2-5
家とオレンジの木までの距離は、十メートルもない。
その数十秒の道のりの中で、アルゼは何度も家を振り返る。とっさに子供たちを庇おうと家を出たが、果たして正しい選択だったのか、と。
「おにいさん? どうしたの?」
何度も家を振り返り続けるアルゼを心配してか、フォーラはアルゼの片腕を握った。
「あ、ううん、なんでもないよ。……あ」
「あ?」
握りこまれた手を、無意識に揺らしているうちに思い出してしまった。
「しまった、……腕」
「うで?」
「そういえばお兄さんさ、なんで左手を服の中にしまってるのさ? そんなことすると、転んだときあぶないんだぜ」
アルゼの呟きに、ジスが少しだけ自慢げに言う。
服の中にしまい込まれた、左腕を見つめながら。
「……そう、だな」
ジスは純粋に、ただ自分が疑問に思ったことを尋ねただけだ。それだけのことなのに、アルゼは急に不安になった。
今回だけではない。腕のことに触れられる度に、もしかすると気付かれているんじゃないのか。本当は今ここで、秘密を露わにされるんじゃないのか。指差して、恐ろしさに顔を歪めて目の前から急に逃げ去ってしまうんじゃないか。
――そんな恐怖に襲われる思いがした。
そんなはずはない、と自分に言い聞かせ、笑顔を作る。
何も問題なんかない。俺は、かつて町と呼ばれてちょっと栄えただけの、今も強情張って町を名乗ってしまうような、何の変哲もない村で産まれた、何の変哲もないただの人間なのだから、と。
今もその考えを崩す気はない。
左腕の紋章について何かを知っているそぶりを見せる男に何を言われようと、何をさせられようと。
アルゼには間違いなく、平和に日々を送ってきた時があった。
いや、過去形なんかじゃない。これからだって、絶対に。
アルゼは緊張で強張った顔を無理やりに崩し、笑顔を形作る。
「だよな! それ、うちの母さんも言ってたぜ。やっぱいいお兄ちゃんだな、ジス!」
「お、お兄ちゃんとかいうなってば!」
ほら、周囲だって笑顔で応えてくれる。ただの思い過ごしだと教えてくれる。
無理に形作った笑顔だって、あっという間に本物に変わるのだ。
今は、気持ち悪い笑みを笑顔と信じて顔に張り付ける男もいるけれど、きっと本物の笑顔を見せてくれる時だって、くるさ。
アルゼは鬱屈した気分に沈むまいと上を向き、周囲を暗雲に取り囲まれた、まだ少し狭い、しかし明るい空を、見上げる。
「……あー、いい陽の光だ」
悪いこと全部、溶かしてしまいそうな。
「フォーラね、雨のあとのお日さま、だーいすきなのっ」
「俺も好きだな。なんか元気になるし、植物みたいに背も伸びる気がするし」
「ほ、ほんとか!? おれ、たくさん外にいるよ! 大きくなれる、かな?」
「うん、偉いな! なれるぞ、間違いないね」
目を輝かせたジスの髪をなでてやろうとして、ふと思い出す。
右手はフォーラがずっと握っている。左手は、いまだ服の中。アルゼの中で、すっかりジスは可愛い弟分となっていたのに、今のままではその髪も自由に撫でてやれない。
気付けばオレンジの木は目の前。自分たちは既にその木陰に入ってしまっている。ここまで来ておきながら引き返すのは、一番乗りを取られるようで気が引けるが――
「ジス、悪いんだけど」
「うん、なに?」
自分の背は、どのくらい伸びるのかな? これからも毎日外で遊んでたら、もっともっと大きくなれるのかな? オレンジの木よりも大きくなったりして。
そんな楽しい想像をしていたのが手に取るようにわかる、そんな明るい笑顔そのままにジスはアルゼを振り向く。
「包帯、あるかな?」
唐突なアルゼの質問に、ジスは首を傾げた。
「うん、うちの戸棚のところにいっぱいあるよ」
「おにいさん、おけがなの?」
フォーラの心配そうな表情に、アルゼは自分の一言で笑顔を暗くしてしまったことを後悔する。
「いや、怪我じゃないんだ。ちょっと使いたいことがあって」
なるべく慎重に、幼い二人の心を沈ませないようにと、言葉を選ぶ。
「いま? 取ってきてあげようか」
「えっと、場所だけ教えてよ」
アルゼはフォーラの手を離して腕を伸ばし、オレンジ色の大きな果実をもぎ取る。
「これ、おじさんにお土産置いて来るからさ」
「あー! おにいさんひどいよ! いちばんはフォーラがとりたかったのに!」
「いただき! えーっと、戸棚戸棚……っと」
フォーラが驚いたように丸い目をしたままアルゼを見上げた。
その視線から逃げるように、アルゼは身を屈めながら家へと走り出す。少し振り向いて、二人に向かって舌をだしてやる。
「もう、おにいさんにはオレンジで作るおかしあげないもん!」
「あはは、酷いな! 一つくらいとっといてよ!」
軽くオレンジごと手を挙げて前に向き直る。それからドアの取っ手を握ろうとすると。
「あ。えーっと」
当然ながら、オレンジを掴む右手では取っ手は握れない。
アルゼは仕方なく服の下から左手を伸ばし、無理やりに掴んで玄関を開けた。
その後ろで、玄関前での挙動不審を見守った兄妹が声をあげて笑っていた。
幼い二人の明るい声を背にしながら、アルゼはそっとドアの向こう側を覗きこむ。
ここからでは男の姿はおろか、男のいる部屋さえ覗けはしないが。
外に出る前の様子からして、機嫌良く椅子に腰かけていることはないはずだ。
意を決して、居間のドアを開ける。
「おう、ガキ」
しかし予想に反して、男の声は意外と柔らかい印象を含んでいる。
「お、おう……?」
気合いを入れてドアを開いた割には拍子抜けしてしまい、脱力感たっぷりの返答になってしまったが。
「よかった、ロゼルグさん。なんていうか、元気そうだね」
「あぁ、元気だ。ついでに褒めてやるさ」
「え? な、なんだよ急に。今まで俺の事バカスカ殴って蹴っての人が!? 熱? 熱でもだしたのか!?」
怖い。ここまで機嫌が急上昇されると、逆に恐ろしい。
今、アルゼは仕方なくとはいえロゼルグについて行かなければならない状況にある。そして、ロゼルグがもっといい人ならどんなにやりやすいか、なんてずっと思っていた。
だが、しかし。
なにもここまで一気に急上昇することないのに、とロゼルグを軽く睨む。
「ククッ、まぁそう焦るな。ちょうどお前には、あの二人と仲良くしてもらおうと思ってたんだ。その方がやりがいがある」
「……へ? やりがいって?」
ロゼルグはアルゼに背を向け、窓の外を向いたまま顔に笑みを浮かべた。
それは貼りつけない、ロゼルグの表情そのもの。ニィ、と唇の端を凶悪に捩じ上げる。
「両親を失った幼い兄妹が、二人力を合わせて暮らしてましたとさ。……なぁ、お前は妹を失った兄と兄を失った妹、どっちが取り残された方が哀れだと思う」
それ聞いた瞬間。
その言葉が持つ強烈な芳香に、脳髄の痺れる思いがした。




