3.
「平気なわけないでしょう? まるで川遊びでもして来たみたいよ」
エリエファは苦笑して、水滴を垂らす包帯をなんとかしようと優しくアルゼの左腕に手を伸ばす。だがアルゼは触れようと近づいた手を思い切り振り払い、立ち上がった。
彼の表情は先程までのふざけた笑顔とは打って変わり、暗く影を差したような表情になってしまった。目線が下を向き、唇を噛み締める。
エリエファの視線は左腕のままで、彼女の手は更に白い腕に近づく。
アルゼは右手を左腕の包帯に触れたまま、一歩、二歩とエリエファから遠ざかっていった。
それを無意識に追いかけて触れようと伸ばされたエリエファの手を見て、叫んだ。
「触んな!」
思わず荒らげたアルゼの声は、エリエファの動きを止めるのには十分だった。
「あ……ごめんなさい……」
エリエファは一瞬アルゼの声に驚き、反射的に手を引っ込める。彼女は自分の目頭が熱くなり、視界が徐々にぼやけていくのを感じた。
エリエファの行動はもちろんのこと、アルゼを心配してのものだったが、そんなことは言い訳にもならない。彼がこの話題を避けたがることを失念していたことに気づく。
恐る恐るアルゼを見上げても、彼が落としていた目線を動かすことはなかった。
謝らなくちゃ。早く。エリエファの気持ちが急く。
「あの、ご……ごめん、なさい……」
アルゼを、また傷つけてしまった。どうして、私はいつもこんなことばかり――。
エリエファは後悔した。これまでにも、自分の失態から彼を傷つけてしまうことが何度もあった。その度にアルゼにつらい表情をさせてしまう。
もう何度、同じようなことをしてしまっただろうか。あの時も、あの時も。
その度に傷ついたアルゼの心を思えば、涙が溢れた。
でも彼は。無理やりに作った笑顔で自分を許してくれる。今回も、きっと。
彼は、優しいから。いつだって、笑ってくれるから。
「だ、大丈夫だって。悪いな、手。痛くなかったか?」
アルゼはすぐに笑顔に戻ってエリエファに近づき、彼女の手を振り払ったことを謝った。
彼女が心配してくれているのは気づいている。思わずとってしまった自分の行動を、アルゼは情けなく思った。
待ってくれ、泣かないで。俺はエリーの笑った顔が好きだ。
エリエファの思いを知らずに、アルゼは彼女をなんとか笑顔に戻そうと明るく振舞う。
「それより、今日は晴れてっから魚釣れねーだろ? 遊んじまおうぜ!」
言うが早いか、アルゼは豪快な音と共に川に飛び込んでしまった。この川は深さも十分あり、アルゼが川底に足を着けても肩が出るかでないか、という程度。
アルゼが着水した場所は、岸からそう離れてはいなかった。突如水飛沫がエリエファを襲い、被ってしまった雫が彼女の髪や頬を伝った。
だが彼女は、いきなりのアルゼの行動について行けずにしばらく呆けてしまった。
十分に頭の中で、目の前の出来事を整理する。
「え……ちょっと! 失礼ね。ちゃんと釣れてたのに!」
魚が逃げちゃったじゃない、と、エリエファは怒鳴る。そして頬を流れた水滴を、袖で拭いながら笑った。
笑った。良かった、エリーだ。そんな考えがアルゼの頭の中を過る。
「嘘だろ!? じいちゃんが晴れた日は釣り糸がよく見えるから釣れねーって言ってたし!」
水の中からアルゼは怒鳴り返す。笑うエリエファをみて、心が緩んだ。
一度離れた岸に、泳ぎながら近づく。しゃがんだエリエファが彼を迎えた。
「いつまでも子供ね、アルは。釣りに来て飛び込むなんてバカみたいよ?」
エリエファは肩をすくめる。顔は、笑顔のままだ。
「いいんだよ、もう濡れてんだから!」
半分ヤケになりながら、アルゼは上方を睨む。が、すぐに笑顔になって岸から離れた。
「エリーも来いよ!」
彼は水の中から、エリエファを手招きする。
程よく冷たい水が、気持ちいいと感じた。
アルゼの左腕には、常に包帯が隙間なく巻かれている。二の腕から手の甲まで、腕の肌色を埋め尽くすように。
アルゼは生まれたその日から、常に左腕に包帯を巻いていた。
エリエファや町の人達には"誤って火傷をしてしまった"と言っている。申しわけなかったが、その負傷は医者のせいであると伝えてあった。
もちろん、それは嘘。医者に落ち度など何もなかった。
けれど実際、その皮膚は熱を持っている。触れることは出来るものの、人の体温ではありえない高温を持ち続け、常に鈍痛を伝えてくる。十八年も付き合い続けているその痛みには、アルゼはすでに慣れてしまっていた。
その秘密はアルゼ自身を除けば、両親と祖父、医者の三人しか知らない。
三人は本当に信頼できる。たとえ町人達が事実を知ろうと、アルゼの味方でいてくれるであろうことも、何の根拠もなしに信じることができる。アルゼはそのことを良く分かっているつもりではいたが、自分のこの左腕。本当にその包帯の下が町人たちに知れたら。
好意的に受け入れてくれる人が、一体何人いてくれるのか。いまだ自分の頭を撫でてくれる人も。遠くからでも手を振ってくれる人も。幼馴染でさえ、自分を忌避するのかもしれない。
そう考えると怖かった。眠れない日もある。
でも、だからこそ。
いずれその日が来るとしても、それまではこの町にいたい。
アルゼはそう願っていた。
「そろそろ帰りましょう、アル。ほら上がって」
既に太陽は鮮やかなオレンジ色を放ち始めている。
アルゼは今もまだに水の中で泳ぎを楽しんでいた。彼は何度もエリエファを水中に呼んだが、頑なに彼女は断り続けた。
ずっとアルゼに付き合っていた彼女も、さすがに時刻が気になってきたのだろう。エリエファは壺を持って立ち上がる。
「まぁ、そろそろ日も暮れるしな」
アルゼは地面に手をつき、一気にそれに体重を乗せた。ザバッと水がはねる激しい音がするが、それはすぐに、滴り落ちる音へと変わる。
前に垂れ落ちてきた前髪をうるさそうに右手でかき上げ、アルゼは岸の上に立ち上がった。
「ところで、エリエファさん」
髪から滴る水分をあらかた絞ったところで、アルゼは急に敬語を使い始めた。いつもは見下ろす形になっているその身長差を埋めるように、膝と腰を屈めている。
アルゼが水から上がるのを見届け、すでに川に対し背中を向けていたエリエファは、嫌な予感と共にちらりと彼を振り返る。
素っ気なく、何、と返事をした。
「釣れたんだろ? ちょっと貰えないかな……なんて。ほら、遊んじゃったし……」
言葉とは裏腹に、アルゼは偉そうに壺を差し出した。
だがエリエファは、その手を軽く叩いて追い返してやる。
「何言ってるの? あんなに時間があったのに、釣らなかったのは自分じゃない」
エリエファはつんと横を向いてしまった。彼女の態度にアルゼは焦り、エリエファに何とか頼もうとする。
ここで自分が魚を持ち帰らなければ、それの意味するところは夕飯おかず抜きである。味のない飯だけを食えというのか。この成長期に。
「頼むよエリー。……あぁそうだ、狩り、行きたいんだろ? お前の勘は、俺も頼りにしてたんだ。今度一緒に行こう。だからさ?」
アルゼはそれだけは避けたい、と彼女に更に頼み込んだ。
そのしつこいとも言える頼みこみのおかげか、最後にはエリエファが折れてくれた。
「仕方ないわね……今回だけよ? まぁ、こんなこと毎回言ってる気がするけれど」
「ありがと! やっぱエリーはいい奴だよな!」
頼み込む姿勢はどこへやら。ニッと笑い、早速エリエファの壺に手を突っ込む。遠慮の欠片もない。
壺に入れたアルゼの手の平を、ぬるっとした感覚が通り過ぎていく。その感覚を懸命に追い回し、掴んでやろうと何度も手の平に力を入れた。
「全くもう……」
エリエファは、そんなアルゼを呆れたように見ていた。




