10話 黒田寧々の場合1
黒田寧々は、小学校二年生の時に逆上がりに失敗して、頭から地面に落ちた。
保健室で目覚めた時、自分には前世の記憶があることに気がついた。
寧々は、地元で中堅の建設会社を経営する父の末娘だった。
兄は乗り鉄、姉は重機オタク。
小さい頃から姉は父の会社を継ぐのは私だ! と宣言していた。
父に「重機の免許取るだけじゃ、うちは継がせないぞ」と言われて、姉は苦手な勉強も頑張って土木系の大学に進学していた。
寧々が通っている小学校は寧々の住む地方では珍しい私立の小学校だ。
割と裕福な家庭が多かった。
その中で、特に有名だったのは桜庭一博の親だ。
桜庭商事というスタンダード市場に上場している企業の創業者一族で、今の社長が一博の父親だった。
寧々が通っている小学校でも、桜庭商事に勤めている保護者は多い。
寧々は、一博の顔を見て驚いた。
茶色い髪に、桜色の瞳。幼い顔立ちだけど、間違いない。前世でプレイした『花咲く乙女』の生徒会長ではないか。
そして理解した。自分が乙女ゲームに転生したのだと。
寧々はゲームの内容を思い出す。
ゲームに黒田寧々というキャラクターは出ていなかった。
つまり、自分はモブなのだ。
寧々の推しは一博だった。思わずガッツポーズをしてから、ふと思い当たる。
いずれ現れる主人公に、推しが恋をする。それを見るのは少し辛い気がした。
「推しの成長、見守れるだけいいか……」
アイドルを推す気持ちでいればいいのだ。そう言い聞かせて、一博を見守る日々が始まった。断じて、ストーカーではない。
※
寧々がモブとして推しを見守ろうと決めてから、一年が経った。
幸い一博にバレることなく、楽しい推しライフを満喫している。
だんだんと成長していく一博を見て過ごす日々。寧々は幸せだった。
寧々はその日、先生に頼まれて体育倉庫にボールを片付ける手伝いをしていた。
その途中で毛羽立った板を触ってしまい、木片が寧々の指に刺さった。
痛む指を我慢し、残りのボールを片付け保健室へ向かう。
保健室には先生がいなかった。しかたなくピンセットを借り一人で木片を取ろうとする。
じくじく痛む指の先を見ながら格闘する。しかし、木片が刺さったのは右の人差し指で、利き手ではない左手でピンセットを使うのは難しかった。
諦めて保健室の先生を探しに行くべきか迷っていると、ノックと共に誰かが保健室へ入ってきた。
「あれ? 先生は?」
桜庭一博だった。
「?!?!?!」
突然の推しの登場に寧々は混乱した。口を開くがうまく声が出ない。
「聞いてる?」
再度一博が声をかけてきた。
「き、聞いてる! 先生、いない」
やっとのことで声が出たが、なぜかカタコトになった。恥ずかしい。
「君は何をしてるの?」
一博から見れば、怪我をしているようには見えないが、病気でもなさそうな寧々が気になったのだろう。
そう尋ねられて、寧々は無様に格闘している自分が恥ずかしくなった。
「……トゲが刺さったの」
顔が熱い。赤くなっているのを見られるのは嫌だなと思いつつ、質問に答えた。
推しの問いかけに答えないのはありえない。
「左利き?」
「違うけど……」
左手に持ったピンセットを見ながら一博が聞いてくるので否定する。
すると、一博は寧々の手にあるピンセットを取り上げた。
「僕が取ってあげる」
そう言って、寧々の右手を優しく握る。寧々の心臓が跳ねた。
「……ほら、取れた」
木片はすぐに抜けた。一博が少し得意そうに笑うのがかわいかった。
「ありがとう」
声が上擦らないように、慎重にお礼を言う。その間も心のシャッターは切りっぱなしだ。
寧々は、今日この瞬間を糧にして一生生きていけると思った。
「あら、桜庭くん。来てくれてたのね、待たせちゃって悪かったわ」
ちょうど保健室の先生が戻ってきたようだ。一博は先生と少し話をしてから、出て行った。
「じゃあ、またね」
と、告げて。寧々は保健室の先生に木片が刺さっていた場所を消毒してもらいながら、『私、推しの過剰摂取で爆死する』と考えていた。
翌日から、なぜか一博に声をかけられるようになり、毎日『爆死する』と考えるのが日課になった。




