2-6
――ドクン
脳が
――ドクン
痺れて
――ドクン
俺の、気持ちが
考えが
脳に
届か、ない――
「なん、だって……?」
脈打つように鈍い痛みを発する頭が、たまらなく重い。
違う。
左腕。そう、熱いのも、痛いのも、左腕であって。脳じゃ、なくて。脳は、むしろ。
「……あれ? なに? わけわかんねぇよ?」
視界が霞み、脳がまるで他人のものであるかのようにアルゼの考えを受け付けない。狂う程に歓喜し、好き勝手に動き出す。幻覚を、映し出す。
――まただ。
幻覚の世界に放りだされたアルゼは、そう感じた。
この生々しさと、むせ返りそうに濃い血の匂い。以前にも、こんなユメを見た気がする。
そしてこのユメの中、佇む自分の目の前に、二つの――
ゴトンッ
「――ッ!?」
アルゼの右手に握られていたオレンジが、やけに大きな音をたてて床に落ちる。その音が彼を現実へと引き戻した。
ユメの中で赤と黒しか映さなかった瞳は、窓の向こうに色彩豊かな森と草花を捉え、知らず知らず止まっていた呼吸を再開すれば、肺が貪欲に空気を欲しがった。
アルゼを引き上げたオレンジ色したそれは、ごろりと転がって裏側にほんの少し残った青をさらけ出す。
アルゼには落としたオレンジに手を伸ばす気力もない。肩を上下させ、とにかく空気を体に送り込んだ。
息苦しくて、体が前のめりに折れ曲がる。無意識に頭に添えた右手が、力を失ってずるりと落ちた。
腹に触れる左腕が、いつもより熱い。
――気のせいだろ?
アルゼは混乱していた。
脳が主を無視して勝手に動き出した。左腕は痛くて、熱くて。なんで? いきなり? 今? よりによって?
俺は今から、目の前の、何かトンデモないことを言った男に掴みかかって。
あの二人を、守らなきゃ。守って、ロゼルグ、さんを、説得して。そんで。そんで――
「なぁに混乱してやがんだよ? 盗みの次はコロシだろ。段階踏ませてやったんだから、ありがたく思って欲しいもんだぜ」
自分の一言を皮切りに思考がほとんど停止してしまったアルゼから視線を外し、ロゼルグはさも手のかかる子供に呆れているかのように眉間を寄せ、ため息をついた。
「なんだよ、コロシはまだ無理ってか? ったく、あんま手間かけさせんじゃねぇっつーの。盗みの片棒一回やっときゃコロシも簡単なんじゃねぇのかよ、あぁ、めんどくせぇ……」
ロゼルグはガシガシと乱暴に頭を掻くと、再び窓の外に見える兄妹に視線を向けた。
「こういう場合、年齢低い方が残された方が惨めに決まってんだろ? それくらい、どんな空頭にも理解してもらわなきゃ困るぜ」
「そんな、こと」
「あ?」
アルゼは垂れ下がっていた右手に力を込め、拳を握る。
「そんなこと、俺がさせない。……させないよ、ロゼルグ、さん……ッ!!」
「ハッ」
自分を見下ろす、凶悪な笑顔を睨み返す。
「できるもんなら、やってみな」
ロゼルグの瞳が、これから始まる茶番への期待に染まる。
「お前は抵抗できるかな? 俺達に」
「うるさい、……うるさい!!」
アルゼは力の限り叫んだ。
そうしなければ、今にも痛みに呑まれそうで。なにか、取り返しがつかなくなるような。もう、自分じゃいられないような。そんな感覚がアルゼを困惑させた。
「おお、怖いねぇ。一回くらい負けてるからって、そんなにムキになるなよなぁ。フフ、それよりいいのか? お前の大事な二人がこちらを見ている。そんな険しい顔してたら嫌われちまうぜ? いやぁん! おにーさんこわいぃん」
「うるさいって言ってるだろ!? あんた、あんたなんかに、ついて来るんじゃなかった……ッ」
「怒っちゃやだよぅ。ウフフ、それじゃ、楽しみにしているわね。……それと、二人がこっち見てんのは本当だ。早く戻らねーと、包帯巻く暇なくなっちまうぞ。今お前の信頼失うのは、得策じゃねぇからな」
ロゼルグは唐突に体をくねらせ、ふざけ始めた。それに合わせるかのように、アルゼを苛んでいた鈍い痛みと悦楽が急速に薄れていく。
「あ、れ……?」
霞んでいた視界がクリアになると、アルゼは自分の足元に転がる、少しの青を残したオレンジを思い出す。
右腕を伸ばして拾い上げると、それは少し冷たくなっていた。
「こ、の」
異様な痛みも去れば、沸々と湧くロゼルグへの怒りが自分の中でやけに鮮明で。
「大バカやろう、がぁっ!!!」
笑みなど張り付けて窓の外に手を振るヤツに、この鬱憤をぶつけずになどいられるはずもなく。
アルゼの感情の高まりと共に、ぐちゅ、と音を立てて親指が果実に吸い込まれていき。
「ンがっ!!? うわ苦ぇ!! うぇ、ペッペッ! くっそ、なん、な、な、何すんだこのクソガキ!!」
次の瞬間には、オレンジがロゼルグの顔面で破裂していた。
正確には、アルゼが指で実を割き、露出した果肉をロゼルグの顔面に叩きつけていた。
食べるために十分な大きさまで健康に育った果肉からは、汁がボタボタと大量に滴り落ち、ロゼルグの髪から、顔面から、服からも甘い香りがはじける。
「二人からのプレゼント! ついでに俺からも、やつあたりのプレゼントだよ!」
べー、とロゼルグに向かって思い切り舌を出してやる。
「ちきしょう……!! あー、目に沁みるっつーの、イデッ!? イッ、テテテテ」
しゃがみ込んで必死に目元を拭うロゼルグを無視して身を翻すと、アルゼは外から戻った本来の目的を果たすべく、果汁に濡れた手を適当に服で拭い、視線で戸棚を探した。
「お、これだけあれば大丈夫そうだな」
そこには、いくつかの薬と共に包帯が置かれていた。
いまだに目を瞬かせているロゼルグを盗み見つつ、窓に背を向けて急いで左腕を真白に変化させていく。
急いでいるがために直視しなければならない、墨色の左腕が気味悪い。先ほどまで感じていた異常な熱は既に治まったようだが、腕全体から痺れるような刺激を感じる。
アルゼはそれをも覆い隠すかのように、いつもよりきつく包帯を巻いていった。
「っし、できた! じゃあロゼルグさん、さよなら、だから」
「うがああああいてええええええええ」
ロゼルグの眼を刺した果汁は中々にしつこいようで、今もまだ彼を苦しめていた。
「少しやりすぎ……あ、いや。こういうの、いい気味って言うんだよね! 俺、知らねっと」
アルゼはまるでロゼルグを見守るかのようにクスクスと笑い、とっとと家を後にした。
不思議と胸の中が暖まる。
何かおかしい。暖まるだって? これから、幼い兄妹を守るためにロゼルグとは相反するというのに?
「……たるんでるなぁ。気合い、入れないと」
気持ちを入れ替えるために、頭を強く左右に振り、両手で頬を挟み込むようにパシン、と一度強く叩いた。
「よっしゃ! ジス! フォーラ! お待たせ!」
真緑色とオレンジ色のオレンジの木の下で待つ二人は、嬉しそうに手を振ってアルゼを迎えた。
自分たちの家で、どんな会話が交わされたのか。知る由もないままに。




