第一章 境界越え 1.
緑と畑。
どこを見渡しても、広がるのはその二つだけ。そこに住む人々は少なく、ゆったりとした時間が流れる。そんな小さな小さな田舎の町で、一人の女性の声が響き渡った。
「アル? アルゼ!! またどこか遊びに行っちゃったのかしら……」
ふう、と女性は一つ溜息をつき、改めて辺りを見回す。
そこは彼女の家の中。質素な家で、飾り気はほとんどない。だが整理整頓が行き届き、これから客でも招き入れるのかと思わせる程に片付けられている。
彼女は探し人、アルゼを探そうと二階へと繋がる階段に足を掛けた。階段の一つ一つの端には、彼女の好みなのか、赤い小さな花が鉢植えで飾られていた。彼女はそれを蹴らないように避けながら、二階へ辿り着く。
「アルー?」
女性はそこでも探し人の名を呼んだ。が、返事はない。彼女は苛つきに駆られ、すぐ脇にあった窓を力任せに開けた。
元々、それほど力を入れなくても開く窓。外側に向かって扉のように開いたガラス窓は、勢いに乗ってスイングし、外の壁にガンッと音をたててぶつかった。
「危ねっ!?」
急に家の外から、焦ったような声が聞こえた。女性は不審に思い、窓の外に身を乗り出してみる。右、左、下を見ても何もない。最後にふと上を見上げると。
「何か呼んだかよ、母さん」
「きゃっ!! 何してるの、アル!」
そこには彼女が先程からずっと探していたアルゼ――息子が、木の枝に寝そべるようにしていた。彼はそこから器用にくるりと体を回して枝に逆さまにぶら下がって見せ、窓から身を乗り出した女性に顔を近づける。
「何って言われてもー、俺はただ急いでミラおばさんのとこに行こうとしてたわけでぇ」
アルゼは悪気もなく語尾を延ばし、ふざけながら答える。
「何がミラおばさんよ。よく言うわ、母に向かって」
女性、ミラは近づけられた顔に軽い平手打ちを加えながら室内に身を戻す。
ミラはもう、十八年もこの突拍子もない息子の行動に付き合っている。慣れてきたつもりではあるが、やはりまだまだ息子には付いていけない。いないと思って探し回れば、手伝いもせずに遊びに行っていたり、今回のように考えもしない所からひょっこりと顔を出したりする。
そんな息子の行動には、半ば諦めがついていた。
「ほら、そんなとこにいないで手伝いなさい? 夕飯の分の魚を獲ってきて頂戴」
逆さのまま悪ガキのような笑顔を見せていたアルゼはその瞬間、げ、とでも言うように露骨に嫌な顔をする。
やっぱり手伝いさせられるんだろうな、と覚悟はしていた。母の顔を見た瞬間からそれは十二分に解っていたのだが、嫌なものは嫌だ。
「嫌ならいいのよ? 夕食のおかず、なくなるだけだから」
アルゼの嫌そうな顔を見て、ミラは彼の性格を理解した上で、笑顔で言う。彼女の思う通り、アルゼは"え、"と驚いた顔をして「晩メシ……」と呟いている。
「くそ、しゃーねぇ。魚入れる壺、どこにあんだっけ?」
アルゼはミラが身を引いた窓から、器用に家の中に滑り降りて来る。その様子をミラは呆れながら、そして少々心配しながら見守る。
「玄関に置いておいたわ。頼んだわよ」
ミラはそう言うと、仕事があるのか、すぐに階段を下りて行った。
元々、二階にはアルゼの部屋と寝室、それに物置くらいしかない。ミラにとっては寝るときと掃除するとき以外、ほとんどここに用事はない。
そんな彼女の背を見えなくなっても、アルゼは嫌そうな表情を崩さなかった。
「はーぁ、さて……行くか」
アルゼは見るからに仕方なさそうに、右手で軽く乱れた髪を梳かしつつ階段を降りて行った。




