2-13. 終章
――チッ チッ
時を刻むように、摩擦音が響いていた。
――パキッ
時折リズムを崩す不快な音が響き、そうしてまた時は刻まれる。
「くそっ」
苛立ったように吐き捨てられた悪態。
「……?」
思考が霞む。眠っていたのだろうか。
目を開くという動作に、やけに力がいる。
「やっと起きやがったな、ガキ」
アルゼはゆっくりと目を開いた。辺りは薄暗く、眩しいという感覚は鈍い。
あまり聞き慣れない声が溜息を吐いた。
声の主を確認しようと、体を起こすため右腕を地面に立てた。
「痛、っ」
途端、右腕に痛みが走る。怪我を、していたのだったか。
よく思い出せなかった。
ふと見れば、右腕には申し訳程度に布が巻かれている。傷の状態はわからないが、内側から血が滲んでいた。
それに疑問を感じると同時、慣れた左腕の鈍痛が響いた。まるで頭まで支配しようとしているかのように、酷い頭痛までもを覚える。
「何やってんだ、のろまか?」
違う、と反射的に言い返そうとして、しかしアルゼにはその気力がない。
腕の痛みがあってもなお、一向に思考がクリアにならない。何かを忘れている。思い出さなくてはならなかった。
痛む右腕を無視して、仕方なく左腕を使って上体を起こす。そこに、ずいと覗き込んでくる男。
「あーあ、あの威勢はどこへ行ったんだ? 今回は収穫ナシ、経験ナシ、ついでにお前は逃げ出す可能性大、と。やれやれ、これだから平和ボケしたガキってやつは」
ぼやきながら、男は右手の親指と人差し指に摘まんでいた折れたマッチをポイと落とした。
「……おい? 何か言ったらどうなんだ」
終ぞ火を点けることの叶わなかった煙草は、しかし口から離すのが惜しい。意味もなく咥えたまま上下に振って弄ぶ。
何も反応を返さないアルゼに対し、男は彼の頭を軽く小突いた。
「……うるさい。またひきずったろ、ロゼルグさん」
「寝起きのくせに言うじゃねぇか」
川で少しばかり汚れを落とした服は、見事に泥まみれに逆戻り。
さらに覚醒するにつれ、頭痛と両腕の痛みとに紛れて、脳が全身の細かな痛みを伝えてきている。味わったばかりのそれは、当然、地面を引きずられたためにできた擦り傷がほとんどだった。
当然のようにさらけ出された左腕に嫌気がさす。
「起きたからには自分で歩いてもらう。あぁ、そろそろ姫さんたちも森に入ってる頃だろ。あんまり俺から離れると、殺されるからな」
ロゼルグの言葉を聞きながら、アルゼは状況を確認する。
森の中だ。
引きずられた形のまま、辛うじて土の見える地面の上で、アルゼは不格好に座り込んでいる。
辺りは酷く薄暗い。昼間という以外に、時刻を確かめる術はわからない。
「とりあえず、コイツでも食っとけ」
ふいにロゼルグが、アルゼに向かって何かを放り投げた。ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべている。
ぼんやりと物思いに耽っていたアルゼは、受け取れずにそれを転がしてしまった。
「食ったら行くぞ。……なんだ、やけに大人しいな。てっきり暴れるかと思ってたってぇのに。不気味だな」
コロコロと転がるそれを、アルゼは視線で追いかけた。
「……オレンジ?」
草の上に落ちたオレンジは、すぐに勢いをなくして停止する。
それを拾おうと、アルゼは無意識に手を伸ばした。
「あ、れ……?」
チリ、と脳が妬けるように白んだ。
――アルおにいちゃん!
ノイズまみれのその声が、アルゼの脳裏に響く。
「フォー、ラ」
頭痛が一層酷くなった気がした。
思い出せ。
思い出せ。
何故自分が眠っていたのか。
眠る前の記憶を掘り起こそうとすればする程、同時に恐怖心が襲ってきた。
「ロゼルグ、さん……アンタ」
声が震える。
思い出したのは、あの刃の輝き。
思い出したのは、兄妹の笑顔。
思い出したのは。
「アンタ、よくも……フォーラを……ッ」
ちかちかと視界が激しく明滅する。猛烈な眩暈を堪えて男を睨み付けた。
ともすれば爆発しそうにも思える感情を、奥歯を噛みしめて耐える。
「おーおー、勇敢になっちゃってまあ」
アルゼの視線を受けたロゼルグは、しかし軽く肩を竦めて笑みを強めるのみ。
「ちょーっとお嬢ちゃん刺しただけでショック受けてお寝んねとか? 全て終わった後で目ェ覚まして怒るだけ? ハッ、笑わせる。責任放棄もいい加減にしろ」
ロゼルグは芝居がかったように両手を広げ、声を立てて笑い始めた。
「はは、はははははは!! 笑わせやがる、滑稽が過ぎるぜ、ガキ」
「黙れ! アンタに俺を笑う資格なんかない!! 何の罪もないフォーラに、あんな……っ」
「自分の手で決着も付けられなかったくせにガタガタ抜かすんじゃねえ。俺が笑おうが何しようが、お前があのお嬢ちゃん死んじまう原因を作ったことに変わりはない」
アルゼは眩暈をこらえながらも立ち上がり、ロゼルグににじり寄る。しかし彼が刃物を持っていることは明白。
間合いの外から怒鳴る程度のことしかできなかった。
どれだけ出会ってたった一日の彼女らを思おうとも、自分の命とは天秤にかけるべくもない。
「俺が原因だって? 無関係のあの子たちを巻き込んだのはアンタじゃないか!!」
「だからいいんだろう? ちょいと懐かせて、あとはお前が感情移入もせずに坊やを殺すだけだったんだよ。全く話をややこしくしやがって。……ま、お前は精々自責の念でいっぱいいっぱいにでもなっとけ」
――そうじゃなきゃ、わざわざ標的を変えてまで殺した意味がない。
ロゼルグは、期待が高まることを抑えられない。今までとは違った意味で、更に口角が上がったことを自覚する。
「どうだ? 自分の所為で人が一人死ぬ気分は」
「うるさい、俺じゃない! 俺は、……俺は、守ろうとした!」
アルゼがロゼルグを責めようとすればする程に、その左腕の熱が高まっていく。
悪いのは全て、目の前の彼であるのだと主張する度、自分を庇う度、それはじりじりと痛んだ。
彼は既に、選択していた。
無意識下で、何より優先すべきものに、自分の命を選んでいた。
故に、彼は理解することもない。
選択肢があったことを。
男の言葉に耳も貸さず、幼い兄妹の元へ急ぐことも。
男には、彼を束縛する術などなかったことも。
広い森の中、追手にとって不都合極まりない場であることも。
自らの選択でさえ。
彼には何も、理解できない。




