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第六話 突然現れたサイクリスト

 翌朝。


 まゆが丸太小屋で出発の準備をしていると、ひとみがスマートフォンを片手にやってきた。


「高田さん」


「はい?」


「昨日の話なんだけど、おばあちゃんから連絡が来た」


「本当ですか?」


「うん」


 ひとみはスマートフォンの画面を見ながら、少し困ったような顔をしている。


「それで……高田さんの全身写真を送ってほしいって」


「全身写真?」


「そう」


「なんでですか?」


「さあ……」


 ひとみは苦笑した。


 そして心の中で思う。


――また、おばあちゃんの悪いクセが……。


 初めて会う人のことを、妙に細かく知りたがる。


 昔からそうだった。


 ただ、ひとみは口には出さない。


「写真、撮っていい?」


「はい」


 まゆはロードバイクの横に立った。


「これでいいですか?」


「うん。全身入ってる」


 ひとみが写真を撮り、祖母へ送る。


 すると、すぐに返信が来た。


「あ……」


「どうしました?」


「おばあちゃん、甘楽の明太子ガーデンで待ってるって」


「明太子ガーデン?」


「うん。そこで会おうって」


「じゃあ、そこへ行けばいいんですね」


「そうみたい」


 ひとみはスマートフォンをしまった。


「じゃあ、気をつけて行ってきて」


「はい。ひとみさんもありがとうございました」


「藤岡に着いたら連絡してね」


「分かりました!」


     *


 そのころ。


 丸太小屋から少し離れた場所に、一台の車が停まっていた。


 運転席には、まやが座っている。


 まやは妹が出発の準備をしている様子を、遠くから確認していた。


「……今日は藤岡か」


 スマートフォンを見る。


 母からメッセージが届いていた。


『今日はどうなりそう?』


 まやは短く返信する。


『店員さんのおばあちゃんが藤岡で泊めてくれるみたい。今から出発するところ』


 送信。


 少しして、


『ありがとう。気をつけてね』


 と返ってきた。


「はいはい」


 まやはスマートフォンをしまった。


 妹がロードバイクにまたがる。


「じゃあ、私も行きますか」


 エンジンをかける。


 ただし、すぐには出ない。


 まゆが十分に先へ進んでから、まやもゆっくり車を走らせた。


「今日も、見失わない程度に離れて……っと」


 ハンドルを握りながら、まやは苦笑する。


「それにしても、今度はおばあちゃんか」


 昨日まで知らなかった人間関係が、旅の途中でどんどん増えていく。


「まゆ、ちゃんと旅してるなあ……」


 そう呟いて、一定の距離を保った。


     *


 午前8時30分。


 まゆは丸太小屋を出発した。


「ありがとうございました!」


「気をつけてな!」


 萩原が手を振る。


 ひとみも笑顔で手を振った。


「またね!」


「はい!」


 まゆはロードバイクにまたがり、軽井沢の道を走り出した。


 その少し後ろ。


 まやの車も、静かに動き出した。


     *


 碓氷峠へ向かう道では、まゆはいつもよりゆっくり走った。


 途中で何度も自転車を降りる。


 眼鏡橋を見つけると、


「わあ……」


 思わず声が出た。


 レンガ造りの橋を眺めながら、写真を撮る。


「こんなところがあるんだ……」


 昨日までなら、時間を気にして通り過ぎていたかもしれない。


 今日は急ぐ必要がない。


 それが少し嬉しかった。


 峠を越えたあとは、慎重に下っていく。


 風が気持ちいい。


「楽しいなあ」


 まゆは景色を眺めながら、ゆっくりと坂を下っていった。


 そのころ、少し離れた場所で車を停めたまやは、妹が眼鏡橋付近で写真を撮っているのを確認していた。


「寄り道してる……」


 まやは思わず笑う。


「まあ、今日は時間に追われる旅じゃないしね」


 昨日、ミュラーから教えられた「無理をしない」ということを、まゆ自身がちゃんと実践している。


 それが、まやには少し嬉しかった。


「これなら、私が口を出す必要もなさそう」


 そう呟いて、再び車を走らせた。


     *


 昼を過ぎたころ。


 まゆは甘楽町に入った。


 スマートフォンで場所を確認する。


「明太子ガーデン……ここだ」


 時計は13時を少し回っていた。


 まゆは自転車を止め、周囲を見渡した。


「ひとみさんのおばあちゃん……どこかな」


 その少し離れた駐車場では、まやも車を停めていた。


 妹の姿を確認する。


「ちゃんと着いたみたいね」


 まやはスマートフォンを手に取った。


『明太子ガーデンに到着したみたい』


 両親へ送る。


 そして車内から、まゆの様子を眺める。


「さて……どんな人が来るのかな」


 ひとみの祖母が迎えに来る。


 それだけは知っている。


 ただ、どんな人物なのかまでは聞いていなかった。


「普通のおばあちゃんかな」


 まやはそう呟いた。


 そのときだった。


 まゆの後ろから、自転車のブレーキ音が聞こえた。


 キュッ。


「高田まゆさん?」


「はい?」


 まゆが振り返る。


 そこには、一台のロードバイクが止まっていた。


 乗っているのは、女性だった。


 年齢は五十歳手前くらいに見える。


 スポーツウェア。


 サングラス。


 そして、ロードバイクは鮮やかなチェレステカラーのBianchi。


「えっと……」


 まゆは少し警戒した。


「どちらさまですか?」


 女性はサングラスを外した。


「いやあ、よかった。写真と同じだ」


「……写真?」


 まゆの顔が固まる。


「ひとみから送ってもらったのよ」


「ひとみさんから……?」


 女性は笑った。


「そう。あなたが高田まゆさんね?」


「はい……」


 まゆはまだ状況が分からない。


「えっと……」


 女性がヘルメットを外す。


「改めまして」


 そして、さらりと言った。


「桐生ひとみの祖母、太田みつです」


「…………えっ?」


 まゆの目が大きく見開かれた。


「お、おばあさんっ!?」


「そう」


 みつは楽しそうに笑った。


「驚いた?」


「はい!」


 まゆは思わずみつのBianchiを見る。


「おばあさんって……もっと年上の人を想像してた?」


「……ちょっとだけ」


「よく言われる」


 みつは笑った。


「私、58歳なんだけどね」


「58歳……」


 まゆはもう一度みつを見る。


 どう見ても、ロードバイクで軽快に走ってきたサイクリストにしか見えない。


 少し離れた車内で、その様子を見ていたまやも目を丸くした。


「……え?」


 思わず身を乗り出す。


「おばあちゃん……?」


 まやはみつとまゆを交互に見る。


「いやいやいや。あれがひとみさんのおばあちゃん?」


 想像していた「おばあちゃん」とは、かなり違った。


 まやは思わず笑ってしまう。


「まゆ、ものすごく驚いてる……」


 だが、すぐに表情を戻した。


「まあ、私が出ていく必要はないわね」


 ここでも、自分は見守るだけ。


 まゆ自身が人と出会い、自分で話を進めている。


 それを邪魔する理由はない。


     *


「ひとみのお母さんも、私も、二十歳になる前に結婚して子どもを産んだから」


「そうなんですか」


「だから、ひとみから見ればちゃんとおばあちゃん」


 みつはBianchiを軽く押した。


「それより、あなたもロードバイクなのね」


「はい!」


「どこの?」


「これです」


 まゆが自分の自転車を見せる。


 みつは興味深そうに眺めた。


「へえ。旅仕様にしてるんだ」


「はい。直江津から大洗まで走ってます」


「一人で?」


「はい」


「いいねえ」


 みつの目が輝いた。


「私もロードバイクで走るのが趣味なの」


「じゃあ、今日は……」


「そう」


 みつが笑う。


「一緒に藤岡まで走ろうと思って、ここまで自転車で来たの」


「えっ!」


 まゆは驚いた。


「待ち合わせって、ロードバイクで来ることだったんですか?」


「車で迎えに来ると思った?」


「はい……」


「それじゃ面白くないじゃない」


 みつは楽しそうに笑った。


「せっかく自転車で旅してる子なんだから、自転車で会わないと」


 まゆも思わず笑ってしまった。


「なるほど……」


     *


「お昼、まだでしょ?」


「はい」


「じゃあ、ここで軽く食べよう」


「お願いします」


 二人は明太子ガーデンで昼食を取った。


 少し離れた駐車場では、まやも車の中で昼食を済ませながら、二人の様子を見ていた。


「一緒に藤岡まで走るのか……」


 まやは小さく笑った。


「これなら、私の出番はなさそうね」


 まゆはみつと話しながら、楽しそうに笑っている。


 まやはスマートフォンを取り出した。


『ひとみさんのおばあちゃんと無事合流。ロードバイクで来た人で、これから一緒に藤岡まで走るみたい。まゆも元気そう』


 両親へ送信する。


「さて……」


 まやは車のシートに背を預けた。


「私は先に藤岡へ行っておくかな」


 ただし、先回りしすぎるつもりはない。


 まゆが藤岡へ向かうころ、少し離れた場所にいればいい。


 何かあったときに動ける距離。


 それだけで十分だった。


     *


 食事をしながら、まゆはみつに旅の話をした。


 直江津を出発したこと。


 中林農園で泊めてもらったこと。


 ミュラーにパンク修理を教えてもらったこと。


 そして、昨日は丸太小屋で手伝いをしたこと。


「ずいぶんいろんな人に出会ってるね」


 みつが言う。


「はい」


「ひとみから聞いたけど、まだ旅の途中なんでしょ?」


「はい。大洗まで行きます」


「じゃあ、藤岡ではうちに泊まっていけばいい」


「本当にいいんですか?」


「もちろん」


 みつは笑った。


「その代わり、今日は私についてきてね」


「はい!」


     *


 昼食を終えると、二人は再びロードバイクにまたがった。


「じゃあ、行こう」


「お願いします!」


 みつが先に走り出す。


 まゆも後ろにつく。


「速い……!」


「まだ本気じゃないよ」


「えっ!?」


 みつが笑う。


「今日はゆっくり行くから安心して」


「はい!」


 二台のロードバイクが、藤岡市へ向かって走り出した。


 その姿を、少し離れた場所からまやが確認する。


「……よし」


 まやも車を発進させた。


 一定の距離を保ちながら、二人の後を追う。


 ひとみのおばあちゃんとの待ち合わせ。


 まゆが想像していた「おばあちゃん」とは、まるで違った。


 そしてまやにとっても、それは思いがけない出会いだった。


「まゆ、いい人に出会ったね」


 誰にも聞こえないように呟く。


 車は二台のロードバイクを追い越さず、ゆっくりとその後ろを走っていった。


 まゆの旅は、また次の出会いへ向かって進んでいく。

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