9. 終章
真っ黒いアザが。まるで、生きているかのように。心臓を動かしているかのように。
アルゼにはそう、思えた。
あまりの痛みにその場にうずくまってしまったアルゼを、男は何をするでもなく、ただ熱心に、アルゼの左腕を眺めていた。
「あ……っつ!! ……はぁっ……あ、れ?」
暫く左腕を押さえ込んでいると、その痛みは急激に退いていった。唐突に訪れた痛みからの解放に、アルゼは不思議そうに首を傾ける。
「痛みは消えたのか」
アルゼが落ち着いたことを見計らい、男は少し焦ったように問いかけた。
すぐにでも確かめたい。その衝動を必死で押さえ込む。
「あぁ、そうみたい……。何、だったんだ?」
「左腕を見ろ! 今すぐだ! 早く!」
男の急な叫びに、アルゼがわけのわからないという顔をして男を見上げる。男はそんな純粋なアルゼの行動ももどかしいというように、無理やりアルゼの左腕を掴む。
包帯の結び目を探す時間さえ勿体無い。男は適当な場所に指を引っ掛け、包帯を引き剥がそうとした。
「痛てっ! 何す……嫌だっやめろ!!」
一瞬遅れて男の行動に気づいたアルゼは、左腕を思い切り振って男の行動から逃れようと抵抗する。
だが男はアルゼの抵抗などなかったかのように無視し、包帯を引きちぎった。それはビリッと音をたてて破け、アルゼの左腕を曝け出す。
真っ白い包帯の下には、火傷の跡などない。ただ、墨のように真っ黒い腕があるだけだった。
正確には、小さな紋章が腕にほとんど隙間なく刻み付けられている。左腕一面に広がるそれはずっとそこに在り、まるで闇がアルゼを蝕んでいるようにも見えた。
「あぁ、くそっ! まだ駄目なのか……」
アルゼの左腕に広がるそれを、男はじっくりと眺めた。所々に残る肌色が、闇に不規則に浮かんでいる。
少しの失望感が含まれた呟きと共に、男はアルゼの左腕を解放した。少年の腕から力ずくで引き剥がした、少しよれた包帯も同時に投げ捨てる。
「……ッ」
アルゼは包帯を取られてしまった時点で諦めたのか、すぐに静まってしまっていた。自分だけでも左腕を見るものかと、しっかりと目を閉じ、顔を精一杯右側に背けている。
もうずっとこんなものを左腕に持ちながら生活してきた。出来ることなら、それを見たくなかった。
アルゼは、紋章がーー怖かった。
「お前、いつまで逃げてんだ?」
包帯の代わりにしろということなのか、男はアルゼに布を放った。
それを受け取ることも避けることもしなかったアルゼは、布を頭から被ってしまう。布は重力に従い、そこからすぐにずるりと滑って落ちた。
「ま、怖いってのはわからないでもねぇよ」
アルゼは解放された左腕をきつく握りこむ。男の言葉が、なんとなく、少しずつ、心に入ってきた。
「俺は……逃げて、なんか」
「いないってか?」
アルゼが呟いた答えを、男が引き継ぐ。
「お前が逃げていないとしよう。だが立ち向かっているとも言えないだろ」
男の本心から出るアルゼを攻める言葉は、十分に効果を発揮した。アルゼの口を閉ざすには十分すぎた。
アルゼは男の言葉に言い返すことも出来ず、唇を噛んで俯いている。
最初からわかっていた。自分が逃げていても、何にもならない。それでも逃げる以外の選択肢がわからなくて、自分で他の選択肢を探すことさえ怖くて、ずるずると今まで放ってきたのだ。
目の前に立つ男の言うとおり、自分は逃げている。
男はアルゼの反応を、興味なさげに眺めた。さも面倒だと言うように、大袈裟な 溜息をついてから落ちた布を拾い上げ、改めてアルゼの腕に乗せる。
「どうせお前は犯罪者だ。この”棒”が無くなったことが知れれば、最初に疑われるのは俺か、お前だ。そしてこいつは、盗んだ犯人は確実に死刑を免れないシロモノだ。……だが俺といれば、絶対に捕まらない。その痣も消させてやる。不本意だがお前の命も、まぁ……守ってやる。――だから、黙って着いて来い」
男がアルゼに手を差し出す。
その手を見て、アルゼは酷く動揺した。
”痣も消させてやる”、という言葉が魅力的に聞こえなかったわけではない。むしろ願ってもないことだった。
アルゼを迷わせたのは、罪を背負ったまま逃げるということ。そして男と共に行動するということ。
「同じ、じゃないか……それだって、逃げてる」
アルゼのその言葉に対し、男が嫌悪感を抱いたのが気配でわかった。
辺りの闇で男の表情が見えなくとも、アルゼには不機嫌そうに眉を上げるのが見えた気がした。それ程に、男の雰囲気は一瞬でガラリと変わった。
「俺が話しているのは、お前の腕のことだ。罪なんかどうだっていい。俺はお前が、お前自身の問題と戦えと言っているんだ! 俺が手伝ってやる、と言っている。何が不満なんだ!?」
男は苛立ちを隠そうともせずに声を荒らげる。その声から感じられる圧力は、立ちあがりかけていたアルゼをその場に座り込ませた。
ただの成人男性が怒鳴る程度では、こんなに圧力を感じるはずがない。ビリビリと何かが空気を伝わって、アルゼを萎縮させる。
「何をやっている。立て! 暗いうちにここから出来るだけ離れてぇんだよ!! 守るとは言ったが、足手纏いになるようなら気絶させて引きずってくぞ!! 時間がねぇんだよ、さっさとしろ!」
男の発言は、アルゼに言葉を述べさせる暇さえ与えなかった。男は自分が言いたいことを言い尽くすと、アルゼの胸倉を無造作に掴み上げる。
「……ッ」
息を詰めたアルゼにも構わず、男は胸倉を掴んだまま、自分の速さで町の出口へ歩き始める。歩行による上下の揺れは、容赦なくアルゼの首に衣服をねじ込ませてきた。
「ゲホッ、待て、苦し……」
男の腕を掴んでようやく声をあげたアルゼを無視しながら、男はひたすら出口へ歩き続ける。
「嫌、だ……! 俺、どこにも、行きたくな……ッ!!」
男は止まらなかった。引きずられるがままの状態にならざるを得ない自分を情けなく思いながら、アルゼは抵抗した。
「嫌、だぁぁっ!!」
「まだ駄目なら、それはそれで楽しみ甲斐がある。ゆっくり、いこうや……」
その後、男の足音だけが辺りに響いた。




