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王立宮殿の地下深く、冷たく湿った石造りの地下牢。
カビ臭い空気と鉄格子に反射する松明の頼りない光が、ここが光の届かぬ最果ての地であることを雄弁に物語っていた。普通なら、いくら気丈な貴族の令嬢であっても、この薄暗闇と底冷えする寒さに震え上がり、己の運命を嘆いて涙を流す場所だろう。
「……ふむ。天井の角に少々蜘蛛の巣が張っていますわね。掃除の不徹底はいただけませんが、石造りのドーム構造ゆえに声の反響は素晴らしいわ。声楽の練習にはうってつけの音響効果ですこと」
私はペチコートの裾を汚さないよう慎重に持ち上げ、牢の中に置かれた古ぼけた木製ベンチをシルクのハンカチで念入りに拭いた。そして、まるで高級サロンのソファーに腰掛けるかのような優雅さで、ゆっくりと腰を下ろした。
鉄格子の向こうでは、私を護送してきた二人の近衛兵が、開いた口が塞がらないといった顔で私を注視している。
「あの……レティシア様。ここがどこか分かっておいでですか?王立地下大牢獄の最下層ですよ?明日には断頭台に送られる身なのですが……」
若い方の兵士が、引きつった笑みを浮かべながらおずおずと声をかけてきた。確か、名前はハンスと言ったかしら。真面目が取り柄の、農家出身の若い兵士だ。
「ええ、知っておりますわ、ハンス。ですが、いくら死刑囚だからといって、最低限の快適さを求める権利まで奪われた覚えはありませんの。ねえ、ハンス。そこに立っているなら、お願いがあるのだけど」
「は、はい!何でしょうか!?」
「あちらの廊下の奥、見張り番の小部屋に温かい紅茶のセットがあるでしょう?ダージリンの茶葉で構いませんから、一杯淹れてきてくださらない?あと、できればウールのブランケットを二枚ほど。この部屋、少し湿気が高くて髪のウェーブが崩れてしまいそうなの」
「こ、紅茶……!?ブランケット……!?」
ハンスは目を丸くし、隣に立つ先輩兵士と顔を見合わせた。先輩兵士は苦笑いを浮かべ、諦めたように肩をすくめた。
「持ってきてやりな、ハンス。ヴァルハイト公爵家の令嬢にひどい扱いをしたと後で知れたら、俺たちの首だって飛ぶんだからな……。いや、明日には殿下が本当にこの方の首を跳ねちまうのかもしれないが……」
先輩兵士は恐ろしいものでも見るような目で私を一瞥すると、小声で呟いた。
「なあ、レティシア様……本当になぜそんなに落ち着いていられるんだ?明日の朝には、王都の中央広場で首と胴体がおさらばするんだぞ?怖くないのか……?」
「怖いですって?」
私は思わずくすりと笑ってしまった。
「まさか。恐怖など感じる暇がありませんわ。だって、明日の朝から始まる極上の喜劇のことを考えたら、楽しみで胸が躍って眠れそうにもないのですもの」
「き、喜劇……!?」
「ええ。貴方たちも、明日の非番の手配をしておいた方がよろしくてよ?歴史に残る大一番を見逃すなんて、一生の損失になりますわ」
兵士たちは「やっぱりこのお方、頭がおかしくなってしまわれたんだ……」と互いに顔を見合わせ、引きつった顔で去っていった。数分後、ハンスが湯気の立つ湯飲み入りの紅茶(急ごしらえの雑なものだったけれど)と、少々埃っぽいブランケットを届けてくれた。
「感謝しますわ、ハンス」
私は一口紅茶を啜り、ふうと息を吐いた。
冷えた身体に温かい液体が染み渡る。完璧だ。これで明日の朝までの鑑賞環境は整った。
私は壁に背をもたれかけさせ、優雅に脚を組むと、暗闇の中で思考を巡らせ始めた。
(さて……今頃、王宮は大パニックに陥っている頃かしらね?)
エドアルド殿下のあの衝動的な『断頭台』の宣言。
あれは、彼が「悪役令嬢をギャフンと言わせる俺格好いい」という頭のおめでたい妄想に酔い痴れた末の、完全な自爆攻撃だ。
まず第一に、このルークス王国において『断頭台』による処刑法は、五十年前の「人権平等人道改革」によって公式に廃止されている。現在の刑罰は、服役か、重罪であっても毒殺あるいは遠方への永久追放が一般的だ。
つまり、この国には現在、機能する断頭台などどこにも存在しない。
(殿下は今頃、木工職人をかき集めて、大慌てでギロチンを一から作らせているはずだわ。『明日までに作れ!』なんて無理難題を押し付けられて、職人たちが徹夜でトンカチを振るっている姿が目に浮かぶわね。可哀想に、残業代はしっかり請求するのよ?)
そして第二に、実行プロセスの異常さだ。
公爵家の令嬢を処刑するには、貴族院の承認と、裁判所による正式な審理、そして何より国王陛下の親署が必要不可欠である。一国の第一王子とはいえ、単なる卒業舞踏会というプライベートに近い社交場で、何の客観的証拠もなく一令嬢に死刑を宣告するなど、法治国家として許されるはずがない。
(父上――ヴァルハイト公爵がこの知らせを聞いたら、どう動くかしら?)
我が父、ヴァルハイト公爵は、冷静沈着にして極めて冷酷な政治家だ。私に対する愛情ももちろんあるが、それ以上に「我がヴァルハイト公爵家の尊厳を傷つける者」に対しては徹底的な報復を行う男である。
王家の財政の約三割は、我がヴァルハイト公爵家が運営する「ヴァルハイト中央銀行」からの融資で成り立っている。
父上がこの不当な逮捕と処刑宣告を聞けば、即座に何をするか。
『王家への融資全額凍結』
『ヴァルハイト家が所有する王都への食糧供給ラインの遮断』
そして『私兵三千の王都周辺への即時展開』。
……うん、間違いなくここまでやるわね。父上なら間違いなくやる。
今頃、王宮の財務卿や内務卿たちは、顔面を蒼白にしてエドアルド殿下の部屋に押し寄せて、「殿下!正気ですか!?今すぐ撤回してください!」と泣きついていることだろう。
だが、あの自尊心の塊のようなエドアルド殿下が、一度大勢の前で宣言した撤回を聞き入れるはずがない。
側近のルークやガルドも、「殿下の威厳を守るため!」とか何とか言って、火に油を注いでいるに違いないのだ。
(ああ、観たい。その王宮の阿鼻叫喚を、今すぐ水晶玉で鑑賞したい……!)
私が一人でクスクスと笑みを漏らしていると、カツン、カツンと、地下牢の廊下に足音が響いた。兵士の靴音ではない。もっと静かで、足元を忍ばせるような……それでいて聞き覚えのある足音。
「……お嬢様。レティシアお嬢様……!」
鉄格子の隙間から、黒いフードを深々とかぶった小柄な人物が姿を現した。
フードを脱ぐと、そこにあったのは真っ赤に目を腫らした私の専属メイド、アンの顔だった。
「まあ、アン。こんな夜更けにどうやってここへ?見張りはどうしたのです?」
「ハンス様という若い兵士の方に、お嬢様の大好物の高級焼き菓子と金貨を数枚渡しましたら、『五分だけなら……』と見逃してくださいました!」
「あら、ハンスったら案外要領がいいのね。後でチップを上乗せしておかなくちゃ」
「お嬢様!そんな能天気なことを言っている場合ではありません!」
アンは鉄格子を強く握りしめ、ボロボロと涙をこぼした。
「宮殿内は今、まさに地獄絵図でございます!旦那様(公爵閣下)は報せをお受けになった瞬間、手元のクリスタルグラスを叩き割り、『あの馬鹿王子が……我が家を舐めるのも大概にしろ』とおっしゃり、すぐさま王家への融資口座を全て凍結されました!」
「ふふ、予想通りですわね」
「笑い事ではありません!国王陛下は事態の重さにショックを受けられ、胸を押さえてお倒れになりました!現在は御医者様が総出で気付け薬を投与されておりますが、意識が戻られておりません!そのため、殿下の暴走を止める最高決裁者が不在となってしまったのです!」
「あらまあ。陛下もご苦労なさるわね。で、肝心のエドアルド殿下は?」
「殿下は……殿下は完全に狂奔しておられます!『公爵家が圧力をかけてきた!やはりレティシアは国家を揺るがす大罪人だ!処刑を強行し、見せしめにしてやる!』と叫び、宮殿の裏庭で大工たちに殴る蹴るの暴行を加えながら、急ピッチでギロチンを組み立てさせております!」
「あらあら。人道的に大問題ですわね。労働基準監督署があれば一発でアウトですわ」
「お嬢様ぁ……っ!」
アンはわっと泣き出した。
「どうしてそんなにお静かなのですか!?明日の朝、本当にお首が飛んでしまうかもしれないのですよ!?私、私……お嬢様がいなくなったら、生きていけません……!」
私は鉄格子の隙間からそっと手を伸ばし、アンの涙で濡れた頬を優しく撫でた。
「泣かないで、アン。私のかわいいアン。私が本当に、あの愚か者たちの手にかかって死ぬと思う?」
「え……?」
「私を誰だと思っているの?ヴァルハイト公爵家が誇る、最高の悪役……いいえ、最高の演出家よ。明日の舞台は、私が生きてきた中で最も華やかで、最も痛快な『反撃の宴』になるわ。貴女は泣くのではなく、特等席でポップコーンでも食べながら高みの見物をしていて頂戴」




