30話 はらはら降る雪の中で
七瀬と伊吹は南沢に教えてもらったパスタ屋『Calamaro』に入った。
トマトパスタ、カルボナーラ、クリームパスタを注文し、
「私、一ヶ月ずっとパスタでも良いくらい好きなんですよ」
と伊吹は言って、シェアしている七瀬の手元を見ながら幸せそうな顔をしている。食べ物を前に幸せな表情を浮かべる人は好きだ、と七瀬は思った。
ダイエット中の七瀬にとっても久しぶりの炭水化物なこともあり、口に頬張るたび幸福物資が脳内に広がる。
「このお店、凄く美味しいですね。知りませんでした。こんな住宅街にひっそり建ってあったなんて」
「そうだね。南沢の手帳の中にはうまい店の名前がびっしり書いてあるから」
「南沢さんっていかにもそんな雰囲気してます。モテるだろうし、デートにおいてもプロ、って感じが」
「うん。プロ中のプロだね。恋愛本、出せるんじゃないか」
そう言って、二人は笑った。
――その様子を離れた席から見ている、二人の男の影がある――
「くぬぬぬぬ、笑ってる、笑って幸せそうだぞ、若狭くん~!」
「いててて、痛いですよ。肩つねるのはやめて下さい!斎条さん」
若狭颯太と斎条孔雅だ。
きちんと眼鏡と帽子で変装をしている。
「動物園では……抱きしめ合っていたんだぞっ」
そう言って、孔雅が一枚の写真を若狭に見せた。
「……これ、抱きしめ合ってるというより一方的に伊吹ちゃんが抱きついてるように見えるんですけど……」
「もっと悪いだろ!伊吹ちゃんの方からだなんて!」
小声で言い合う二人の前に、ぺペロンチーノと海鮮イカスミパスタが運ばれてきた。
「美味しそう。南沢さんほんとすごーい。こんな場所知ってるなんて。隠れ家的な場所だけあって、値段は張りますけど……本当に奢ってくれるんですか?ありがとうございます、斎条さん、いただきまーす」
「急に来てもらったからな……俺の分も食っていいぞ。もはや食欲失せてきた」
「えーいいですよ。こんな時こそちゃんと食べなきゃ。それにしてもまさか、まさか斎条さんがあの、斎条財閥の御曹司だったなんて……本当に驚きですよ。さっき黒服の人に挨拶されて驚きましたもん」
「家出した身だから今更……頼みごとするのも気がひけたんだが……気になって気になって……」
「じゃあ斎条さんも一緒にデートすればよかったじゃないですか。別にあの二人付き合ってるわけじゃないんだし」
「バカ!伊吹ちゃんが七瀬くんを好きなんだぞ、俺が急に出ていったらガッカリさせちゃうじゃないか!」
「いえいえ、時には強引さも必要ですよ。特に、斎条さんはイケメンなんだし一応斎条財閥の御曹司なんだし自身を持ってアタックした方が……それに、七瀬さんには他に三人もまだ美女が……いる……あぁ、星宮さん……」
「うぅ、だろ?ほら、辛いだろ、デートシーンを想像してみろ、お前だったら割り込んで行けるか?」
「い……いけない……かもしれませんね……」
「だろう、メンタル的に弱るだろ」
「……はい……すみません、人事だと思って……」
「まぁいい……あっ!」
「あ、動き出しましたね!」
「早く食べろ、若狭!!」
「んぐっ…あいっ…んぐっっ」
若狭は急いで残っていた孔雅の分のパスタをかき込み水で流し込むと、また、七瀬と伊吹の後を追った。
まるで刑事の張り込みだな……。
若狭はそう思った。
***
帰り道、七瀬のアパート近くの並木道を歩いていると、そっと、伊吹が腕を絡めてきた。
(う……)
七瀬は心の中で、呻き声を上げる。
女の子に手を触れられる、今日はその初体験をしたばかりで、まだまだ慣れる気がしない。
七瀬は緊張しながら、無言で歩いた。
「……七瀬さん……」
すると、伊吹が足を止め、七瀬を見上げた。
「伊吹ちゃん……?」
伊吹は無言で、その小さな水滴のような光を持つ瞳で七瀬を見つめている。
……!
七瀬はようやくハッと気づいた。
そうだ、これは、何度も映画や漫画やアニメで見たことがある。
このシーンは……!
彼女は、キスを求めているのではないか……?!
七瀬はゴクリと喉を鳴らし、石の様に固まったまま、必死に脳をフル稼働させた。
(どうすればいい?行くのか?行った方がいいのか?キスってどうするんだっけ、く、口を、くち、くち?最初はどっか触った方が良いのか?髪とか、顎とか。いやまて、さっきパスタ屋出たばっかりだぞ。彼女に失礼なんじゃないのか、歯磨きしてからの方が……でも……こんな時普通の男なら行くよな……)
七瀬は、
「伊吹ちゃん……!」
と言って、そんな彼女を抱きしめた。
そして、
「今日は、本当に楽しかった。手を繋いで歩いたことも、僕なんかの事を、好きって言ってくれた事も凄く…凄く嬉しかった。多分今までの僕の人生の中で、一番の幸せな時間だったと思う。誰かに好きって言ってもらえて、大切にしてもらえる、って、こんなに幸せなものだったんだって、初めて知ったよ。ありがとう」
そう言って、少しだけその腕に力を込めた。
もちろん、自分から抱きしめる事も、人生初めてのことだ。
七瀬はドキドキしながら、彼女を抱きしめていた。
すると、まるで神様がそんな七瀬を祝福するかのように、はらはらと雪が降ってきた。
「……うん……、こちらこそ、ありがとう……」
伊吹はそう言って、七瀬の背中に腕を回す。
そうして、はらはら降る雪の中暫く抱きしめあった後、七瀬はそっと体を離すと、伊吹の肩を掴む。
そして、
「だけど、ごめん、まだ僕は、恋愛感情というものがわからないんだ。だから、これ以上は今は何も……」
できない――。
その言葉を飲み込んで、真剣な顔で伊吹を見つめた。
「……ふ……」
「?」
「ふふふっっ」
すると、伊吹は突然笑い出した。
何かおかしなこと言ったっけ?
七瀬はきょとんとした顔で、そんな伊吹を見ている。
「いえ、ごめんなさい。ほんとうに、真面目なんですね、七瀬さんって」
伊吹はそう言って、目じりについた雪を人差し指で拭う。
そして、
「いいですよ、待ちますから、私。七瀬さんが誰を選んでも、文句なしです」
そう言って、肩に掛けてあるバックを持ち直した。
「あ、ああ、ありが……とう」
七瀬がそう言うと、伊吹はニコッとして、
「じゃあ、今日はこれで……また、デートしましょ」
「あ、あの……送っていくよ」
「いえ、いーです。タクシー拾いますから、心配しないで下さい」
そう言って、胸元で手を振りながら、彼女は帰って行った。
はらはらと降る雪の中、彼女のその姿はまるで、本物の天使のように七瀬には見えていた――。
***
「うぅ……なんていー子なんだぁぁぁ伊吹ぃぃぃ」
「はい、ハンカチ……」
木陰から一部始終を見ていた孔雅は、泣いていた。




