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第七話 藤岡の夜

 二台のロードバイクは、藤岡市街へ向かっていた。


 先を走るのは、みつ。その後ろを、まゆがついていく。


「高田さん、疲れてない?」


「大丈夫です!」


「本当に?」


「はい。今日はずっと一緒に走ってもらってますし」


「それならよかった」


 みつは笑った。


「でも、旅の途中なんだから、疲れたら遠慮なく言ってね」


「ありがとうございます」


 しばらく走ったところで、みつがふと顔を上げた。


 風が二人の間を抜けていく。


 みつは一瞬、鼻を動かした。


「……ん?」


「どうしました?」


「いや……」


 みつはもう一度、風上のほうへ顔を向けた。


「ちょっと風の香りが変なのよね」


「風の香り?」


「うん。なんていうか……いつもと違う」


 まゆには、ただの夏の風にしか感じられない。


「何か来るんですか?」


「さあ。私の勘違いかもしれないけど」


 みつはそう言って、再びペダルを踏んだ。


「まあ、今日はもうすぐ家だから気にしなくていいわ」


「はい」


 しばらくすると、まゆは気になっていたことを尋ねた。


「みつさんって、いつからロードバイクに乗ってるんですか?」


「本格的に乗り始めたのは、五十歳を過ぎてからかな」


「えっ、そうなんですか?」


「それまでは普通の自転車に乗るくらいだったのよ。ひとみに勧められてロードバイクに乗ってみたら、すっかり夢中になっちゃって」


「ひとみさんがきっかけなんですね」


「そう。今じゃ、あの子より私のほうが遠くまで走ってるかもしれない」


「すごいですね」


「自転車はいいよ。自分の足で走った分だけ、遠くへ行けるからね」


 まゆは、うんうんと頷いた。


「私も、それが楽しくて。最初は大洗まで行けるか不安だったんですけど」


「今はどう?」


「少しずつ、自信がついてきました」


「それはいいことね」


 みつは前を向いたまま続けた。


「でも、無理をしないこと。自信がついてきたころが、一番気をつけなきゃいけないから」


「はい。ミュラーさんにも同じことを言われました」


「ミュラーさん?」


「上山田温泉で旅館をやっている方です。パンクしたときに助けてもらったんです」


「へえ。旅先でいろんな人に助けてもらってるのね」


「はい。私、一人で旅をしてるつもりだったんですけど、実際にはたくさんの人に助けてもらってます」


「それも旅のうちよ」


 みつは楽しそうに笑った。


 だが、しばらくして、また風が吹いた。


 みつは何気なく鼻を利かせる。


「……やっぱり変ね」


 小さく呟いたが、まゆには聞こえなかった。


     *


 やがて、みつが道路脇で速度を落とした。


「もうすぐ着くよ」


「お宅はこの近くなんですか?」


「すぐそこ。自宅と仕事場が隣同士なの」


「そうなんですね」


「仕事場のほうは、ちょっと大きな建物だから、初めて来ると驚くかもしれないけど」


「何のお仕事をされてるんですか?」


 みつは、少しだけ意味ありげに笑った。


「それは、着いてからのお楽しみ」


「ええっ、気になります!」


「大丈夫。まゆちゃんに何かしてもらうわけじゃないから」


 そんな話をしながら、二人は再び走り始めた。


     *


 その少し後ろでは、まやが車を走らせていた。


 明太子ガーデンを出てから、ずっと二人を追っている。


「……もうすぐ着くみたいね」


 まやは前方を確認した。


 妹が知らない人と一緒に走っているのは、旅先では珍しいことではなくなってきた。


「ひとみさんのおばあちゃん、か……」


 まやはスマートフォンを見た。


 母からメッセージが届いている。


『今日はどうなりそう?』


 まやは返信した。


『もうすぐ藤岡。今のところ元気そう』


 送信して、再び前を向く。


「さて、今夜の宿も探さないと」


 妹を見守るのが目的とはいえ、自分自身の宿泊先も必要だった。


 まやは近くの宿泊施設を検索しながら、二人の後を追った。


     *


 しばらくして、みつが自転車を止めた。


「着いたよ」


 まゆもブレーキをかける。


「ここですか?」


「そう。まずは自転車を置こうか」


 二人は建物の脇へ自転車を寄せた。


 まゆは周囲を見渡す。


 大きな建物の隣に、落ち着いた雰囲気の住宅が建っている。


「こっちが自宅ですか?」


「そうよ。仕事場は隣」


「思っていたより大きな建物ですね」


「お客さんが来る仕事だからね」


「お客さん……」


 まゆは首をかしげた。


 みつは、その反応を見て笑った。


「そんなに不思議そうな顔をしなくても。あとでちゃんと説明するから」


「はい……」


「それより、まずは家に入って休もう。汗もかいたでしょ?」


「ありがとうございます」


 みつが玄関へ向かおうとした、そのときだった。


 道路の向こうに、一台の軽自動車が停まった。


 ナンバープレートには、上越の文字。


 運転席から女性が降りてくる。


 みつは、その姿を見て表情を変えた。


「……あら?」


 明太子ガーデンから、ずっと同じ車を見かけていた。


 そして今も、まゆたちのすぐ近くに停まっている。


 女性は建物を見上げ、まゆの姿を確認すると、慌てたようにこちらへ歩いてきた。


 みつの目が細くなる。


「……そういうこと?」


 まゆはまだ気づいていなかった。


「高田さん」


「はい?」


「先に家に入っててくれる?」


「え?」


「取引先の人が来たみたいだから、少し話してくる」


「取引先の方ですか?」


「そう。大丈夫だから、先に入ってて」


 みつは自然な笑顔を作った。


「富岡!」


 建物の入口から、女性従業員が顔を出した。


「はい、みつさん」


「この子を自宅に案内してくれる? 私はお客さん対応しますから」


「分かりました」


 富岡はまゆの荷物を手伝いながら、住宅のほうへ案内した。


「こちらです」


「ありがとうございます。お邪魔します」


 少し気になったものの、まゆは富岡について家の中へ入っていった。


     *


「さて」


 みつは、まやの前に立った。


「あなた、ちょっといいかしら?」


「……はい?」


「さっきから、ずいぶん熱心に私たちの後を追っていたわよね」


 まやの顔がこわばった。


「えっ」


「明太子ガーデンからずっと。上越ナンバーの軽自動車。間違いないわね?」


「そ、それは……」


「どういうつもり?」


 まやは慌てて説明しようとする。


「いや、別に怪しいことをしているわけじゃなくて……」


「じゃあ、何のために追ってきたの?」


「……」


 妹の旅を見守っていると正直に話せばいい。


 しかし、相手がどう受け取るか分からない。


 まやが言葉に詰まっていると、みつが一歩近づいた。


「まさか、あの子に何かしようとしてるんじゃないでしょうね?」


「違います!」


「だったら、どうして隠れてついてくるのよ!」


「それは……!」


 まやが一歩下がった瞬間、みつが腕を伸ばした。


「ちょっと、待っ――」


 次の瞬間、まやの体がくるりと回った。


「うわあっ!」


 どさっ。


 まやは地面に転がった。


「いたたた……!」


「大丈夫?」


「大丈夫じゃないです!」


 まやは慌てて起き上がった。


「いきなり何するんですか!」


「怪しい人を取り押さえただけよ」


「私だって、あなたが妹を変なところに連れていこうとしてるんじゃないかと思って……!」


 言いかけて、まやは口をつぐんだ。


 みつも動きを止める。


「……妹?」


「……」


「あなた、まゆちゃんのお姉さんなの?」


 まやは観念したように、財布から運転免許証を取り出した。


「高田まやです。直江津大学教育学部の二年生です」


 みつは免許証を確認した。


「高田まや……本当にお姉さんなのね」


「そうです!」


「じゃあ、どうして妹を追いかけていたの?」


 まやは深く息を吐いた。


「両親に頼まれたんです。まゆが一人で自転車旅行をするので、何かあったときにすぐ動けるように、車で後ろから見守ってるんです」


「……なるほど」


「まゆ本人には知られたくないんです。私がついてきてると分かったら、困ったときに私を頼ってしまうかもしれないから」


 みつは黙ってまやを見つめた。


 そして、ようやく表情を緩めた。


「そういうことだったのね」


「はい……」


「それなら、最初からそう言ってくれればよかったのに」


「いきなり取り押さえられたら、説明も何もありませんよ!」


「それもそうね」


 みつは苦笑した。


「私も早とちりだったわ。ごめんなさい」


「……いえ、私も事情を説明しなかったので」


 まやは服についた土を払った。


「それにしても、すごい技ですね……」


「昔、少し護身術を習っていたのよ。ほら、こういう商売でしょ」


「少し、ですか……?」


「少しよ」


 みつは何事もなかったように笑った。


     *


「ところで、まやさん」


「はい」


「さっき、私の仕事場を見て驚いていたでしょう?」


「……ええ、まあ」


「ここは私が経営しているラブホテルなの」


「……えっ?」


 まやは、もう一度建物を見た。


「みつさんが、オーナーなんですか?」


「そうよ」


「それで、自宅が隣に?」


「そう。仕事場がすぐ隣にあると、何かあったときに対応しやすいからね」


 みつは肩をすくめた。


「さっき、まゆちゃんには仕事場のことを少し話したけど、まだ詳しくは説明していないの」


「そうだったんですね……」


 まやは、ようやく納得したように頷いた。


「正直、まゆがホテルの建物に入っていくように見えたので、かなり焦りました」


「そうでしょうね」


 みつは笑った。


「私も、ずっと後ろからついてくる上越ナンバーの車を見て、かなり警戒したわ」


 二人は顔を見合わせた。


 そして、ほぼ同時に笑い出した。


「お互い、勘違いしていたんですね」


「まったくね」


 そのとき、みつの表情がふっと変わった。


 また風が吹いた。


 みつは風上へ顔を向ける。


「……やっぱり」


「どうしました?」


「ううん。なんでもない」


 みつは少し考えてから、まやに向き直った。


「まやさん」


「はい?」


「明日は動けないかもしれないわ……。まやさんの部屋に後で連絡するわね」


「え?」


「今日の風、ちょっと気になるのよ」


 みつは空を見上げた。


「まあ、今夜になれば分かるでしょうけど」


「天気が悪くなるんですか?」


「まだ何とも言えないわ。ただ、長年ここで暮らしてると、風や空気の変化で分かることもあるのよ」


「なるほど……」


「だから、明日の朝になったら、まゆちゃんの出発も含めて考えるわ」


「分かりました」


「じゃあ、まやさんは今日はゆっくり休んで」


「はい」


 みつはそう言って、隣の自宅へ戻っていった。


     *


 そのころ、まゆは隣の自宅で、富岡から冷たい麦茶を受け取っていた。


「ありがとうございます」


「どうぞ、ゆっくりしていってくださいね」


「はい」


 まゆは一口飲んだ。


「みつさんって、普段はどんなお仕事をされているんですか?」


 富岡は少し考えてから答えた。


「隣のホテルを経営されていますよ」


「ホテル……?」


「はい。ラブホテルなんです」


「えっ!?」


 まゆは思わず麦茶の入ったコップを持つ手を止めた。


「み、みつさんが……?」


「そうですよ。こちらの自宅も、ホテルのすぐ隣なんです」


「そ、そうだったんですね……」


 まゆは、先ほどの会話を思い出した。


 仕事場が隣にあること。


 お客さんが来る仕事だということ。


 そして、取引先の人が来たと言っていたこと。


「だから、さっき……」


 まゆが呟いたところで、玄関の扉が開いた。


「お待たせ、まゆちゃん」


 みつが戻ってきた。


「みつさん、お仕事は大丈夫だったんですか?」


「うん、もう大丈夫」


 みつは何事もなかったように座った。


「それより、今日はゆっくり休んでいってね」


「ありがとうございます」


 まゆは少しだけ遠慮がちに尋ねた。


「あの……みつさんって、ホテルのオーナーなんですね」


「ああ、富岡から聞いたのね」


「はい。びっくりしました」


「そうよね。自転車に乗って現れたおばあちゃんが、ラブホテルのオーナーだなんて、なかなか想像しないものね」


「すみません、そんなつもりじゃ……」


「いいのよ。別に隠しているわけじゃないから」


 みつは笑った。


「仕事も自転車も、どっちも私の生活の一部。それだけよ」


 まゆは、その言葉を聞いて安心した。


「……なんだか、みつさんらしいですね」


「そう?」


「はい」


 みつは嬉しそうに笑った。


「じゃあ、夕飯にしましょうか。今日はたくさん走ったんだから」


「はい!」


     *


 夕食の席で、まゆは今日までの旅について話した。


 中林農園で泊めてもらったこと。


 ミュラーにパンク修理を教えてもらったこと。


 軽井沢の丸太小屋で働いたこと。


 そして、ひとみと出会い、みつに会うことになったこと。


 みつは相づちを打ちながら、楽しそうに話を聞いていた。


「ずいぶん、いろんな人に出会ってきたのね」


「はい」


「旅に出る前と、今とでは、何か変わった?」


 まゆは箸を置いて考えた。


「……最初は、大洗に着くことばかり考えていました」


「うん」


「でも、今は途中で出会った人たちのことも、旅の一部なんだって思えるようになりました」


「いいことじゃない」


「みんな、私が知らないことを教えてくれるんです。自転車のことも、人との付き合い方も」


「そうね」


 みつは頷いた。


「旅は、目的地に着くまでの時間も大事だから」


「はい」


「だから、焦らずに行きなさい。大洗に着くことだけを考えて、途中を全部通り過ぎちゃったらもったいないもの」


 まゆは笑った。


「ミュラーさんにも、似たようなことを言われました」


「みんな同じことを思うのかもしれないね」


 二人は顔を見合わせて笑った。


     *


 食事を終えたころ、まゆのスマートフォンが鳴った。


 ひとみからだった。


『無事に着いた?』


 まゆは返信する。


『着いたよ! みつさん、ロードバイクで来てくれたんだよ!』


 すぐに返事が来た。


『でしょ?』


『びっくりした!』


『おばあちゃん、昔からああだから』


『今日は一緒に走ったよ』


『よかった。ゆっくり休んでね』


 まゆは画面を見ながら笑った。


「ひとみさん?」


「うん。無事に着いたかって」


「仲がいいんですね」


「はい。ひとみさんのおかげで、こうしてみつさんにも会えましたから」


「そうね。あの子には感謝しないと」


 みつは、どこか嬉しそうに頷いた。


     *


 夜。


 まゆは客間に用意された布団に入った。


「今日はありがとうございました」


「こちらこそ。ゆっくり休んでね」


 みつが部屋の明かりを少し落とす。


「明日はどうする?」


「朝、少しゆっくりしてから出ようと思います」


 みつは少し考えた。


「……明日の朝、もう一度相談しましょう」


「はい?」


「ちょっと風が気になるのよ」


「風、ですか?」


「うん。今日走っていて、少し変な感じがしたの」


「そうなんですね」


「だから、朝の様子を見てから決めましょう」


「分かりました」


 まゆは頷いた。


「藤岡まで来られて、よかったです」


「うん。またいつか、ロードバイクで遊びにおいで」


「はい!」


 みつは部屋を出ていった。


 まゆは布団の中で天井を見つめた。


 直江津を出発したときには、こんな旅になるとは思っていなかった。


 ただ東へ走るだけだと思っていた。


 けれど、走るたびに誰かと出会い、その人から何かを教わる。


「……旅って、面白いな」


 まゆは小さく呟き、目を閉じた。


     *


 一方、隣接するホテルの一室では、まやがベッドに腰掛けていた。


 先ほど、みつから「明日のことについて後で連絡する」と言われたことを思い出す。


「……明日、どうなるんだろ」


 妹の旅を見守るつもりで来たのに、まさか追跡相手に投げ飛ばされるとは思わなかった。


 しかも、相手は旅館でもペンションでもなく、ラブホテルのオーナーだった。


「人生、何があるか分からないな……」


 まやは苦笑した。


 スマートフォンを取り出す。


『まゆは無事にみつさんの自宅に入ったよ。私はみつさんのホテルの部屋を使わせてもらうことになった。今日はここで休むね』


 両親へ送信する。


 しばらくして返信が来た。


『分かった。あなたもゆっくり休んで』


「はいはい」


 まやはスマートフォンを置いた。


 隣の自宅では、妹が旅の疲れを癒やしている。


 自分も今日はもう休もう。


 明日になれば、またいつものように少し離れて妹の後を追えばいい。


「……まゆには、絶対バレないようにしないと」


 まやはベッドに横になった。


 藤岡の夜は、静かに更けていった。

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