第四話 十五時の約束
兎清旅館を出発した翌朝。
空は雲ひとつない快晴だった。
「暑くなりそう……」
まゆは空を見上げた。
朝のうちはまだ気持ちよかった。
けれど、太陽が高くなるにつれて、気温もぐんぐん上がっていく。
こまめに水分を取りながら、まゆは東へ進んだ。
*
少し離れたところを、まやの車も走っていた。
「今日も暑いなあ……」
まやはエアコンの効いた車内から外を見る。
もちろん、まゆには気づかれないよう、適度に距離を取っている。
妹の姿が見えなくなったら、地図やスマートフォンで位置を確認し、先回りする。
「さて、今日はどこまで行くかな」
まやはハンドルを握り直した。
*
東御市に入ったところで、まゆは足を止めた。
「海野宿……」
江戸時代の宿場町として知られる場所だった。
古い町並みが残る通りを、ロードバイクを押しながらゆっくり歩く。
「こういうところ、いいなあ」
昔の旅人も、ここを歩いたのだろうか。
自分も今、旅をしている。
そう考えると、少し不思議な気持ちになった。
ただ、立ち止まっているだけでも暑い。
「……暑い」
まゆは苦笑した。
今日は観光よりも、先へ進むことを優先することにした。
*
海野宿を出て、さらに東へ。
東御市と小諸市の境に差しかかったころには、まゆはすっかり汗だくになっていた。
「お腹空いた……」
時計を見る。
もうすぐ14:00だった。
そのとき、まゆの目に一軒の焼肉レストランが入った。
店の名前は――
七億。
「焼肉かあ……」
暑い日に焼肉。
少し迷った。
しかし、店先に出ていたランチの案内を見る。
「日替わりランチ750円……」
思わず足が止まる。
「安い」
疲れている。
お腹も空いている。
「……入ろう」
まゆはロードバイクを駐輪し、店へ入った。
*
そのころ、少し離れた場所でまやも車を止めていた。
まゆが店に入っていくのを確認する。
「ここで昼ご飯か」
時計を見る。
まやも昼食を取ることにした。
ただし、妹と同じ店に入るわけにはいかない。
「さすがにバレる」
まやは隣のラーメン屋に目をやる。
両親からメッセージが入っていた。
『今日もまゆから連絡あった?』
まやは短く返信する。
『今のところ順調。かなり暑いから、今日は無理しないほうがよさそう』
そして、もう一度まゆが入った店のほうを見る。
「さて……」
まやは妹が出てくるのを待った。
*
「ランチお願いします」
「今日のランチは唐揚げですが、いいですか?」
「お願いします」
注文してしばらくすると、料理が運ばれてきた。
「……え?」
まゆは目を丸くした。
「これで750円?」
思っていた以上の量だった。
「大盛りだ……」
まゆのこぶしより大きい唐揚げが5個。
そこにスープとご飯まで付いている。
「いただきます」
空腹だったこともあり、まゆは勢いよく食べ始めた。
「おいしい……!」
箸が止まらない。
暑さでかなり体力を使っていたせいか、食べても食べてもまだ入る。
結局、まゆが食べ終わったころには、14:30を過ぎていた。
「……あ」
時計を見る。
「もうこんな時間」
ミュラーの言葉が頭に浮かんだ。
――軽井沢で15時を回ったら、無理して先へ進まないこと。
「軽井沢までは、まだある……」
まゆは店を出て、地図を確認した。
時間を計算する。
このまま走れば、軽井沢を超えてまだ進めるかもしれない。
でも、軽井沢から先の道は知らない。
しかも今日は暑い。
ここから無理をして、途中で何かあったら――。
まゆは地図を握り直した。
「……やめよう」
時計を見る。
15時が近い。
「ミュラーさんの言った通りにしよう」
まゆはポケットから、兎清旅館でもらった連絡先を取り出した。
*
少し離れた場所。
まやは車の中から、まゆの様子を見ていた。
「……電話するみたいね」
まゆがスマートフォンを取り出す。
まやは少し安心した。
「ちゃんと自分で判断できたじゃん」
これまでなら、無理をしてでも先へ進もうとしたかもしれない。
でも今回は違った。
ミュラーの助言を思い出し、自分で止まることを決めている。
「それでいい」
まやは小さく呟いた。
妹が電話を終えるまで、車から出ることはなかった。
*
呼び出し音が鳴る。
なかなか出ない。
「……忙しいのかな」
まゆは時計を見る。
15時が迫っている。
もう一度、電話をかける。
「はい、萩原です!」
「あ、あの!」
思わず声が大きくなる。
「ミュラーさんに紹介していただいた、高田まゆといいます!」
「ああ、ミュラーから聞いてるよ」
「すみません、急に……!」
「大丈夫、大丈夫」
そう言う萩原の声の向こうから、何人もの人の話し声が聞こえてくる。
「今、どこにいるの?」
「東御市と小諸市の境あたりです。七億という焼肉屋さんで、今、食事が終わったところなんですけど……」
「うん」
「もうすぐ15時で……」
まゆは息を整えた。
「ミュラーさんから、15時を過ぎたら無理しないでって言われていて……」
「そうだね」
「それで……もし、ご迷惑でなければ……」
一瞬、言葉に詰まる。
「今日、泊めていただくことって……できますか?」
電話の向こうで、少し間があった。
まゆは不安になった。
突然の電話だ。
しかも、相手はミュラーの友人とはいえ、まだ会ったこともない。
「……もちろん」
返ってきた声に、まゆはほっとした。
「来ていいよ」
「本当ですか?」
「うん。ただね――」
萩原の声の向こうから、誰かが呼ぶ声がした。
「萩原さん、団体のお客さん来ました!」
「今行く!」
電話の向こうが急に慌ただしくなる。
「ごめん、今ちょっと大変なんだ」
「す、すみません!」
「場所は分かる?」
「地図があります!」
「じゃあ、それを見ながら来て。分からなかったら、また電話して」
「はい!」
「気をつけて来てね」
「ありがとうございます!」
電話が切れた。
まゆはスマートフォンを握ったまま、しばらく動かなかった。
「……泊まれる」
大きく息を吐く。
時計を見る。
15時になった。
まゆは自転車にまたがった。
「よし、行こう」
*
まやは、まゆが走り出すのを確認した。
「行き先は……軽井沢のペンションか」
まやも車を発進させる。
先回りしてしまえば、また妹の目に入る可能性がある。
「少し離れておこう」
まやはルートを確認した。
今日は妹が自分で判断した。
なら、自分が余計なことをする必要はない。
「ちゃんと成長してるじゃん」
まやは少しだけ嬉しそうに笑った。
*
軽井沢へ向かう道を進む。
やがて、教えてもらった場所が見えてきた。
そこには、ペンションがあった。
そして、その隣には焼肉店がある。
「焼肉レストラン……丸太小屋?」
まゆが自転車を止めていると、男性が駆けてきた。
「高田さん?」
「はい!」
「萩原です。よく来たね」
「急にすみません」
「いいって、いいって」
萩原は笑った。
「ミュラーから話は聞いてるよ」
「ありがとうございます」
ところが、萩原は少し慌ただしい様子だった。
店のほうから、何人もの人の声が聞こえてくる。
「実はね、今日、急に焼肉レストランに団体のお客さんが入ってね」
「そうなんですか?」
「ペンションのほうも忙しいし、焼肉店のほうも大変で……」
萩原は頭をかいた。
「まさかこんな日に団体客が来るとは思わなかったよ」
「……何か手伝えることありますか?」
まゆが言った。
「え?」
「泊めてもらうんですから、何かできることがあれば」
萩原は少し驚いた顔をした。
「いや、旅の途中なんだろ?」
「はい。でも、荷物を置いたら手伝えます」
「……本当に?」
「はい!」
萩原は少し考えた。
「じゃあ、お願いしようかな」
*
それから、まゆは焼肉レストラン丸太小屋の手伝いを始めた。
食器を運ぶ。
テーブルを片付ける。
簡単な仕事を教えてもらいながら、忙しく動き回る。
「助かるよ!」
萩原も忙しそうに店とペンションを行き来している。
まゆは汗をかきながらも、なんだか楽しかった。
自転車で一日走るだけではない。
旅先で誰かの役に立つこともある。
それもまた、旅なのかもしれない。
*
店の少し離れた場所。
まやは車を止め、遠くから丸太小屋を眺めていた。
「……あの子、何やってるのよ」
まゆが店の中を忙しそうに動き回っている。
まやは呆れたように笑った。
「泊めてもらうだけじゃ気が済まないのね」
しかし、その顔はどこか嬉しそうだった。
妹は誰かに助けてもらうだけではない。
自分にできることを見つけて、その人の力になろうとしている。
「まあ……いいか」
まやは車のシートに背を預けた。
「今日は、ここで見守っておこう」
やがて、まゆの仕事が一段落する。
萩原がまゆのところへやってきた。
「今日は本当に助かった」
「いえ、こちらこそ泊めてもらうので」
「ミュラーが気に入るわけだ」
「え?」
「いや、なんでもない」
萩原は笑った。
「ゆっくり休んでいきな」
「ありがとうございます」
まゆは笑顔で頭を下げた。
その日の旅は、軽井沢までたどり着くことでは終わらなかった。
15時を過ぎたら無理をしない。
ミュラーの言葉を守ったことで、また一人の人と出会った。
そして、その人の仕事を少しだけ手伝った。
その様子を、少し離れた場所からまやは見ていた。
「……うん」
まやは小さく頷いた。
今のところ、自分の出番はない。
それが一番いいことなのだ。
まやはエンジンを切ったまま、妹の姿をしばらく見守っていた。




