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湿気を多く含んだ不快な空気が、その場の雰囲気までもを蝕む。
男の苛立ちは積もる一方だった。
「雨が止んだら出るぞ。まだ町からそこまで離れられてねぇ。つーか、この雨宿りも俺の予定にはなかったんだよ! テメーのせいだ、くそ」
ロゼルグは、虚ろになりかけた瞳から水を垂れ流す少年には目もくれず、“それ”に苛立ちをぶつける。
“それ”は目覚めてしばらく経った頃から、ロゼルグの声に反応することがなくなっていた。
“それ”の頭の中では、“罪”という言葉が幾百にもなって渦巻いていた。渦巻き暴れまわって、少年の正気を奪っていく。
「おい、聞いてんのかガキ。……ったく、いつまで落ち込んでても別に構いやしねぇけどよ、まだ廃人にはなんなよ。なるなら俺の用事が終わってからだ」
“それ”には、男の呼びかけは聞こえていなかっただろう。だが、その口からは言葉が溢れた。
「……おレ、も、イや……イヤ、だ、だだ、して。……し、テ、ろぜル、ぐ……」
「……うるせぇよ、喋んなら一人分にしときな」
“それ”の力なく半開きにされた口から零れた言葉に、ロゼルグは面倒くさそうに応えた。
それきり、“それ”の口からは何も溢れてはこなかった。代わりに洞窟内に反響したのは、ロゼルグの声。
「クックック……ハハ、早く正気になんな、アルゼくんよ。俺ぁうっかりヤル気出ちまいそうだぜ?」
堪え切れないその笑い声が、咥えた煙草の隙間から、口を押さえた指の間から、忍び漏れる。
煙草を吹き飛ばし、ブーツで踏みつけた。
「クハッ、ハハハハハ!! 来い、ガキ! 行くぞ」
ロゼルグは無造作に手を“それ”の後頭部に回し、襟を掴む。そして力任せに引っ張り、大股に洞窟の出口へ向かった。
“それ”はかろうじて座っていた体制を崩し、ロゼルグに引きずられて動く。
ロゼルグのブーツが跳ねあげた水しぶきが、“それ”の顔をまともに襲った。冷たい空からの滴にあてられながらそのまま引きずられていくうち、“それ”の目に光が灯り始める。
「ん……あれ、いたっ、イテテテテテ!? な、なに……」
「騒ぐな、馬鹿が。追手に見つかったらどう責任とってくれんだ、あぁ?」
気づけば無抵抗な体を、落ちている小石を擦りつけてられていたり、木々に引っかかれていたり、雨のせいで泥と化した地面をひきずられていたりしていたのだ。痛い、くらいは言わせて欲しいものだとアルゼは思う。
意識を取り戻したアルゼを見やったロゼルグは、引きずっていた“それ”をとりあえず“人”と自分の中で認識を変更する。
「とっとと歩け、立派な足が二本もついてんだろ?」
アルゼの襟首を掴んでいた手をパッと離してやる。
その体は、重力に逆らわずに土で濁った水たまりに落ちていった。
「うわっ、ちょっと! はーぁ、びしょびしょじゃん。包帯ないし、しかも雨降ってるし……いててっ」
酷い扱いを受けた体の節々が悲鳴をあげている。アルゼは濁った水たまりから肘をついて起き上がろうとして、ふと目に入った墨色を直視してしまった。
左腕に巻いていた包帯は、体をひきずられるうちに解けて落ちてしまったのだろう、真っ黒と言っても過言ではないアルゼのその腕が、むき出しになっている。
見るだけで気分が悪くなりそうだった。慌ててできるだけ自分の視界から、そしてロゼルグの視界にも映らないようにと、左腕を背中側へ回す。
改めて右手を使って器用に立ち上がった。少し前を行くロゼルグの背中は、少し上機嫌そうにも見える。
しかし、やはり。
「やっぱり、逃げてる……のか」
寝ても覚めても変わらない現状に、確認のように呟いた。けれども不思議なことに、さっきまでの罪悪感からくる憂鬱さが、嘘のように消えてなくなっていた。
もちろん、罪の意識がないはずはない。しかしそれも軽減され、心は軽くなっていた。
「……」
ロゼルグに、その呟きが聞こえたかどうかはわからない。先を進む彼は足を止めもしない。
アルゼは立ち上がり、その背中に声をかけた。
「ねぇ、ロゼルグさん。本当に、その……捕まったら死刑、なの、かな。俺は、ロゼルグさんがなんでその、棒みたいなのを欲しがってるかは知らないけど、事情があるならちゃんと伝えれば」
アルゼは軽くなった心のついでに、軽くなった考えを言ってみた。が、一瞬にして否定される。
「黙れ、この天然平和大ボケヤローが」
「う、なんかわかんないけどちょっと酷い……」
アルゼは胸中に芽生えた衝撃を抑え込み、立ち止まったロゼルグの言葉に耳を傾ける。
「勝手なんだよ、アイツらは!! 俺らのことなんかクズ程度にしか思っちゃいねぇ。話なんか通じるとでも思ってんのか? ハッ、ボケるのも大概にしろ。逃げるしかねぇんだよ、今はな」
自分の言いたいことを言い終えると、ロゼルグはまた歩を進め始めた。
こんな森で置き去りにされてはたまらないと、反射的にアルゼはそれに従う。視界の隅にちらつく、濡れてろくにはためきもしない汚れたマントを意識しながら、考えた。
今しがた聞いた、ロゼルグの声。口調こそイラついているようにしか思えなかったが、アルゼは別のものをも感じ取った。
畏れ、悔しさ、そして寂しさ。
そんなまさかと思いながらも、アルゼは尋ねることができなかった。
何をそんなに畏れているのか、などとは。
それきり沈黙を守るその背中が、答えを拒否しているような気がした。




