2-7
窓の外に、幼い兄弟に向かい走っていくアルゼが見える。
「あー、畜生が……うっわ服がベトつく! 最悪だなおい」
ロゼルグは悪態をつきながら顔を伝う果汁を手で拭い、辺りを見回すとそれをテーブルクロスに擦りつけた。ついでにそこで顔を拭う。
ぼろぼろだが汚れのなかったテーブルクロスに、薄オレンジのまだら模様が浮かんだ。
果汁で固まりかけている前髪を軽く掻き上げると、一層濃いオレンジの香りが漂う。
「っと、そうだ。ガキは」
あらかた汁が皮膚を流れる不快さから解放されたロゼルグは、窓の外に注意を向けた。
「ほう? 本当に逃げようとしてやがる」
ロゼルグの口に、笑みが浮かぶ。
ガラス越しに見えるロゼルグが町から連れだした少年は、女の子を背負って走りだした。
「あーぁ、痣消させてやるっつってんのに。仕方ねえ、後でちゃちゃっと探しに行ってやるか。プレゼントでも持って行きゃぁ、機嫌直してすぐ言うこと聞くだろ。あ、くそ、まだしみやがる……」
果汁に痛めつけられた眼が、まだちくちくと細かい刺激を訴えてくる。ロゼルグは掌で乱暴に目を擦ると窓から視線を外し、自分が放りだしていた荷物をほどき始めた。
「やっぱ初めてだしな。簡単にナイフいっとくか? あ、錆びてら」
取り出したのは革製の鞘に収まったナイフ。鞘からはベルトが伸び、腰や腕、足などに固定できるようになっている。
鞘から抜き、長さ約二十センチ弱の刃が鈍い赤に染まっているのを見た時点で、ロゼルグは購入以来一度も手入れをしていなかったことを思い出した。
ついでにここ数年、取り出してさえいなかったような気もする。
両手に鞘とナイフを握ったまましばらく逡巡し、とりあえず初の手入れをしてみることに決めた。
「砥石持ってねぇな、お借りしますよーっと。どこにあるんだー?」
ロゼルグは再びナイフを鞘にしまうと、鞘のベルト部分を握り、ナイフごと振り回しながら部屋を出た。
「フフ……みんな、喜ぶかね?」
――――
「おそいよ、おにいさん」
駆け寄ってきたアルゼに可愛らしい膨れっ面を見せながら、フォーラが少しすねた口調で訴えた。
二人は低い場所に実ったオレンジを収穫し、ジスはそれを腕いっぱいに抱えていた。
「ごめん。いいやつ採れたか?」
「当たり前だろー? 父さんが植えて、おれが育てたんだぞ」
ジスは嬉しそうに言って、自分で収穫したオレンジの実をアルゼによく見せようと、背伸びして腕の中のオレンジを差し出す。
「うん、いい色してる。美味そうだな」
自由に動かせるようになった左手で、軽く差し出されたオレンジの表面をなでた。
「とうぜんだし!」
ジスの笑顔を見ながら、アルゼは安堵した。
よかった。ちゃんと俺、笑顔作れてる。この子達を不安にさせちゃいけない。何て言えばいい? 早く二人をアイツから遠ざけないと――!!
「そうだ、ジス、フォーラ。俺、ここの森は初めてなんだ。どっか面白いとことか、ない?」
焦るあまり、ありがちで少し嘘くさい言い訳になってしまったのは、この際仕方がない。
アルゼは口に出してから後悔したが、ジスは疑いなく目を輝かせた。
「お兄さん、ここの森、行くとこいっぱいだよ! フォーラといっぱい遊んだしね」
「本当? いいね、俺も連れてってよ。おっさんは置いてっちまおう」
いたずらっぽく笑ったアルゼに、ジスはすぐに収穫したオレンジを三つ手に取ると残りを木の根元に放り出し、あっという間に走りだした。
「おにいちゃん、オレンジこんなとこに置いちゃだめだよ」
アルゼはフォーラの手を握り、オレンジを拾い集めようとするフォーラを留めた。
「フォーラ、ジスが見えなくなる。行こう? 拾うのは帰ってきてからでも大丈夫だって」
「でもおにいさん、フォーラおかしつくりたいよ」
「あ……ええと……」
アルゼは言葉に詰まる。
フォーラにしてみれば、ずっと楽しみにしていたオレンジの収穫を途中でやめさせられてしまうという、面白くない事態。遊ぶことは好きであっても、納得がいかなかったのかもしれない。
「帰って、きたら……そしたら、作ろう。な。おんぶしてやるよ! ほら」
「……うん」
仕方なさそうにではあったが、フォーラも森へ入ることに納得する。
アルゼは背中に乗せたフォーラの足を掴み、フォーラが肩に腕を回した感覚を確かめながら、念を押す。
「ちゃんと掴まっててな?」
「うん」
視線がいつもよりずっと高くなったことに気分をよくしたのか、フォーラの声が少しだけ弾む。
ぎゅっ、と更にフォーラの力が強まったことを確認し、アルゼはジスの待つ方向へと走り出した。
「おーい! ちょっと待ってよ、ジス!」
ジスはアルゼとフォーラが駆け寄って来たのを見るとすぐ、脇の草むらに飛び込んだ。
「お兄さん、こっち! 最初は川からねっ」
ジスははしゃぎながらどんどん進んで行く。
アルゼがフォーラを背負ったままそのスピードについて行くのは難しかったが、お兄ちゃんとしての自覚なのか、定期的にジスは立ち止まり振り返ってくれる。
最初は川から、とジスは言ってくれた。だがそれが意味するのは帰る時間が先延ばしになる、ということだけ。どうせいつかは帰ろうという話題が出ることは避けられない。
川に到着するまでに、アルゼは家に帰らない理由を考えなくてはならなかった。
「フォーラ、お兄ちゃんが目指してる川って、着くまでどれくらいかかるの?」
アルゼは自分の考えられる時間を確認しようと、背中のフォーラに話しかけた。
「うーんと……クッキーがやけるくらいだよ」
「……はい?」
「おかあさんがつくってくれるクッキーがね、いちばんおいしくなるくらい」
「そ、そっか……あ、はは」
アルゼは内心、そんなのわかるか! と勢いつけて思い切り突っ込みたい衝動に駆られた。
だがその答えも、小さいフォーラなりに考えてくれた答え。時間の単位もまだよくわかっていないのかもしれない。だとすれば、普通に分単位で、と言う方が酷というもの。
ジスに聞き直すことも考えたが、子供は答えが一つしかない質問を複数の子に繰り返せば、拗ねてしまうこともある。
それにアルゼにもクッキー作りくらいの経験はあった。よくミラに手伝わされていたことを思い出す。
とはいえ、クッキーにも作り方は様々。もちろん、焼き上がる時間も様々だ。とりあえず標準の焼き時間を期待して、アルゼは十分程度を見積もる。
ここにきて初めてアルゼは、ミラの手伝いをしておいてよかった、などと思う。
今更そんなことを思うのも照れくさかったが、もし再会の時がくれば、これは礼を言わなければなるまい。
「覚えとかなきゃ、だな」
あんなに嫌な手伝いだったのに、まさか感謝する時がくるなんて。
手伝いをサボる自分を追いかけるミラの怒った顔を思い描いて、苦笑が零れた。まだ自分が生まれた町を後にして一日だというのに、アルゼはなぜか懐かしくてたまらなかった。




