2.
「はぁ、今日は天気いいから、魚釣れにくいかもな……」
準備の良い母によって用意されていた釣竿を肩にかけ、壺を手にとって適当にふらつきながら歩いて行く。向かうのは、この町でよく釣り場として利用される川だ。
背後に垂れ下がった釣り糸が、彼の動きにあわせて大きく揺れた。
「お、アル! 釣りに行くのか? 珍しいな?」
すれ違った人々はほぼ例外なくそんな言葉をかけてくる。中にはぐしゃぐしゃとアルゼの頭をかき回す人もいた。その度にアルゼは猛烈に反論し、軽く流されたり、豪快に笑い飛ばされたりする。
人口も少なく決して裕福でないこの町では、町人たちが支え合わなければ政治も経済も、何もかもが成り立たない。だからこの町の人たち全員がアルゼの育ての親であり、兄弟のようなものだった。
たとえ年齢が十八を数えるとしても、この町の大人達にとって、アルゼはまだまだ手のかかる子供でしかない。彼らにとって、十八であろうと十であろうと、そう変わるものではなかった。
アルゼの目的地である川の手前に、水深がくるぶし程までしかない小川がある。目的地の下流にあたる場所だ。
アルゼがそこの土手に差し掛かると、十歳前後、遊びたい盛りの子供たちが数人小川の中に見えた。
「アル兄ー!!」
一人が気づいてアルゼに手を振れば、何かを探すのに夢中だった他の子たちも次々に顔を上げ、「アル兄だ!」「見てみて! これ、俺が捕ったんだぜ!」と、土手を見上げて嬉し
そうに手を振る。
アルゼは子供たちにつられ、興奮して思わず身を乗り出してしまう。
「すげーな! そんなのも捕れたのか!?」
が、その途端、アルゼは体がガクリと揺れて目が回るような感覚に襲われた。体のあちこちに痛みが走り、最終的にバシャン! という音と共にその感覚が終わった。
「アル兄、大丈夫?」
さっきまで自分の下に見えた子供たちが、心配そうな表情で自分を見下ろしている。
おかしい、どうしていきなり視点が真逆に……。
「いってぇ!」
アルゼが急いで起きあがると体全体に痛みが走り、勢いよく跳ねた水音が背後に聞こえた。シャツが体に張り付き、何とも言えない気持ち悪さを感じる。
アルゼが起き上ったそこは小川の中。アルゼは見事にびしょ濡れになってしまっていた。切り忘れていた髪の襟足から垂れた雫が首筋を伝う。
「アル兄、あそこから落ちたんだぞ」
一人の男の子が上を指差し、何が起きたかをまだ理解しきれていないアルゼに説明する。他の子が、近くに落ちた竿と壺を拾ってアルゼに差し出す。
子供たちが小川の中に座ったまま呆けるアルゼを囲み、静かなまま、少し時間が流れた。
「あぁー……そっか。平気平気!」
ゆっくりと、頭の中で状況を整理した後。背中に少しだけ走る痛みを感じながら、アルゼは子供たちに笑顔を見せた。
「それよりお前、何捕ったって?」
得意気に自分に呼びかけていた子の頭を優しく撫でてやる。
アルゼの笑顔を見て安心したのか、子供たちもすぐに笑顔に戻り、自分の戦利品を次々とアルゼの目の前に突き出してくる。
「お前、よくこんなちっさいの捕ったな! 動き速かっただろ?」
それらの大半は、食べられないような小さな魚や生き物。だけど子供たちにとっては立派な獲物だった。
アルゼはそれら一つ一つを見てやると、子供たちに私事である手伝いの不満を語りながら別れを告げ、再び川へと向かった。
「あれ、エリエファじゃん」
小川から更に数分歩いた所に、目的の場所はある。アルゼがそこに着くと、川辺には一人の先客がいた。
エリエファと呼ばれた少女は、ずっと見つめていた釣り糸から目を放してこちらに振り向いた。アルゼを認めると、彼女は両手で握っていた竿を片手で握りなおし、微笑して手を振った。
それに軽く手を振り返しつつアルゼは彼女の元へ駆け寄り、当然のように隣にあぐらを組んで座る。
「どうしてアルまで"エリエファ"なんて呼ぶのよ。今まで通りでいいって言ってるのに」
途端、少女が不機嫌そうにアルゼを軽く睨む。
エリエファの不満げな視線に、アルゼは反射的に彼女から距離をとろうとした。目が泳ぎ、不自然に人差し指が揺れる。
「だって、『エリエファもそろそろ一人前の女性だ。だからお前も"エリー"なんて言わずに、ちゃんと名前で呼んでやれ』って。お前の親父さんが言ったんだ」
最後に、後退する自分を追いかけてくるエリエファの額を、人差し指で押さえてやった。すると彼女は納得したような表情を浮かべ、すとんと座りなおして元の位置に戻る。
「最近、お父さん変なのよ。薪割りは手伝わせてくれないし、狩りにも連れて行ってくれない……迷子にならないか心配だわ」
エリエファは少しだけ寂しそうな表情を浮かべる。
彼女がいつの間にか手放した釣竿が、岸ギリギリのところで草に引っ掛かっていた。
しかしそんな表情を浮かべたのは一瞬で、まだ元の体制に戻れていないアルゼに再び勢いよく詰め寄った。
「お父さんなんて気にすることないのよ。今まで通りがいいの。私は″エリー″よ。ね?」
昔からずっと、アルゼは彼女をそう呼んでいた。突然、長年の呼び名を変えられるのは彼女にとって不満しかない。
エリエファはアルゼに向かって、ずいと身を乗り出して念を押してやった。
「わかったわかった。エリー、な」
元々、アルゼは彼女を“エリエファ”と呼ぶことにあまり乗り気ではなかった。アルゼからすれば彼女の名前は長く、噛んでしまいそうな発音も含まれていたからだ。それに、何だか他人行儀な気もしていた。
だから"エリーのままでいい"と言われ、アルゼの気分は少し高揚する。
だが元の位置に座りなおしたエリエファは、改めてアルゼを見ると驚いたように声をあげた。
「ちょっと、どうして川に来る前からそんなに濡れてるの!? びしょびしょじゃない! 包帯も!! 早く取り替えなきゃ!」
後半のエリエファの言葉を聞き、アルゼの気分は一気に急降下する。
左腕に隙間なく巻かれた包帯に右手を添え、愛想笑いのようなものを浮かべた。「別に……平気だよ」と、呟いた。




