2-11
その男は、右手に煌めきを携えて凄絶な笑みを浮かべていた。
ざくり。
ざくり。
あまりに大げさな足音をたてながら、それは近づいて来た。凶悪なまでに威圧感を放ち、それはじりじりと後退せざるを得ない三人の足を拘束した。
「手間ァかけさせやがって。礼はきっちりしてもらおうか」
「自分で逃がしといてこっちの所為みたいな言い草、やめて欲しいね」
「おいおい、強がりか? 足が小鹿みてぇに震えてるぜ」
夜の森は闇に閉ざされ、視界は零に等しい。それでもアルゼは、その男が浮かべる酷薄な笑みを見ているような感覚に苛まれる。それが自分を見つめていることを、鮮明に感じていた。
事実、ロゼルグが告げたようにアルゼの足は震えていた。必死に抱きかかえる小さな少女さえ、いつ取り落としてもおかしくはない。
ぐ、とその小さな背中に更に力を込めた。
「やることはわかってんな? お前はこのナイフを受け取り、振り下ろせばいい。初心者なんだろ? わかってる、何も難しいこた言わねぇ。お前はこいつを振り下ろす、ただそれだけだ」
ごく自然な動作でロゼルグは近づいて来る。もはやそのシルエットは、アルゼにも完璧に視認することができる。
逃げなくては。
焦る程に、体は何かに縛り付けられたかのように動かない。迸る恐怖は、体を押さえつける重みとなってアルゼを襲う。
それでも何とか地面から足を引き剥がし、中腰の体制で僅かずつでも後退する。
「あ、アル……っ」
引かれる感覚に、右腕が鋭い痛覚を放った。けれどそれに気を取られるわけにはいかない。すがるように手を握るジスの存在を感じながらも、アルゼはロゼルグから視線を逸らさない。
「いいね、嫌そうだね。それに……欲しそうだ」
ふいにロゼルグが三人を追い詰める足を止めた。
「……え?」
「いつまで良い子ちゃん振ってるつもりだ? 素直に貰っておけ。湧いてくるだろ? 溢れてくるんだろ? こいつへの執着が。それこそがお前らの、存在証明だ。俺に見せてくれ」
その瞬間、自分という存在さえも飲み込むような勢いで心が波立つのを、アルゼは感じた。
――自分が見つめていたのは、敵たるロゼルグではなかった。その煌めきに、その輝きに、視線は奪われていたのだと気づく。
「が、ぁ……ッ!!」
「アルおにいちゃん!」
急激に体制を崩して地面に膝をついたアルゼに、フォーラが焦ったように声をあげる。自分を支えていた彼の左腕から力が失われ、拠り所をなくした体は地面に転がった。
少女は心にめ一杯に恐怖を詰め込まれ、立ち上がることもできずに寝そべったままその名前を呼ぶことしかできない。
アルゼは左腕を抱え込むように体を屈め、小刻みに震えている。
「おにいちゃん、アルおにいちゃんが、どうしよ、どうしよう!」
「フォーラ、落ち着いて! 落ち着け、落ち着くんだ、……おれ、おれが、」
土の上に四つ這いの体制で自分を頼ろうと伸ばされた手を掴んで、ジスは自分に言い聞かせるように呟く。
今は自分が、妹を、大好きになったこの人を、守らなくてはならない。
「く、はは……!! やっぱり、やっぱりそうなんだな! ハ、ハハハハハハハハ!! できるだろ? 今なら、お前なら!! 受け取れ、こいつをお前にくれてやる!!」
ロゼルグは三人に向けてナイフを放った。
「うわっ」
「きゃっ!」
自分たちを標的にしたかのように飛来したナイフに、子供たちは互いを引き寄せ合った。
それはロゼルグの狙いを逸れず子供たちの横を掠るように滑空し、顔を俯けるアルゼの足元、丁度彼の落とされた視線の先に当たる地面へと突き立った。
「……っ」
唐突に視界に割り込んできたその煌めきに、アルゼは息を呑む。
抱え込む左腕が、触れがたい程に熱を持っていた。腕を焼き尽くすかのようなその熱が正気を奪っていくようだった。
アルゼの耳から、楽しげに響く笑い声と必死に自分の名を呼ぶ声とが遠のき、視界がブラックアウトした。
――ドクリ。
既視感が襲った。
以前にも味わった感覚。
これは、夢だ。血生臭い、絶望的な夢だ。瞬時に理解した。
――ドクリ。
まただ。
おぞましい。気持ち悪い。
その真っ赤な空も、今にも吐きそうになる臭気も、あの時と全く同じだった。
「夢だ!」
その幻影を打ち消すように、叫んだ。
呑み込まれてはいけない。自分は自分であることを、忘れてはいけない。
「――かはっ、はぁ、はっ、は……っ」
目覚めた瞬間、アルゼは呼吸を再開した。荒く肩を上下させて息を吸う。知らぬ間に呼吸を止めていた。
「何だってんだ、ちくしょう!」
呼吸を忘れる程にアルゼを引きずり込むその夢は、相変わらずの後味の悪さを残して消えた。じわりと余韻を残して、左腕の熱が少しずつ引いていくのを感じる。
「ちっ、そう甘くねぇってか」
ぽつり、ロゼルグが呟いた。彼はつまらなそうに意味もなく自分の髪を掻きまわす。
「ぁ、アルおにいちゃん……?」
唐突に叫んだアルゼを、フォーラが覗き込むように窺う。
「ごめんフォーラ、大丈夫だよ」
アルゼは意識して表情を和らげ、その小さな頭を一つ撫でて抱擁し、ギリ、と男を睨み付ける。あれ程感じていた、彼からの威圧感が全く感じられなくなっていた。
ロゼルグは落胆したように木に体を預けて立っていた。アルゼにはその表情を読み取ることはできなかったが、少なくとも、今すぐ襲ってくるような気配はない。脱力したその体制で、あらぬ方向を見ている。
それを確認し、アルゼは安心したように腕の中で少女から力が抜けるのを感じると、体を離し、ジスの傍へ寄せた。
「ジス、お前は兄貴だろ。怖がってるばかりじゃダメだ。あの人は俺が何とかするから、それまでフォーラを守るんだ。いいかジス、お前にしかできない」
ジスの目を見つめて言い聞かせる。
「……アルは」
妹の命を預かる。
ジスはその凄まじいまでの重責を、初めて感じていた。二人、森の奥で過ごすことくらい訳もないと思っていた。
間違っていたのだ。
一つの命を守ること、その重みがどれ程のものなのか。
アルゼは、二人を右腕を傷つけてまで守ろうとした。
守るというのは、すなわち。
「俺はいい。よくわからないけど、あの人に俺は殺せない。まぁ、少しくらい怪我はするかもしんないけど……大丈夫。ジスは、フォーラのことを考えるんだ」
「うん」
「良い子だ、合図したら走れ」
ジスの瞳から迷いが消える。
アルゼを残して逃げる。それがフォーラを守るために必要な行動なのだと理解した。何があっても守らなければと、それは両親に妹を託された時。もう随分と前のように感じるが――自分は確かに決めたのだ。
アルゼがフォーラの背をそっと押すと、ジスは彼女をしっかりと抱きかかえた。
「フォーラ、おれが守るからね」
「おにいちゃん……!」
ジスはフォーラを抱き寄せたままゆっくりと後退していく。
それを視界の端で確認し、アルゼは足元に突き刺さったままのナイフを拾い上げた。それをゆっくりと持ち上げ、構えた。
油断なくロゼルグを睨み付け、そして。
「逃げろ! ジス!」
声を張り上げた。それを合図として、幼い兄妹が真っ暗な森の中へと駆け込んだ。
「おにいちゃん!?」
戸惑ったようなフォーラの声を残し、二人はあっという間に姿を消す。
すぐにガサガサと枝や葉を掻き分ける音が遠ざかり、ロゼルグとアルゼの間に静寂が落ちた。




