出会い
少女はマントのフードを深く被り、顔に煤を塗り闇に紛れた。姿勢を低くして、息を殺すように物陰に隠れる。
「少しでも遠くに逃げなければ」
少女の名はフェル・シュタイン。勇者の末裔であった。その昔、勇者一行は魔王討伐に成功し、この地を守ったのだそうだ。大広場から王城まで凱旋し勇者一行の姿を一目見ようと人々が溢れかえっていたという。
………だが勇者の像もなければ痕跡もない。それゆえにフェルの一家が勇者の家系だという事も彼らの身内にしか伝わってこなかった。
現存しているのは王と神官の像だけだ。勇者一行の中にはこの国の王子がいたらしい。魔王を倒した実績から数いる兄弟の中から王の座を勝ち取り、安泰を手に入れたという。その戴冠式の像が王城前の広場に残されている。今となってはその話も本当かどうかは疑わしい。
フェルの家族は下級貴族だった。王宮に上がることはほとんどなく、その日は家族で買い物に出かけた帰りに神殿に立ち寄った。病弱な妹のためにと癒しの聖魔法をかけてもらうために週に一度はこうして参拝し貢物を手渡しに来ている。フェルは花好きな妹のためにと教会の裏庭に咲いていた美しい薔薇を少し頂こうと家族の傍を離れた。そこに豪華な衣装を着た男と一人の神官が現れたのである。
「今月は良い信者が見つかりまして……ほど納められるかと。それと……」
「はっはっは。生娘なのか。それはいい慰め者になるだろうな」
「はい。高貴な方より手厚い保護魔法をかけてもらえると思い込ませてあります」
「ではこちらの思い通りにできるという事だな」
「さようでございます。その代わりに今度の奉納式では……」
「わかっておるわ……」
聖職者と貴族の癒着などは珍しくもない。たまたまその場にフェルが居合わせてしまっただけだった。その時はフェルも物陰に隠れるのが精いっぱいで、すぐに気づかなかったが、後で考えるとそれが賄賂の交渉場面だと言うことがわかり蒼白となった。フェルは騎士だった父にその事を告げる。
「なぜそれを早く言わない。我らは誇り高き勇者の末裔だ。見逃すことは出来ん」
正義感が強かったフェルの父親は、抗議に出かけ帰らぬ人となった。それどころか、いつの間にか賄賂を受け取っていたのはフェルの家族だということになり、家名も断絶。母親は慣れない労働で倒れ、身体の弱かった妹も亡くなった。妹の亡骸にしがみつき泣き果てた母親も力尽きるようにこの世を去る。
フェルに残ったのは憎しみだけだった。用意周到に緻密な計画をたて、目当ての神官の寝こみを襲った。その日は新しい信者とされる少女が夜の礼拝とは名ばかりの夜伽に招かれる日だった。高位な神官だったがその夜ばかりは部屋の前には警護の者達の姿はなく、フェルはその少女に成り代わりベールを被って寝室に忍び込んだのだ。
フェルがあっさりと復讐が終わってしまったことに妙な危機感を覚えたのは神官の部屋を抜け出した後だった。扉から出ずに2階の窓をつたい、傍に生えていた木に飛びうつり地面へと降りた。念のために逃走経路はあらかじめ下見をしていた。身軽なフェルなら木に飛び移る事も出来そうな距離だったからだ。その後神官の部屋から炎がたちあがる。
フェルは弾かれたようにその場を後に逃げ出した。
「罠に嵌められたのは自分だったのかもしれない……」
そもそも神官は本当にベットで眠っていたのだろうか? まだその手に残ったナイフの感触は忘れられない。だが刺されても声もあげなかったのは……すでに息絶えていたのではないだろうか……。いくつもの疑問がフェルの中で沸き起こる。
貴族街を離れ、裏通りに入ると景色は一変する。王都周辺の者は一般市民でも近寄ってはいけないとされている場所。汚臭や埃っぽい空気。ここは貧民街だ。夜になると、魔石の屑を焚いた怪しい燐光が不気味に路地を照らし出し、貧民街の影をより一層濃く深く際立たせる。光と影が交差する暗がりには、裏社会の手先や違法な商取引を行う者たちがひっそりと蠢き始め、昼間以上の不穏な気配が街全体を包み込んでいる。
道の両端には、擦り切れた麻布を纏った人々が力なく座り込み、うつろな瞳でただ虚空を眺めていた。 建物の壁の石積みは黒ずみ、かつてここが豊かな街の一部であったことを示す微かな彫刻も、今では苔とカビに覆われて判別すらつかない。魔法の街灯が灯る高台の貴族街とは対照的に、この街は濃密な闇へと呑み込まれている。影の中から立ち昇る焚き火の煙だけが、底辺に生きる人々の呼吸を静かに物語っていた。
「けほっけほっ……」
静寂の中の咳音は思ったよりも大きく辺りに響き、フェルは咳き込んでしまったことに後悔する。ここまで来て、追手に気づかれるわけにはいかない。なんのためにこれまで周到に準備してきたのか。今連れ戻されるとこの先の生きる道は閉ざされるだろうとフェルは恐怖する。
「こんなところで死ぬわけにはいかない」
フェルは別に贅沢がしたいわけではなく、これまでだって慎ましく生きてきた。それなのに追い打ちをかけるように、この世の中は理不尽すぎる。むざむざと死ぬわけにはいかない。
「約束したから……」
貴方だけは死なないでくれという母の最後の言葉にフェルは誓いをたてた。必ずこの恨みを晴らし、生き延びてみせると。父母の無念と幼くして旅立った妹の魂に報いるために。
灯りのない裏路地は人ならざる者が隠れ住む気配がした。見上げると空には褐色の月。そうこんな月夜には魔物が現れるという……。
「ふむ。彷徨える子羊か、はたまた過去の残影か」
ふいに聞こえてきた低音に、フェルは金縛りにあったように体が動かなくなる。
「驚かせてしまったか? 別にとって食おうというのではないぞ」
月明かりに現れたのは、咥え煙草に長い銀髪を無造作に結んだ壮年の男で、小綺麗な異国の服を着ていた。堂々とした態度でいてどう見ても胡散臭い。
「……っ……」
「震えているのかい? どうやら体調が悪いようだね」
フェルは違うと言いたかった。真夜中に貧民街の路地裏で、いきなり怪しい人物に声をかけられて恐怖を感じない者がいるだろうか。自分を害しに来た追手かもしれないと警戒を強める。
壮年の男はくすりと笑うと煙草の煙をふぅっとフェルに吹きかけた。同時にフェルの体からはこわばりが消え、動けるようになるが煙を吸い込んで咳き込んでしまう。
「けほっ……けほっけほ……」
「ほら、咳まで出てきた。これは重病かもしれない。吾輩が治してしんぜよう」
(私を揶揄っているの?)
目尻の皺を深めて男がフェルを捕まえようとにじり寄ってくる。
「ち、近寄らないで!」
「くく。威嚇しなくても悪いようにはせぬよ」
「……そうやって皆騙そうとして近づいてくるのよ……」
「なるほど、騙されたことがあるんだね」
「煩い! お前は何者なの!」
「んー、そうだな。吾輩は薬師かな?」
「う、嘘をつかないで! 私は……あ、あれ……?」
ぐわんと目の前が揺らぐと意識が遠のく。ここで倒れてしまってはいけないのだ。捕まって処刑されるわけにはいかないとフェルは最後に手を伸ばした……。
「誰か……助けて……」
「言わんこっちゃない。限界まできていたのじゃろう。人の子は野生の小動物みたいだのぉ……」
楽し気にフェルを抱き上げると男は闇の中に消えて行った。




