2-12
「……話はまとまったようだな。ま、無難な判断だ」
走り去る小さな二つの影を悠々と見送り、ロゼルグはアルゼを見据えた。
「ジスはこの森を良く知ってる。見失えば、アンタに見つけられるかわかんないよ?」
「馬鹿な。さっきだってちゃんと見つけてやったじゃねぇか。鍛え方が違う。お前らド素人の考えなんて、全てお見通しだ」
「……っ、嘘だ」
「嘘じゃねえ。ド素人の考えることは皆同じだ。大抵逃げるパターンは決まってる。大体がわかれば音を聴く。例えば足音。例えば呼吸音。わからねぇとでも思ったのか?」
「……」
アルゼには返す言葉がない。ただ、その男は全く違う世界の住人なのだと感じた。
「俺とアンタは一緒にいるべきじゃない」
「まだわからねぇのか? 今言った。ド素人の考えは皆同じだ。あの連中だってそこまで馬鹿じゃねぇよ。つまり俺から離れた瞬間、お前は捕まる。つまり、死だ」
アルゼの脳裏に、ふと故郷で見た黒髪の少女が思い起こされる。
この男といなければあの少女に捕まり、そして殺されるというのか。
「どうして俺を守ろうとする? どうして殺させようとする? 一体どんな事情か知らないけど、用があるのは俺になんだろ? あの子たちは関係ないだろ!?」
ナイフを持った左腕が震える。戦い方なんて知らなかった。まして敵意を持って刃物を人に向けたことなどありようもない。
こうして刃物を向けることで少しでも安心感を得ようとする自分がたまらなく惨めだった。
「ぐだぐだ言ってんじゃねぇよ。あのガキを苦しめたくないだろ? いいか、ここだ。そのナイフの構えは間違ってる。水平に構えて――」
「うるさい! あの子たちを諦めないなら、俺がアンタを殺してやる!」
全ては勢いだった。
理由も語らず、ただ自分に罪を犯させようとする目の前の男を退けたかった。
だが思わず口を突いて出たその台詞は、大きな衝撃となってアルゼに返っていた。静まりかけていた左腕の熱が、ざわりと沸き立つ。
「……ほう? 殺してやるときたか」
ロゼルグはさも面白い話を聞いたかのようにニヤリと相好を崩す。
「殺すのが嫌なくせして逃げず、遊び回って、揚句に殺すのか」
「あぁ、俺は人間の命の危機ってやつをわかっちゃいなかったんだ。今まで人の生き死になんて考えたこともなかった。アンタが言う『殺せ』だって、どっかで冗談だと思ってた。……けど、アンタを殺そうとしてる今なら、少しはわかる……ような気がするよ」
「そうか。なら、俺も少しは本気出さねぇとな」
ロゼルグは手ぶらのまま、ほんの少し腰を落とした。アルゼを煽るようにニヤつきながら、彼の動向を探る。
一方のアルゼは、何の前触れもなく溢れてくる喜びに戸惑いを感じていた。
楽しい。いや、楽しみ?
人を殺したその先に、一体何があるというのか。
左腕に宿る熱が増した。
浮遊感に包まれるような感覚。頭がぼうっとして、視界がぼやける。
そのぼやけた視界ににロゼルグのシルエットを映しながら、ナイフの柄をぎゅうと握り直す。
「お?」
「……ナイフは水平、なんだろ」
「よくできました」
賞賛の言葉を吐きながら、ロゼルグはアルゼに掴みかかった。
アルゼは伸ばされた腕を叩き落とし、するりとロゼルグの背後に回って見せた。機械的に左腕を振り上げ、そのうなじめがけてナイフを振る。
「いい動きだが、体が着いてってねぇようだ」
ロゼルグはアルゼの行動がわかっていたかのように動いていた。
アルゼが背後に回り込むと同時、反射的に体を反転させて自らの頭上に振りかざされたナイフを腕ごと掴んでアルゼを地に引き倒す。
「ぐ、っ!!」
アルゼを包んでいた浮遊感が急速に薄れ、顔面が地面を這う根に叩きつけられる瞬間がやけにゆっくりと見えた。
次いだ頬が地面を転がる石に擦り付けられる感触は、ほぼ麻痺していた。
森の柔らかい土がアルゼの口内にまで侵入し、苦さと息苦しさを禁じ得ない。
ロゼルグはアルゼの握るナイフをその左手ごと踏みつけると、躙るように足を動かした。
「ぅあっ――、げほ、げほごほっ」
「どうだ、ちょっとは殺す気になったか」
アルゼは立ち上がろうと右手を地面につくが、それは傷のせいで強烈な痛みを発し、体重を支えることができない。
地面に臥す自分の上、見下した態度でこちらを見る男の顔を想像するだけでアルゼは恐怖に体が竦んだ。とにかく起き上がらなければとそれだけが思考を掠め、痛みに震える腕を再度土に突き立てる。
「――がっ!!」
立ち上がろうと足掻くアルゼの頭を、ロゼルグの強烈な蹴りが襲った。頭皮が切れたのか、そこからバッと赤い液体が散る。
仰向けに転がったその体に、ついでとばかりにロゼルグが足を振り下ろそうとした時。
「フォーラ!」
焦燥を隠しきれない、しかし幼い声だった。
「やめて! アルおにいちゃんいじめちゃやだ!!」
「……フォー、ラ、……ぐっ、なんで」
茂みから飛び出して来たのは、ジスに託して逃がしたはずの幼い少女だった。
少女は必死にロゼルグの足を留めようと、全身を使ってそれに飛びついた。
「やだ、やだよう、アルおにいちゃんもいっしょ! いっしょじゃなきゃやだ!」
「おいおいローラちゃん。今は君の出番じゃぁないよ」
ロゼルグは呆れたように少女に掴まれた足をぶらつかせている。
「アルおにいちゃんをいじめないで!」
それに離されまいとしがみつく少女の涙のからむその声が響き、アルゼは焦りと苛立ちに駆られた。
ロゼルグの足元から転がるように逸れ、フォーラをそこから引き剥がした。
「何で戻って来た! ジス、ジスはどうした!?」
「うあぁ……アルおにいちゃん……っ」
フォーラの目から涙が溢れ、アルゼの胸元に縋り付く。その顔を上向けさせながら、アルゼは少女に怒鳴る。右腕の肌色をほぼ覆っていた赤が、べったりと少女の顔に移った。
アルゼは何もかも、確実に兄妹の助かる全ての道が閉ざされていくのを感じていた。
――今まであった助かるための道、それさえ希望を見ようとしたアルゼの幻覚だったのかもしれなかった。
「フォーラ!」
フォーラが飛び出した茂みから、ジスが少女を追って姿を表す。
慌てて妹に近づこうとするがしかし、その場を見て硬直した。
どう見てもそうはさせない位置に、アルゼと妹、二人の間近にロゼルグが立っている。
「ジス、お前まで……っ」
アルゼは今まで、本当に狙われているのはお前なんだと、ジスに対し告げることはしなかった。あくまでも妹を守れと、そう励ますことで彼は強くなれると思っていたのに。
ここにきてそれが仇となった。ジスは妹を助けようと、妹が危ないのだとそれだけを考え、この場で身を晒してしまった。
ぎり、と歯噛みする。
「お前が折角体張ったのになぁ。また元通り……いや、それよりも悪いか」
少女を抱き寄せながらも、自分が踏みつけたために動きの鈍いアルゼの左手に視線を落とす。その手には、すでにナイフはなかった。
少女を背後に庇いながら、じりじりとジスの傍へ行く機会を窺うアルゼを見て、ロゼルグは盛大に溜息を吐いた。
「仕方ねぇ、初心者に特別サービスだ。俺が殺す。お前は見てろ」
「――っ!!」
ロゼルグは緩慢な動作で足元に落ちたナイフを拾い上げると、くるりと向きを変え、アルゼとフォーラに背を向けた。
標的は、もちろん。
「ジス! 逃げろ!!」
アルゼは声を上げ、使えない両手を放棄してロゼルグに背後から突撃。バランスを崩させ、一秒でも時間を稼ごうとした。
しかし、
「おっと危ねぇ」
アルゼのその判断は
「やべぇ、バランス崩れて――」
誤っていた。
「え――?」
避けることもせず中途半端にアルゼの体当たりを受けたロゼルグは、ふざけた笑みを浮かべながら不自然に足元を乱し、体を反転させた。
絶大な恐怖に包まれながら場を見ているしかなかった少女が、その目の前にいた。
「ぁ、」
――トスッ
意外にも軽い音を立て、ロゼルグの突き出したその刃は少女の胸元に突き刺さった。




