2-10
足元の土が、葉が。視界を邪魔する木々が、枝が。
何もかもが彼の前進を邪魔していた。
「アル、痛いってば!」
「ジス、ごめん静かに!」
自分が何の加減もなく引っ張る腕に痛みを訴える幼い声に、優しく返事をしようと気を配ることすらできない。
アルゼは、焦っていた。どうしようもなく、答えは見えず、ただひたすらに。
邪魔な木々のお蔭で存分に走ることすらままならない。いくら田舎町で育ったとは言え、夜の森には入らないのが鉄則。頭上に輝く月も星も、木々の葉に遮られて少しも足元を照らしてはくれなかった。
進めないのは、何も木々が邪魔するせいだけではない。
命の危機。
初めて明確に感じるそれは、恐怖を恐怖とさえ認識できない程に強大な塊となり、アルゼを襲う。それが更なる焦燥を生み、恐怖を助長した。そうしてそれらが、アルゼの足の動きを鈍くする。
おまけに覚悟して受けたはずの傷は広範囲に及び、だらだらと血を垂れ流しているのがわかる。
腕を伝い、掌を伝い、指を伝って繋いだ先のジスの手さえ汚していることも。
左腕に抱え直したフォーラは、強烈な揺れと耳元で幾度も響く悪態にぐずついていた。
アルゼは幼い兄妹の手を引きながら、なんとかこの状況を切り抜けなければならない。
頭を使うことは、すでに放棄していた。元々頭を使うことは苦手だった。
――そんなことよりも、頭はあの煌めきを思い出すことに使われていた。
星の光を反射した瞬間の、鈍く瞳を焼いたあの輝き。
たまらない。
「畜生!! 足だ、足を動かせ!」
幾度も脳裏に蘇る刃物は、頭を振って無理やり追い出した。何を執着しているのか、自分でもわからない。あるいは初めて見た殺意を込めて向けられる刃に、恐怖しているのかもしれなかった。
心は恐怖に陥り、頭はひたすらあの輝きを求めた。
それらは一つの身体に治まりながらも、さながら別人のようだった。
「アル、何なのあのおじさん! おれたちを、ころすの?」
焦るアルゼとは歩調が合うはずもなく、ジスはアルゼの右腕にすがって必死について行こうとしている。
「もっと急いで! っ、引っ張るな、傷が、……っ」
「ご、ごめん……」
ジスの幼い心の中には、暗くてよく見えなかったはずのロゼルグの笑みが焼き付いていた。
そこから滲む鮮烈な恐怖。
ただただ逃れたいと願いながら、アルゼの腕にすがるしかない。頼って握りしめたその手には、ぬるくべとついた液体が絡みついていた。
息が上がり、必死で酸素を吸いこんだ。幾度も滑りそうになるその手を必死で掴む。
ジスは、兄だった。妹がいた。
しかし無力だった。逃れる術さえわからない。頭は真っ白で、何かを考えようという考えすら浮かばない。
「んん……アル、おにいちゃん?」
「フォーラ!」
それでも妹の声に、反応することができた。
寝起き相応の不機嫌さを含んだその声が、ジスに少なからず勇気を持たせた。
「起きちゃったか……」
アルゼはその声にかける言葉が見つからない。ただ、少し。
ほんの少しだけ、まずい。と、思った。
フォーラは目覚めた瞬間からの状況の不可解さからか、怯えた表情を浮かべる。
「おにいちゃん、アルおにいちゃんも。どうしたの? ねぇ」
あまりの二人の真剣さに不安を感じ、フォーラは目の前にあるアルゼの服をぎゅうと掴む。
「ごめんフォーラ、後で話すから」
フォーラを支えるアルゼの腕に、力が込められた。
子供は好きだ。大好きだ。
けれど自分には、何も考えず一緒に遊ぶことしかできない。昼間も今も、こうしてどうにか逃れる方法を探そうとしているのに、脳はそれに集中すらしていなかった。
「アルおにいちゃん、やだよ! 怖いよぅ……」
「フォーラ、わがまま言っちゃダメだ。アルにちゃんとつかまって」
恐怖を訴えるフォーラに、ジスは少しでもそれを拭おうと声をかける。守るべき妹の存在が、助けを求めるその声が、ジスの恐怖を尊い存在を守る覚悟に変えた。自分に言えることが他人に頼り切りであるのには、少なからず情けなさを感じた。
感じられるだけの、余裕が出てきていた。
「でも」
「フォーラ」
「わかってる、怖いよな。わかってるから。大丈夫、だから」
幼い兄妹が支え合おうとしている声を耳にしても、アルゼにできるのは気休め程度の返答しかない。この状況で、一体何が大丈夫だと言うのだろう。口を出た瞬間から自分で疑問を感じる程度の言葉で、ジスやフォーラから不安が少しでも拭われるとは思えなかった。
そもそもそれは追い詰められていることを感じている自分のための言葉で、本当に自分に兄妹を気遣う気持ちが残っているのか、アルゼにはわからない。
後ろを振り返る。真っ暗な森の中、視界は極度に狭く、追って来ているはずの影は見えない。
「アル?」
足を止め、ずり落ちそうになるフォーラの身体を抱え直す。乱れる呼吸を無理やり静めて目を閉じ、耳を澄ませた。
足音も、木々や葉を動かす音も聞こえてはこない。
「こっちだ、隠れてやり過ごそう」
体力はそうもたないことを感じたアルゼは、目に映った木の影にジスを連れ込む。
フォーラの体を抱え直し、不自然な体制で根元に身を屈めれば、地面から伸び放題の草が顔をつついた。鬱陶しいが、不自然な草木の揺れを引き起こすわけにはいかなかった。
「いいか、隠れんぼだ。動かないで。喋ったら見つかっちゃうからね」
腕の中に声をかける。
少しも軽減されない不安と恐怖に、フォーラは目を潤ませながらこくりと頷いた。
「息、整えてな。大丈夫、見つからないから。絶対」
「……っ、うん、わかった、大丈夫」
自分に続いて座り込んだジスに小声で言い聞かせる。無理やりアルゼのスピードで引きずったせいか、ジスの表情は苦しそうに歪められている。
それでもアルゼに従い息を整えようと胸元に手を置くが、追われている、という現状の怯えからか震えが止まらない。
顔色は青白く、言い聞かせるアルゼの顔を正面から見つめ返すことができなかった。
「アル、大丈夫だよね? もごっ」
「ダメだ静かに」
少しでも安心感を得ようと、ジスは無意識にアルゼに何度でも尋ねた。
アルゼは幼く懸命な声を、その口を塞ぐことで遮る。木からそっと身を乗り出し、後方に意識を集中させて様子を窺うも、相変わらず何の変哲もない森の夜しか感じ取ることができなかった。
「追って来ないわけ、ないよな……」
「そりゃあ勿論そうさ」
「ッ!!?」
びくりと体が震えた。
唐突に、その声は響いた。
後方を気にしていたアルゼとジスの、その背後。
アルゼの背中を冷たい汗が流れ、動きが一瞬停止する。だが内面から突き上げてくる焦燥感に急かされるように、バッと音を立てて背後を振り向いた。
フォーラを抱く腕に、ジスの手を握る手に、力が籠る。
「お前には、ジスお兄ちゃんを殺してもらわなきゃならないからな」
あの煌めきを手遊びしながら卑しい笑みを浮かべたロゼルグが、立っていた。
「な、ん……っ」
「なんで、なんて野暮な質問はなしだ。俺は苛々している。もうちょっとくらい付き合ってやってもいいと思ったんだがな、思ったより虫が多い。面倒くせぇ、さっさと始めるぞ」
「嫌だ! 俺は殺さない、あんたにも殺させない!」
「いつまで我儘言ってやがる。お前に選択肢はねぇんだよ」
ロゼルグはさもつまらなそうに頭を掻いた。
「やれやれ、お子ちゃまの面倒見るってぇのは、存外大変なもんだ」
「おじ、さん……?」
兄と、アルゼ。
そしてロゼルグ。
三者の態度は明確に対立していた。久し振りに家族以外の人とお話ができた。と、あれ程に二人を歓迎していたはずなのに。
不安と戸惑いからフォーラは兄に視線を向けるも、見つめ返してくれることはない。目の前の茶色く汚れた服を、ぎゅうと掴む。
「そう怖がるなよ、ローラちゃん。本当に怖いのは、その大きいお兄ちゃんだぜ? 何せ今から、君のお兄ちゃんを君から奪ってしまうんだ」




