2-9
――パキッ、ザリッ
びくりとアルゼの肩が跳ねる。
そんな森の中独特の足音が近づいてくるのが聞こえた気がした。
洞穴に入り、座って一心地ついてもまだ興奮が冷めずにアルゼに話しかけ続けていたジスも、森が完全な闇に包まれるとすぐ眠ってしまった。
安心しきって眠る兄妹を横目に、けれどもアルゼにはその寝顔を眺める余裕はなかった。
「どうにかして、二人を逃がさないと……」
同時に自分も逃げられれば上々。いざという時には、自分がどうなってでも二人を守らなければならない。そんな強い思いを抱く。
「何か、方法はないのか!? あいつから逃げられて、二人に不安を持たせない方法、何か――」
「残念だけど、そんな都合の良い方法はないねぇ」
突如洞穴の入り口から響いた声に、アルゼは頭が真っ白になる。指先まで硬直し、内臓の代わりに恐怖を目いっぱい体中に詰め込まれたような感覚に陥る。視線一つ自分の意志で動かすことができない。
「何全部を平和に片付けようとしてるんだ? 何故不安も持たせない方法を模索する? どうしてなりふり構わず逃げなかったんだ? ……こうなることくらい、わかるだろう?」
諭すような穏やかな口調で、入り口の男が流れるように喋り出す。
まるで長年油を差されていないロボットのようにぎこちない動きで、アルゼは視線を無理やりその男の影へと向けた。
「……っ、……!!」
何かを言おうとしたアルゼは、しかし上手く喉に息を通すこともできない。
見上げる影は、右手に少ない星々の光さえ反射する『何か』を携えていた。それが何かなんて、考えずともわかった。
小さい頃から、ずっと使っている。狩りを手伝いに山へ出向いた際も、畑で農作業をする際も、アルゼはそれを持っていた。むしろ手に馴染む代物。
「おや? アルゼ君。どうしたんだい、そんなに必死な顔をして。迷子になって怖かったのかなぁ? ……ク、クククッ」
ロゼルグは右手のそれを星明りに煌めかせ、眼前に掲げて見せた。自分の顔に笑みが広がるのを止められない。
楽しい。楽しくて仕方がない。
暗がりであっても良く見えた。あの少年が恐怖に顔をひきつらせ、こちらを凝視するしかないその醜態が。
「さて、結末の見えた鬼ごっこは終わりだ。ここから始まるのさ。俺とお前だけに許された、一方的な殺戮が……な」
「……何が、何が許された殺戮だ! そんなものはお前の幻想、思い込み、自己陶酔でしかない! この世にそれは存在しないってこと、教えてあげようか?」
「うーん……アル? どうしたの?」
声が震えそうになる。アルゼの眼前に立つ男が持つ威圧感は尋常ではなかった。どうにか自分の中にある自我のようなものを掻き集めて言葉を放った。
同時に聞こえた、幼い声からも自分を奮い立たせるための力を分けてもらった。
まだ、大丈夫だ。自分はこの子たちを守らなければならないのだから。そう思えば、少しは勇気が湧いてくる気がした。
「何が教えてあげようか、だ。その言い方、懐かしいぜ」
「うるさい! ジス、起きたな? フォーラ、起きて! ……ごめん、ちょっと怖いけど。……大丈夫だから」
嫌なニヤつきを浮かべるロゼルグに怒鳴ると、アルゼは穏やかな寝息を立てていたフォーラの腕を引き、少々強引に立たせた。
案の定、小さな彼女はぐずるのみで目を覚まさない。そのまま自分の腕の中に抱きしめた。
「おいおい、そう焦んなよ。そっちじゃない」
ロゼルグは肩をすくめて怪訝そうな表情を浮かべる。
「どっちでもない! あんたに殺させやしない、ジスも、フォーラも!!」
アルゼにとって、精いっぱいの虚勢だった。奥歯を噛み砕く勢いで食いしばり、膝はガクガクと震えている。
「な、……何? アル、顔怖いよ。おじさんも、何か、変。二人ともどうしちゃったの……?」
状況を理解できないジスが、戸惑ったように声を上げた。今この状況で、どちらに近づくことも躊躇われた。
「さあ、茶番はここまでだ。そろそろ始めようか。アルゼ君、ローラを下ろせよ。お前は初めてなんだから、ちゃーんと俺が基礎から教えてやるぜ」
「――ッジス! 走れ!!」
ロゼルグが洞穴内に向かって一歩を踏み出した瞬間、ジスの手を取り、アルゼは迷わずその男の横をすれ違いざまに駆け抜けた。
アルゼはあえて向かって左、ロゼルグがナイフを持つ右手側をすり抜けた。その方が身を盾にしやすいし、左手を繋ぐジスも庇うことができると考えたための選択。
「ぐ、――っ!!」
しかしそれと同時に、フォーラを抱くアルゼの右腕に強烈な痛みが走った。だが腕を確認する暇などない。
切られた。
それで良かった。代わりに幼い二人を守りながら、男を躱すことができた。
男がアルゼの行動にどんな反応をしたのか、確認する余裕はない。何も考えず、ただ闇雲に茂みに飛び込む。
「おやおや、鬼ごっこがお好きなことで」
ロゼルグの顔面に、笑みが張り付いて離れない。剥がれてなるものか、この状況で。
少年は着々と染まっているのだ。
「あいつ、ナイフ……見てやがったな。物欲しそうな顔、しやがって」
深夜の森がにわかに騒がしくなる。
あの子を殺し終えたら、森の中の進み方も教えてやらなくちゃならないな。
ロゼルグはそう一人ごちて、音源へと足を向けた。




