2-8
もうすぐ日が暮れる。
辺り一面は夕陽の色に染まり、空には幻想的な模様が描かれていた。
澄んだ空気が作り出すその幻想的風景に、しかし見向きもせず、ロゼルグは磨き上げたナイフを満足そうに眺めながら歩を進めていた。
旅の荷物は置いてきたのか、その手には見当たらない。両手を思う存分磨き上げた刃を弄ぶことに使っていた。
「あー、我ながらほんっと頑張った。この光り具合は間違いないね。切れ味最高に決まってらぁ」
時々刃の反射光に目を細めては、ニヤニヤと口元に笑みを浮かべる。
これを手に握らせた時の顔を妄想して止まらない。一度盗みの片棒担がせたくらいで正気を失いそうになっていた少年が、ロゼルグの脳内で悲壮に暮れる。
「フフ、やっぱ初心者には手取り足取り腰取り教えてやんなくっちゃな。全く手のかかる。はーぁ、せめて女ならなぁ」
ぶつぶつと独り言を漏らしながらもその足取りは軽く、今にも走り出しそうな勢いで前へ前へと進んで行く。
「どこに隠れてんのかな? お兄さん見つけちゃうぞ……ん?」
ふと、軽快だったロゼルグの足が止まる。きょろきょろと忙しなく辺りを見回した。
「やばい。ピンチだ。…………迷った」
幼い兄妹の綺麗だった服は見る影もなく泥にまみれ、今や泥の中を引きずりまわされたアルゼのそれと大差ない。
だがそれは同時に、服が汚れるのも全く気にならない程に夢中であったことの証でもある。
「すっげぇ……同じ夕陽でも、場所によって見え方全然違うもんなんだなぁ」
アルゼとジスとフォーラ、三人は一際大きな木の枝に座っていた。
さすがに三人が同じ枝に座るのは不安があったため、ジスだけが二人を離れ、幹を挟んだ向こう側の枝に腰かけている。
その手の中に、オレンジの実は見当たらない。
「行く場所、全部おれに任せてせいかいだったろ? アル!」
ジスはアルゼに向けて満面の笑みを浮かべる。はしゃいで、遊んで、満ち足りた笑顔。
「あぁ、どこもすっげぇ楽しかったよ」
アルゼはジスに連れ回された数か所を思い浮かべながら、心からそう答える。
事実、二人を連れ出す理由だのこれからどうするだのと、ごちゃごちゃ考えようとするのがバカバカしくなるほどに、アルゼは楽しんでいた。
楽しんでばかりはいられないと、せめて思い出した瞬間には頭を悩ませたりもした。
すぐに幼い二人の笑顔に引きずられて楽しんでしまったが。
それからずるずると結局何も思い浮かばないままここまで来てしまっていた。まだ帰らずに済むようにと、木登りと夕陽観賞会を提案したのはアルゼだった。
つまりアルゼにとって今は、のんびりと会話を楽しんでいる場合ではない。
「いい眺めだよ、ほんと……」
胸中で、いつまでも沈まなければもっといい景色、というか夕陽大好きになる俺。などと付けたしながら、アルゼは考え続けていた。
何か考えなければと焦れば焦るほど、落ちないようにと足の間に座らせたフォーラの腹を抑える手に力が加わってしまう。
こんなにものを考えたことなんて、アルゼにとってはこれが初めての経験かもしれない。
働かせすぎて、脳がショートしそうだった。
「ねぇ、アルお兄ちゃん」
フォーラが眺めていた夕陽から目を逸らし、真上にあるアルゼの顔を見上げる。
しかし頭を限界まで回転させているアルゼには聞こえないらしく、彼は胡乱気な瞳で夕陽を見つめ続けていた。
「いたた、アルお兄ちゃんってば。力はいりすぎだよ」
アルゼが無意識に締め付けていたベルト代りの腕を、フォーラが力任せに叩く。
「え? あ、うわぁッ!? ごめん!!」
思考の海、というより既に思考停止してぼんやりしていたが、アルゼはフォーラの訴えに目を醒まし、慌てて腕の力を緩める。自分を見上げるフォーラに、意味もなく苦笑いを向けた。
「ねぇ、アルお兄ちゃん。たのしかったね! フォーラ、おかしも作りたかったけど……、やっぱりあそんでよかった! かえりたくないなぁ」
「それだ!!」
フォーラのつまらなそうな声から、アルゼは思い切り活力を得た。
帰りたくない、だって? そんなセリフがこんなタイミングで聞けるとは思わなかった!
「もう、フォーラ最ッコー!!」
「え? なぁに?」
アルゼは思わずフォーラの頭を撫でまわして頬ずりする。
フォーラはアルゼの豹変振りに呆けたが、すぐに嬉しそうなアルゼに釣られて笑顔を作った。
「よーし、ジス、フォーラ! 今日は帰らないぞーっ!!」
「ほんとかよ、アル!」
「でも、よるはもりの中、あぶないんだよー?」
あまり乗り気のしない返事をしたフォーラだったが、その顔は期待に満ちている。
「留守にはさ、あのおっさんがいてくれるって!」
あんなヤツの近くより、森の中の方がよっぽど安全に思えてくる。アルゼは二人の気を削がないようにと勢いこんで尋ねた。
「なぁ二人とも、この近くに眠れそうなとこ、ないの? 洞穴とか、なんかそういう風よけっぽいとこ!」
慌てて発言したせいで要領を得ない言葉になってしまったが、幸い幼い兄妹は乗り気であって。
「アル、この森ん中で、おれが知らないことなんてないんだからな」
ジスは得意げに笑って見せた。
三人が歩き始めて、”おいしいクッキーが焼けるくらいの時間”をちょっと過ぎて、木の上で見た夕陽が完全に姿を消した頃。
案内人として前を歩いていたジスがの足が止まる。
「へぇ、さすが大自然は違うな。思ってたより全然いい宿じゃん」
アルゼが感心したように見上げて言えば、ジスの照れたような笑顔が、薄闇に浮かんだ。
「当たり前だろ? おれに任せてよかったっしょ」
そこは自然に作り出された洞穴で、三人が横になってもまだスペースに余裕がありそうな広さを誇っている。
「一度も家の方向へは戻ってないみたいだし、結構奥まで来たし、逃げるとしちゃゆっくりペースだけど……こんな広い森の中で見つかるなんてこと、ないよな?」
遊んでいた間にはほとんど感じなかった危機感が、足を止めた瞬間、アルゼを襲った。
こんなことならやっぱり逃げておくべきだったのかもしれない、と今更ながらに後悔してみたり、夜中にどうにか二人を連れて森を歩けないかと考える。
今更考えてみても遅すぎる、なんてわかっていた。こんなことさえ後回しにして考えようとしていたのか、と自分に嫌気が差してくる。
「アルー? どうしたの? 入んないの?」
入口で立ち尽くしたまま考え込んでしまったアルに、すでに洞穴の奥を陣取ったジスが声をかけた。
「あぁごめん。うん、入るよ」




