第6話 憧れだった英雄
その時だった。
戦場を満たしていた聖力が変質した。
ヴィザも。
ライアンも。
ミレイユも。
その場にいた全員が気付く。
空気が変わった。
いや。
世界そのものが変わったような錯覚だった。
膨大な聖力が一点へ収束していく。
それはセレナだった。
銀髪が光に染まる。
白銀の鎧が輝く。
少女の周囲へ無数の光粒が舞い上がった。
まるで星々が彼女へ跪いているかのようだった。
その瞳にはもう迷いはない。
助けられなかった者達。
救われなかった者達。
怪物へ変えられた者達。
その全てを見たからこそ。
彼女は決断した。
「人を……」
静かな声だった。
だが戦場の誰もが聞いた。
「人をここまで痛めつけ」
剣が持ち上がる。
膨大な聖力が刀身へ流れ込む。
地下施設を照らしていた光が消える。
まるで世界中の光がその剣へ吸い込まれていくようだった。
「異形へ変えるとは――」
ヴィザの瞳が細められる。
ライアンが息を呑む。
前原昇ですら笑みを消した。
危険だと理解したからだ。
本能が。
魂が。
警鐘を鳴らしていた。
「許さない」
次の瞬間。
剣が振り下ろされた。
「終滅光刃」
音はなかった。
光だけがあった。
純白だった。
圧倒的だった。
それは斬撃ではない。
奔流だった。
神罰だった。
天より落ちる裁きそのものだった。
地下施設を埋め尽くすほどの光が一直線に走る。
前原昇は反応した。
だが遅い。
ヴィザとの激突の最中だった。
避ける暇はない。
防ぐ時間もない。
「な――」
前原昇の声が途切れる。
光が飲み込んだ。
黒紫の炎も。
白骨の馬体も。
瘴気も。
刀も。
その全てを。
存在ごと。
跡形もなく。
光が消えた時。
そこには何も残っていなかった。
前原昇という存在そのものが、この世界から消失していた。
誰もが勝利を確信した。
だが。
ヴィザだけは剣を下ろさなかった。
その視線は前原がいた場所ではない。
もっと奥。
魔法陣の中心だった。
そこにはまだ残っていた。
黒い瘴気が。
粘つくような闇が。
意思を持った生き物のように蠢いていた。
それは消えていない。
死んでいない。
前原昇の執念。
百年積み上げた狂気。
人を捨ててもなお辿り着こうとした願い。
その残骸だけが残っていた。
そして。
瘴気が動く。
蛇だった。
黒い大蛇のように。
一直線に。
魔法陣へ向かう。
「まずい!!」
ヴィザが叫ぶ。
ライアンが走る。
だが間に合わない。
瘴気は既にエンドへ辿り着いていた。
魔法陣へ縛られた少年の身体へ。
胸へ。
心臓へ。
魂へ。
黒い奔流が流れ込む。
そして。
エンドの瞳がゆっくりと開かれた。
焼け爛れた肉体が、まるで歪な呪いのように音もなく再生していく。
砕け散った骨は、意思を持つかのように独りでに組み上がり、ひしゃげた筋肉がミミズのように蠢きながら無理やり繋がっていく。
焦げた皮膚は蛇の脱皮のように剥がれ落ち、その下から、死を拒絶するような血色の良い白い肌が露わになった。
それは生命の奇跡ではなく、神への冒涜に等しい光景だった。
騎士たちの顔から血の気が失せていく。
彼らが突きつけた聖剣の輝きよりも、少年の肉体が死を塗り替えていく様の方が、遥かに悍ましく恐ろしかったからだ。
「……これは、まずいな」
ヴィザが低く、しかし鉛のように重い声で呟く。
その蒼い瞳に宿る理性が、目の前の現実を解剖していく。
「完全な吸血鬼……いいえ、死を超越した上位種へ変貌しつつあります」
地下施設へ、張り詰めた緊張が電流のように走った。
ライアンが大剣を握り直し、その指先を白く変色させる。
セレナの表情からも余裕が消え、強張った筋肉が戦慄を物語っていた。
エンド自身ですら、自分の身体に起きている異変を理解できなかった。
ただ一つ、細胞の奥底で何かが歓喜していることだけは分かった。
血が、肉が、骨が、これまでとは比較にならないほど高純度な魔力で活性化し、この身を支配している。
心臓は動いていない。
呼吸という肺の律動もない。
それなのに、確かに『存在』している。
否、人間という檻から解き放たれ、より残酷な高みへと押し上げられていた。
「ライアン」
ヴィザの宣告は、冷徹な判決だった。
「あなたがやりなさい」
「……了解しました」
ライアンが前へ出る。
聖光を纏った大剣が、地下室の埃を揺らす。
それは慈悲を排した処刑人の歩みだった。
一歩、また一歩。
その無慈悲な足音が、エンドの心臓代わりの飢えを逆撫でする。
「ま、待ってくれ……!」
震える声が響いた。
それは絶望の淵にある少年の、最後の嘆願だった。
エンドは必死だった。
恐怖で。
焦りで。
そして死にたくないという、皮肉にも人間時代から引き継いだ汚らわしい生存本能で。
「僕は覚えてる!」
叫び声が裏返る。
それはこの薄暗い地獄に、不似合いなほど幼い響きを持っていた。
「病院の窓から見てたんだ! あの日々も、母さんの温もりも、死ぬ前の痛さも……全部覚えてるんだよ!!」
喉が血を吐きながら裂けようとも、叫びをやめなかった。
僕は怪物じゃない。
僕のエンドという魂は、まだここにある。
「僕は怪物じゃない!」
「考えられる……話せる……まだ、生きてるんだよ!!」
沈黙が落ちた。
それは死よりも重く、この空気そのものを支配していた。
ライアンの足がピタリと止まる。
ミレイユは、自身の剣を握る手が震えていることに気づいた。
「……うそ、そんなの……」
セレナが小さく呟く。
その蒼い瞳がエンドを捕らえる。
吸血鬼。
死者。
本来なら魂など残らず、ただ飢えと殺戮の獣になるはずの存在。
それなのに、目の前の少年は恐怖に泣き、助けを求め、何よりも『自己』を主張している。
その光景は、騎士たちが信じてきた『異端』という概念を根本から揺るがしていた。
「だから何だ」
冷徹な氷のような響きが、すべてを凍らせる。
ライアンが吐き捨てた言葉は、少年の救いを真っ向から否定する断罪だった。
「化け物は化け物だ。言葉など、ただの空腹のあやかしに過ぎない」
「違う!!」
エンドが叫ぶ。
その瞳には、血の混じった涙が滲んでいた。
「僕はまだ生者だ! お前らだって見ただろ!」
指先を培養槽の残骸へ向ける。
そこには前原によって人間を辞めさせられた成れの果てたちが、今も肉を震わせていた。
「あの人たちだって、助けてって言ってたじゃないか!」
「お前らは、ずっとそうやって殺してきたんだろう!?」
騎士たちの表情が一瞬で歪む。
図星を突かれた怒りか。
あるいは否定しきれない後ろめたさか。
エンドは止まらない。
止まれるはずがない。
「生者の味方なんだろ!」
「人を守る騎士なんだろ!!」
「だったら……何で僕を殺すんだよッ!!」
叫びは地下施設という箱庭の中で木霊し、重く、痛々しく響き渡った。
その叫びは、ライアンの心臓を直接抉るかのように響いた。
セレナが唇を深く噛み締める。
鉄の味が口の中に広がったが、それを痛覚として認識する余裕すらなかった。
彼女はヴィザに向かって、一歩、また一歩と前へ出る。
「老師」
その声は震えていた。
だが、背中に隠した剣の柄を握りしめる彼女の瞳には、かつてないほどの確かな意志が宿っていた。
「……私は、反対です」
騎士としてではなく、一人の人間として、目の前の光景を否定しようとする。
「この子には理性がある。記憶も、感情も……私達と同じ『人』として生きている可能性があるんです」
「なら、殺す必要なんて……!」
「ダメです」
ヴィザがその言葉を遮った。
冷徹な、あまりに無機質な即答だった。
一切の迷いも、揺らぎもない。
英雄という名の法を執行する者の声だった。
「……殺しなさい、セレナ」
セレナが息を呑む。
ヴィザの蒼い瞳は、目の前の少年を『救うべき命』ではなく、『消去すべき計算式』として見つめていた。
「いいですか。今、目の前にいるのが少年であっても、それは一時的な現象に過ぎない」
ヴィザはライアンに視線を移し、さらにエンドを射抜く。
「吸血鬼です。それも前原昇が禁忌を塗り重ねて造り上げた完成体に近い個体です」
「今は理性があるでしょう」
「今は人間らしく泣き叫ぶこともできるでしょう」
そこで一度言葉を切る。
地下施設に漂う瘴気さえ、静まり返ったようだった。
「ですが――百年後は?」
「千人の命をその喉に吸い込んだ後も、今の貴様と同じことが言えると断言できますか?」
言葉の刃が、セレナの防御を打ち砕く。
反論しようとした口が、空気を求めて震えるだけで閉じられる。
「ライアン」
ヴィザの命令が地下施設を凍てつかせる。
「終わらせなさい」
「これ以上、この場に死者を留めてはならない」
「了解」
ライアンは躊躇うことなく大剣を頭上まで振りかぶった。
エンドの顔から血の気が完全に引く。
もはや表情すら保てないほどの戦慄が、その肉体を支配した。
「やめろ……ッ」
後ろへ下がろうとする。
だが身体は魔法陣に縫い付けられたように動かない。
「やめてくれ……!」
「僕は……僕は……ッ!!」
死にたくない。
その本能の叫びが喉から溢れるよりも早く、ライアンの剣が弧を描いた。
閃光。
パシュ――
あまりにも淡白な肉の切断音。
エンドの首が宙を舞った。
視界が凄まじい速度で回転する。
地下施設の天井。
鈍く光る培養槽。
ヴィザの白銀の甲冑。
ライアンの冷徹な横顔。
それら全てが万華鏡のように混ざり合い、最後に冷たい石床が正面へ収まった。
転がったエンドの首は、しかし、まだ『在った』。
意識は消えない。
思考も。
痛みも。
恐怖も。
全てが鮮明なまま繋がっている。
首だけになったはずなのに。
呼吸を忘れたはずなのに。
存在しない肺が空気を求めるように、喉の奥からヒューヒューと不快な音が漏れた。
ライアンの顔が忌々しげに歪む。
「……やっぱりな」
吐き捨てる。
それは彼が最も恐れていた証明だった。
「化け物だ」
「死すら超越する忌々しい吸血鬼め」
ライアンは冷徹な作業のように、転がるエンドの髪を乱暴に掴んだ。
もはや抵抗する肉体すらない。
ライアンはそのまま崩壊した地下施設の出口へ向かう。
瓦礫を踏み砕く音が、エンドの耳元で不気味なリズムを刻んでいた。
空は高く、広かった。
崩れ落ちた天井の裂け目から、午後の陽光が神々しいほど真っ直ぐに差し込んでいる。
それは吸血鬼にとって救いではない。
絶対的な死そのものだった。
ライアンはエンドの首を、その光の境界線へ放り出す。
あと数センチ。
あと数センチ転がれば、エンドは灰となって霧散する。
「生者の憧れだったんだぞッ!!」
エンドは叫んだ。
声が枯れ。
血の泡が喉を塞ごうとも。
その絶叫だけは止まらない。
「病院のベッドで何百回も!」
「何千回も読み返したんだ!!」
「お前らが人々を救う物語を!!」
涙も流せない目で。
ライアンを。
黎明騎士団を。
真っ直ぐ睨みつける。
「僕にとって、お前らは英雄だった!!」
「助けに来てくれる存在だと思ってた!!」
拳を握ることもできない。
髪を掴まれて吊るされた首だけの姿。
それでもエンドは、自分の魂そのものを振り絞るように叫び続けた。
「なのに……ッ!」
「皆の憧れのお前らが生者を殺すのかよ!!」
その言葉が地下施設に重く響く。
長く。
痛々しく。
誰の耳にも逃げ場なく突き刺さる。




