4.
「へっくし!」
楽しそうにエリーの壺の中に手を突っ込んでいたアルゼが手を止め、思い出したようにくしゃみをする。
陽も傾き、少しずつ気温も下がってきた中をずぶ濡れのままでいたのだから、致し方の無いこととも言えた。
「ちょっと、風邪なんかひかないでよ? ただでさえこの町、人手不足なんだから」
「わかってるよ」
エリエファが心配したのは、町での仕事のことなのだろうか。
アルゼは少しだけ複雑な思いを抱きながら、着ていたシャツを脱いで絞った。面白いように水が流れ出し、地面に吸い込まれていく。
何度か方向を変えながらそれを繰り返し、一度しわを伸ばすように服の表面を払った。
それを羽織り直して、再びエリエファの持つ壺に手を入れる。
一度は去った危機に気を抜いていた魚が、再びの危機を避けようと壺の奥に集まった。
「あなたの分と、おばさまの分と、町長さんの分よね……。あと一匹だけよ? うちだってお夕飯に食べるんだから」
エリエファは片手で壺を支え、片手でアルゼの家族を指折り数える。既に二匹の魚を自分の壺へと放り込んでいたアルゼは、わかってるわかってる、と半分何を言われたかわからないような様子で返事をした。
アルゼの祖父は、この町の町長を務めている。人柄が温厚なことで有名な彼は、町の人々からの信頼が厚かった。町のほぼ中央に彼の家はあり、それは町人たちのそれより一回り大きい。
町長は人々の信頼を受け、代々その家に住んでいた。
もちろん現町長の孫にあたるアルゼもそこに住んでいるが、暮らしは他の人々と変わりない。嫌々ながらだが、手伝いもする。狩りもするし、畑仕事もする。こうして食事のために釣りもする。町の人々も、何の区別もなくアルゼに接していた。
「よっ、と。ありがとな、助かったぜエリー」
アルゼは三匹目の魚を自分の壺へ放り込むと、礼の言葉を言う。もちろんエリエファに向かって言ったことなのだが、言われた少女は怒りを露にした。
「ちょっと、アル! お礼を言う時はちゃんと人の目を見て言って欲しいわ」
怒りをぶつけられた張本人はどこ吹く風、「おー、生きがいいな」などと呟きながら自分の壺を覗き込んでいる。
「全くもう、先に帰るわよ、私」
エリエファは、壺を抱えてはしゃいでいるアルゼの横を通り抜け、さっさと帰路に着く。
いつまでも子供っぽい幼馴染を、これ以上待つ道理はない。
両脇を木々で囲まれた道を数メートル進み、少しだけ立ち止まって振り返れば、湿り気が気に入らないのか服を小脇に抱えて走ってくるアルゼの姿が見えた。エリエファの位置からは、もう光を反射する水面は見えない。
彼女はまた、歩を進め始めた。
すぐに木々は終わり、小高い丘が見え始める。
「ひでーな、エリー。ちょっとくらい待っててくれてもいいじゃんか」
アルゼはエリエファに追いつくと、彼女を少し追い越して止まった。振り返り、通せんぼをするように両手を広げて彼女に訴える。彼の持つ壺が横に揺れ、中に入っていた水が少しだけ飛び出した。
「だって、アルってばずっと魚に話しかけてるんだもの」
エリエファは歩を進め、アルゼの横を通り過ぎながら答えた。彼女は丘に差し掛かる。
「魚とそんなに仲良しなら……あら?」
彼女の皮肉を込めた返答は、目の端にちらと映ったもののせいで止まる。
それは沢山の人、だった。
数にして、町の人々の半分くらいの人数だろうか。それらの半数以上は、すでに町に入っている。それらが作り出した行列を、町の人々は為す術もなく遠巻きに見ていた。
「アル……ねぇ、あれ何かしら?」
エリエファは不安に駆られて、背後に呼びかけた。
「どれ? え、何だありゃ」
手を広げた横を何事もなかったかのように通り抜けられ、少々ムッとしたようにエリエファを見ていたアルゼは、けれどもすぐに駆け寄ってきた。
今日は都市の人が来る日だったっけ? と、アルゼは自分の頭の中に問いかける。
時々、都市の命でこの町に様子を伺いに来る人々がいる。けれどあんなに武装はしていないし、そもそも人数はニ、三人程度だ。
アルゼはそう考え、軽く頭を横に振った。
「都市の人じゃねぇな……」
「大道芸か何かかしら?」
エリエファが呟いたが、以前にそんなものがこの町に来たことはなかった。
「とりあえず、早く帰るか」
アルゼはエリエファの質問に答えなかった。けれどもエリエファは彼の提案に賛成し、先程よりも早いペースで歩き始める。アルゼもその行列から目を放すと、すぐに彼女の後を追いかけた。
二人は無意識に行列の方を向いてしまう意識と視線を、懸命に逸らしながら歩いた。
「じゃ、ここで。また明日ね、アル」
行く手が数本に分かれている分かれ道に到着すると、エリエファが後ろを付いてきていたアルゼにむかって緩く手を振った。
各々の家へ帰るには、ここから二人は正反対の道を行くことになる。エリエファは、もちろんアルゼと背を向けて進むつもりでいた。
「危ねぇよ、一人じゃ。さっき見たろ? あいつら、何するかわかんねぇし……」
だがアルゼは、エリエファと同じ道を行こうとしていた。背を向けかけた彼女の横に並び直す。
「あいつらって、行列のこと? 何言ってるの、そんなの大丈夫よ。それより、アルゼが一人で歩く時間が長くなってしまう方が心配だし。寄り道しないで帰るのよ?」
エリエファはにこりと笑い、再度手を振った。彼女が手の中から下がり始めていた壺を持ち直そうとすると、中の水が顔を襲い、ひゃっと小さな悲鳴を挙げた。彼女は右手で軽く顔の滴を拭い、改めてアルゼに手を振りつつ歩いて行く。
まぁ、あいつがそう言っているのなら。アルゼはそう思い直し、自分の帰路へと足を向けた。
道はろくに舗装もされず、でこぼこしている。道の真ん中辺りに平気で雑草も生えている。アルゼはそれらを蹴飛ばしたり軽く飛び越えたりしながら、家への道のりを歩いて行く。
ちょうど、彼の家から漏れる明かりが目に入ってきた頃。辺りは闇と化し、周囲を見渡せなくなる頃合に。
微かな足音と共に、数人の人がアルゼを取り囲んだ。




