの事。もう慣れすぎていて気にもならない。
アルゼは二階へと続く階段に足をかけた。軽い衝撃にあい、ふと気づく。
何かがおかしい。
彼は立ち止まった。左腕で階段の手すりをきつく掴み、無理やり体を縫い留める。
アルゼは独り言を呟いた後、足を止めたつもりでいた。だがいつの間にか自分はどんどん足を進め、既に"棒"は目の前。体を縫い留めているはずの左手が、自分を引っ張っているような気がした。
「あれ……でも、待てよ。確かすげぇ数の人がいたような」
思い出した。今はまだ、そんなに人数がいるようには思えない。昨晩家を占領した大勢の人間もいない。
でも、あれだけの人数にいきなり囲まれたんだ。
彼は昨日の夜にあった事を思い出し、同時に来てしまったことを後悔した。
そもそも盗もうと思ってここまで来たのではなかったが、きっと勢いとあの男に対する恐怖にも似た感情で来てしまったのだろう。
部屋の中はわからないが、その周囲の護衛の数はきっと半端ないのだろう。それこそ、鼠一匹通れないような。
「貴様! そこで何をしている!?」
ほら、きた。
頭を抱えたい衝動に駆られながら、アルゼは階段を見上げた。




