第8話 同じ夜を歩く
ヴィザの執務室は、厳格な規律を体現するように静まり返っていた。
陽光がステンドグラスを通り抜け、床に色鮮やかな幾何学模様を落とす。
だが、その彩りさえも今の二人にはどこか疎ましく感じられた。
机の上に置かれた『光滅の剣』は、かつてセレナの誇りそのものだった。
だが今、その冷たい銀の輝きは、彼女の肩に重くのしかかる枷のように見えた。
「セレナ、これはどういうことですか?」
ヴィザの問いは穏やかだった。
だが、人類最強の聖騎士が発するその静寂には、逆らうことのできない法廷のような圧迫感がある。
彼は深く組んだ指の間から、まるで壊れやすい宝物を検分するように、教え子であるセレナを見つめていた。
セレナは弁明を口にしなかった。
言い訳は、かつての自分が教えられた「弱さ」に過ぎないことを知っていたからだ。
彼女はゆっくりと、テーブルの上の剣へと手を伸ばす。
「今の私は……自分の気持ちが分かりません」
絞り出すような声だった。
「少しだけ、ひとりで……世界を巡らせてください」
彼女がそっと剣を滑らせ、ヴィザの領域へと押し戻す。
その所作はあまりに滑らかで、まるで長年連れ添った恋人に別れを告げるような、秘められた決意に満ちていた。
「返上します。……世界には、まだ私たちが救えていない人がいる」
セレナは顔を上げ、かつて師と仰いだ老人の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「『救い』の意味を……私はもう一度、自分の足で歩き、自分で確かめたいんです」
***
「……そうですか」
ヴィザは溜息をつくように言った。
その声の落ち着きは、死刑判決を下す裁判官のそれにも似ていた。
しかし、彼が剣を押し戻したその手には、震えるような哀惜の念が隠されていた。
かつて彼自身もまた、その『正しさ』の迷路に迷い込み、幾多の死者を踏み越えてきたからこそ分かる、共鳴する痛みだった。
「残念です。貴女ほどの才を持つ者は、黎明の歴史を見ても存在しない」
ヴィザは静かに続ける。
「次代の英雄――その名に相応しいのは、間違いなく貴女だった」
一拍置く。
その沈黙には、失望よりも惜別が滲んでいた。
「……そして、何よりも」
ヴィザの瞳が、ほんの僅かに揺れる。
「貴女ほど、救うに値する『優しさ』を備えた者も、いない」
沈黙が室内へ落ちた。
重く。
静かに。
まるで降り積もる雪のように。
ヴィザは椅子から立ち上がる。
窓から差し込む光を背負ったその姿は、老いた一人の男であると同時に、この世界の秩序そのもののようでもあった。
その背中には、彼が切り捨ててきた数多の命と、守り抜いてきた数多の命の重みが宿っている。
「その優しさは、神が与えた美徳です」
ヴィザは静かに言った。
「だが同時に……それは持ち主をどこまでも蝕む呪いにもなる」
彼は剣の柄へ手を置く。
セレナの手の上から、そっと覆うように。
「聖職という座に就くことは、他者の罪を背負うことだ」
低く。
重く。
その言葉には実感が滲んでいた。
「貴女はその重さに、一度押し潰された方がいい」
やがて手が離れる。
それが解放だったのか。
放逐だったのか。
セレナには分からなかった。
「旅に出なさい」
ヴィザは言う。
「何が正しいのか。何が間違っているのか」
その蒼い瞳が真っ直ぐセレナを見据える。
「誰の言葉でもなく、貴女自身のその瞳で見て、決断できるようになるまで」
***
セレナはほんの僅かに微笑んだ。
かつて戦場で見せた氷の微笑ではない。
心のどこかを縛っていた鎖が解けた後の、柔らかな笑みだった。
「……感謝します、師よ」
彼女は剣を手に取る。
かつて使命の象徴だった銀の刃は、今は彼女自身の意志を映す鏡のように鈍く輝いていた。
部屋を出ようと踵を返す。
その時だった。
「……それと、セレナ」
背後からヴィザの声が降ってくる。
その声音は先程までとは違った。
教官ではない。
師でもない。
地下施設で前原昇と対峙した時の、人類最強の聖騎士の声だった。
「――あのアンデッドに伝えてください」
一瞬。
室内の空気が張り詰める。
「『次はない』と」
セレナは振り返らない。
だが、その言葉が誰に向けられたものなのかは理解していた。
ヴィザは全てを知っている。
セレナが禁忌を犯したことも。
死にゆく怪物へ自らの血を与えたことも。
そして今なお、その怪物を救おうとしていることも。
「貴女が守るべきものと」
ヴィザの声が続く。
「私たちが滅ぼすべきものは、いずれ決定的に交差する」
老人は椅子へ腰を下ろした。
再び書類へ視線を落とす。
まるで既に話は終わったと言わんばかりに。
だが、それこそが彼なりの慈悲だった。
騎士団の一員ではなくなったセレナへ与えられる、最後の猶予。
最後の情け。
「行け」
ヴィザは言った。
その声には僅かな疲労と、言葉にできない祈りが混じっていた。
「……貴女が、英雄を殺す側に回らぬことを祈る」
セレナは背中を向けたまま静かに一礼する。
そして扉へ手を掛けた。
重い扉が閉まる。
その音は不思議なほど大きく響いた。
まるで墓石が閉じられる音のように。
それは黎明騎士団の聖騎士セレナが終わる音であり――
一人の少女が、自分だけの答えを探す旅へ出る音でもあった。
「……なんで、ついてきてんだ?」
僕は隣で黙って歩く彼女に問いかけた。
月光が二人の影を長く引き伸ばしている。
かつては太陽の下で輝いていた黎明の星が、今は死の静寂を纏う僕の横で、泥だらけのブーツを鳴らして歩いている。
その光景はあまりにも奇妙だった。
けれど同時に、ひどく心地良かった。
セレナはすぐには答えない。
しばらく沈黙だけが続く。
夜風が草原を撫で、銀髪を揺らした。
彼女の横顔は、あの地下施設で異形を斬り伏せていた聖騎士の顔ではなかった。
もっと幼い。
もっと弱く。
そして、ずっと人間らしかった。
やがて。
彼女は小さく呟く。
まるで自分自身へ言い聞かせるように。
「……正しさを見極めるため」
短い言葉だった。
だが。
そこにはあまりにも多くの迷いが詰まっていた。
信じてきたもの。
教えられてきたもの。
守ってきたもの。
その全てが揺らいだ今。
彼女はもう、自分が何を信じればいいのか分からなくなっている。
だから旅に出た。
だから剣を置いた。
だから今こうして、怪物になった僕の隣を歩いている。
セレナは少しだけ歩調を緩めた。
そして僕を見る。
ほんの少しだけ口元を緩めながら。
「……それに」
言葉を選ぶように続ける。
「貴方を放っておいたら、吸血衝動に抗えなくなって、誰かを殺しかねないでしょう」
その声はどこまでも冷静だった。
だが。
その奥にある感情を僕は知っている。
「そうなったら」
彼女は真っ直ぐ前を見たまま言った。
「今度こそ、私が貴方の首を斬らなきゃいけなくなる」
脅しではなかった。
警告でもない。
それは覚悟だった。
自分が救った命を。
自分の手で終わらせる覚悟。
どれだけ苦しくても。
どれだけ辛くても。
必要なら剣を振るうという決意。
そして同時に。
そうならないように最後まで見届けるという責任だった。
死を背負った者同士だからこそ交わせる、残酷で優しい約束だった。
***
「……そうかよ」
僕は小さく笑った。
昔みたいな笑い方じゃない。
少年だった頃の無邪気な笑顔でもない。
どこか自嘲が混じった。
吸血鬼らしい薄い笑みだった。
それでも。
胸の奥で凍りついていた何かが少しだけ溶けた気がした。
誰かに心配されたのなんて。
いったい何年ぶりだろう。
病院のベッドで天井の染みを数えていた日々。
友達が学校へ行き。
恋をして。
未来を語る中で。
僕だけが取り残されていたあの日々。
誰も悪くなかった。
けれど。
誰も僕の孤独を理解できなかった。
母さんだけだった。
本当に僕を見てくれていたのは。
だから。
今こうして。
誰かが自分の未来を心配してくれることが。
どうしようもなく嬉しかった。
***
夜道は続く。
果てしなく。
どこまでも。
銀と白。
聖と闇。
本来なら決して交わることのなかった二人が、今は同じ道を歩いている。
セレナの背には消えない罪があった。
騎士団を捨てた罪。
師を裏切った罪。
世界の秩序へ背を向けた罪。
彼女は全てを理解した上で歩いている。
逃げたのではない。
選んだのだ。
自分自身で。
自分の意志で。
僕にも背負うものがある。
前原昇という狂気が刻んだ呪い。
吸血鬼という異形の肉体。
そして。
死んでいった者達の記憶。
救えなかった命。
守れなかった未来。
それら全てが今も胸の奥に沈んでいる。
それでも。
僕たちは歩いていた。
まるで同じ未来を見ているかのように。
血を啜る吸血鬼。
聖剣を抱く元聖騎士。
誰が聞いても笑い話みたいな組み合わせだった。
だが不思議と。
足並みだけは揃っていた。
***
この先に何が待っているのかは分からない。
ヴィザが放つ追手かもしれない。
僕の中に眠る飢えが暴走するかもしれない。
あるいは。
僕たちが信じていた正義そのものが。
最も醜い姿となって立ちはだかるのかもしれない。
世界はきっと優しくない。
これから先も。
何度も間違えるだろう。
何度も傷付くだろう。
何度も誰かを救えないかもしれない。
それでも。
きっと。
この長く暗い旅路の果てで。
僕たちは見つける。
誰も見捨てなくていい答えを。
誰も奪われなくていい救いを。
そんな都合のいい奇跡を。
信じてみたかった。
なぜなら。
今、隣を歩く彼女の鼓動が。
僕の渇きを。
僕の孤独を。
確かに慰めてくれているからだ。
月が雲の向こうへ隠れる。
世界が深い闇に沈む。
けれど。
僕たちの前にはまだ道が続いていた。
どこまでも。
どこまでも。
終わりの見えない夜の向こうへ。
――夜は、まだ始まったばかりだった。




