第三話 旅を続けるために
兎清旅館に泊まった夜。
夕食を終えたまゆは、ミュラーに声をかけられた。
「まゆさん。ちょっといい?」
「はい?」
「今日のパンクのことなんだけど」
「あ……」
ミュラーは笑った。
「せっかくだから、タイヤ交換を覚えていかない?」
「私がですか?」
「旅はまだ長いでしょう。自分でできたほうがいい」
「お願いします!」
*
旅館の前。
ミュラーはまゆのロードバイクを置き、工具を並べた。
「まず、後輪を外すところから」
「はい」
「最初にギアを重いほうにしておく。後輪のギアが小さい方がチェーンが緩くなり外れやすいです。」
まゆは教えられた通りに操作する。
「そう。それでいい」
後輪を外す。
「今日は私がやったけど、今度はまゆさんがやってみよう」
「はい」
まゆは少し緊張しながら、タイヤレバーを使ってタイヤをリムから外していく。
「力任せにしないで。少しずつ」
「こうですか?」
「うん」
チューブを取り出す。
「次に、タイヤの内側を確認する」
「パンクの原因が残っているかもしれないから?」
「その通り。できれば、チューブバルブの位置とタイヤのロゴを合わせて組み込んでおけばおけば、チューブに開いた穴の位置とパンクの原因は同じになるから探しやすくなるよ」
まゆは指で慎重に確認する。
「何もないです」
「よし」
ミュラーが新しいチューブを渡す。
「じゃあ、入れてみよう」
まゆはチューブをタイヤの中へ収めていく。
「ここからが難しいんですよね」
「焦らないこと」
タイヤを少しずつリムにはめていく。
最後の部分で手が止まった。
「硬い……」
「チューブを挟まないように。ここを少し押し込んで……そう」
「……できた!」
「じゃあ空気を入れて」
まゆがポンプを操作する。
タイヤが膨らんでいく。
ミュラーが全体を確認する。
「大丈夫」
「よかった……」
「これなら、次にパンクしても自分で対処できるね。前輪はギアが無いからもっと楽だよ」
まゆは交換したばかりのタイヤを見つめた。
「ありがとうございます」
「お礼はいいよ」
ミュラーは工具を片付けながら言った。
「旅を続けるために必要なことだから」
「はい」
まゆは大きく頷いた。
*
翌朝。
朝食を終えたまゆは、荷物をまとめていた。
出発の準備が整ったところで、ミュラーが一枚の地図を持ってきた。
「これ、持っていって」
「地図ですか?」
「軽井沢周辺の地図。それと……」
地図と一緒に、小さな紙を渡す。
「こっちは連絡先」
「誰のですか?」
「軽井沢でペンションをやっている友人」
まゆは驚いた。
「ペンション?」
「そう。もし軽井沢で予定が狂ったら、頼りなさい」
ミュラーは地図を広げた。
「特に覚えておいてほしいのは、15時」
「15時?」
「軽井沢で15時を回ったら、無理して先へ進まないこと。」
まゆは地図を見つめる。
「まだ明るいですよね?」
「明るくても、自転車で通れるのは車通りが少ない旧道。サルやクマも出るし、疲れている中、カーブの多い長距離の下り坂は危ないからね…」
「……分かりました」
「疲れていたり、天気が悪かったり、思ったより時間がかかったりしたら、そこで止まる。これは自転車旅で一番の基本だよ。」
ミュラーは連絡先を指差した。
「そのときは、この友人を頼りなさい」
「ミュラーさんのお友達なら、安心ですね」
「私からも連絡しておくよ」
「ありがとうございます」
まゆは地図と連絡先を大切にしまった。
「でも、無理をしないことが一番大事」
「はい!」
*
旅館の前。
まゆはロードバイクにまたがった。
「本当にありがとうございました」
「こちらこそ」
鞠子が笑顔で手を振る。
「気をつけてね」
「はい!」
ミュラーも手を上げた。
「タイヤがパンクしたら?」
「自分で交換します!」
「よし」
ミュラーが笑った。
「それから、軽井沢で15時を過ぎたら?」
「無理しない!」
「その通り」
まゆも笑った。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
ペダルを踏む。
兎清旅館が少しずつ遠ざかっていく。
昨日までのまゆなら、パンクしただけで途方に暮れていた。
けれど今は違う。
タイヤ交換の方法を知っている。
そして、無理をしそうになったときに頼れる場所も教えてもらった。
まゆは、ハンドルを握り直した。
次の目的地は、軽井沢。
ロードバイクは、東へ向かって走り出した。
次回から毎週月曜日公開となります。




